異世界で、二人乗り 第二部 第7話 「夜襲」
焚き火は頼りない。
乾いた枝を拾ってきたつもりなのに、芯が湿っているのか、炎は太くならず、赤い舌を出しては引っ込む。
ぱち、と小さく爆ぜるたびに、周囲の闇が一瞬だけ近づいて見えた。火の輪の外側は、闇というより“黒い壁”みたいに立っている。
森の匂いが濃い。
土の湿り気。濡れた葉。木の皮の渋さ。そこに馬の汗と、革と、鉄の匂いが混ざる。
鼻の奥に残るその匂いが、今夜は妙に重い。
幌馬車は焚き火から少し離れた、木の幹を背にできる位置に停めてある。
馬は鼻を鳴らし、前脚で地面を掻く。落ち着こうとしているのに落ち着けない。そんな仕草だ。耳がちょっとだけ後ろを向き、目だけが暗がりを追っている。
ローディス氏は馬車の脇で地図をたたみ、マレイア夫人に湯を渡していた。
マレイア夫人は器を両手で包むように持ち、湯気を見つめている。震えはない。けれど、目が落ち着かない。火を見る視線が、時々森へ吸い込まれる。
ガレンは馬車の前方に立っている。剣は抜いていない。だが腰は落ち、足の位置が“動ける形”だ。森を眺めているのではない。森を測っている。
セイルは後方。幌の布を指で軽く弾き、音の返りを確かめるように耳を澄ませていた。薄い布越しに、何かが触れていないか。そんな確認の仕方だ。
タイラーは焚き火のそばに座り、剣を膝に置く。鍋の湯が、ふつり、と息を吐いた。
あおいは火の輪の外側――暗い場所に座り、ルミナを膝に乗せたまま森を見ている。髪だけが闇の中で淡く浮いていた。
その時だった。
虫の声が、すっと消えた。
消える、というより、引き潮みたいにいっせいに遠ざかる。
焚き火のぱち、という音だけが世界に取り残され、耳が痛い。闇が急に“近い”。
馬が、短く息を吐く。鼻先をひくつかせ、首を振る。……危険を嗅いでいる。
あおいの指先が、ルミナを強く握った。突然、立ち上がる。
「……タイラー……!!」
声が低い。短い。
「右」
言い終える前に、蔦が揺れた。
体の右側の方が痺れている。何かを感じとっている。そのような感覚。
次の瞬間、
木の上から影が落ちる。焚き火の光を横切る黒い塊。
銀色が一瞬だけ光った。刃だ。
次の瞬間、剣が振り下ろされる。
タイラーの身体は、考えるより先に動いた。
膝の上の剣を掴み、抜く。金属が擦れる音が森に響き、背筋が粟立つ。
相手の刃の軌道が、妙にはっきり見えた。
線みたいに、狙いが分かる。
――いや、“分かる”というより、“来る場所が最初から決まって見える”。
遅い。そう思ったのか、そう“見えた”のか。
自分でも分からない。ただ、身体が勝手に間に合っている。
身を捻る。頬のすぐ前を刃が通り、熱が走る。
汗と革の匂い。荒い息。火の光が相手の眼を照らす。
鋭い。
殺すつもりの眼だ。
刃が空を切る音が遅れて耳に届く。
踏み込む。横薙ぎ。
手応えは重い。鈍い。
木を断つのとも違う、骨を断つ鈍さが腕に残る。
黒いものが焚き火の前に転がった。
腕だった。
男は、自分の腕が落ちたことを理解できずに立ち尽くす。
「ひっ」
喉から短い音が漏れ、その目がタイラーを見る。
――そこで止まってる暇はない。
迷いが入り込む隙がない。
タイラーが即座に動く。
迷う前に、身体を刺していた。
胸に刃が沈む。布を割き、肉に触れ、奥へ入る感触。
抜くと血が糸を引き、男が膝を折る。
倒れる音は土に吸われて小さい。だが血の匂いは一気に濃くなる。
焚き火の煙が、その匂いを押し戻してくるみたいに鼻の奥に絡みつく。
殺した。
タイラーはこの時点で、ようやく賊の襲撃を認識した。
周囲を見回す。
何が起きている。
あおいは、無事か。
「――っ!」
別の影が馬車の横から飛び出す。剣が光る。
狙いがぶれない。身体の使い方が雑じゃない。
“賊”というより、訓練の残り香がある。
あおいが動く。ルミナを掲げる。
空気が、目に見えない壁みたいに歪む。
あおいに剣を向けていた男の身体が、風に押し返されて吹き飛ぶ。
地面に叩きつけられ、転がる。起き上がろうとするが、剣を握り直す指がうまく動かない。
地面の湿り気が服を吸い、膝が滑る。
タイラーは駆けた。考えない。考えると足が止まる。
確実に止める距離――胸へ。
刺す。
二人目の身体が跳ねて、それきり動かなくなる。
焚き火の周りが、一瞬だけ広く見えた。
倒れた影。血の匂い。焦げていないのに、口の中が苦い。
遠くで枝が折れる音がした。――まだいる。
「ローディス殿、馬車へ!」
ガレンの声が闇を裂く。
ガレンはすでに二人を相手にしていた。
賊の動きが揃っている。踏み込みも、刃の返しも、どこか“教わった形”がある。素人の刃じゃない。
二人で挟み、体勢を崩してから斬る――そういう連携の癖が見える。
だが、ガレンの動きはさらに上だ。
受けているようで受けていない。刃をずらし、相手の足を崩し、呼吸を奪う。
一人の太腿に浅い斬撃。踏ん張れなくなった瞬間、もう一人の喉へ短い突き。
男が倒れる。呻きすら短い。
残った一人が距離を取る。ガレンは追わない。
追わないのに、前に出られない圧がある。
賊の足が、ほんの僅かに止まる――それだけで、格が違うのが分かる。
その時、馬車の近くで別の賊がローディス氏へ詰めた。
商人の動きでは遅い。間に合わない。
セイルが入り、剣を受け流した。
金属音が弾け、火花が散る。
セイルの受け方は“受け止めない”。刃を滑らせる。勢いを殺して、相手の足元へ視線を落とす。
相手の重心が前に乗った瞬間だけを待っている。
次の瞬間、セイルは半歩踏み込んだ。速い。
相手の懐に入り、刃を滑らせる。
賊が崩れ落ちる。
セイルは息を吐きながら、低く吐き捨てるように言った。
「……こいつら、フェルナント商会を襲った連中か!」
タイラーは意味が分からない。だが“知っている声”だった。
言葉の端に、怒りと確信が混じっている。
直後――矢が飛んだ。
ぶすり、と鈍い音がして、幌に穴が開く。
二本目。布が裂ける。
馬がいななき、首を振って後ろへ跳ねようとする。
幌馬車がぎし、と嫌な音を立てた。
矢は、火の光を受けて一瞬だけ銀色に見える。
角度がいやらしい。焚き火の輪を避け、馬車の側面を狙っている。人を狙う角度だ。
一本、焚き火のすぐ横を掠め、地面に刺さった。火の粉が散る。
マレイア夫人が息を呑む音が、幌の内側から聞こえた。
あおいがルミナを掲げ直す。
風が巻く。
矢の軌道が、それる。
当たるはずの場所から少しずれ、地面に突き刺さる。
幌の縁を掠めて森へ消える矢もある。
逸れる矢の“音”が怖い。空気を切り裂く、乾いた音。
当たったら終わる――その確信だけが増えていく。
一本、タイラーの肩口を狙う角度で飛んできた。
火の光に矢尻が光る。
次の瞬間、風が矢を横へ押し、矢はタイラーの頬の前を通って地面へ刺さった。
遅れて、頬に冷たい風が触れる。心臓が、ひとつ遅れて跳ねた。
セイルが顔を上げた。
「やるな、エルフさん!」
あおいは返事をしない。
ただ、矢の“当たりどころ”をずらし続ける。
息が乱れていない。だが、指先は僅かに力が入っている。
守る方向が明確だ――幌と、人の急所。
だが矢の数が増えたら終わる。
その焦りが、背中に冷たく貼り付く。
セイルが森の奥を睨む。
「弓、黙らせる!」
ガレンが前方で賊と対峙したまま、声だけで返す。
「行け。だが深追いするな」
セイルは一瞬だけ笑った。
「戻るさ」
そう言って矢の飛ぶ方向へ駆けた。
足音が湿った土を叩き、すぐ闇に溶ける。
あおいの風が、セイルの進路を“少しだけ”助ける。
矢がセイルに迫る。一本、二本。
風がそれを逸らし、矢は木の幹へ刺さる。
木が鈍く鳴る。刺さった音が、距離感を狂わせる。
セイルは矢の飛んできた方向へ、ほとんど音を立てずに走った。
地面は湿っている。
枯葉が足元で鳴るはずなのに、踏む位置を選んでいるのか、音が最小限だ。
一本、矢が闇から飛び出す。
低い。
腹を狙っている。
セイルは身体をひねり、矢をやり過ごす。
風がわずかに押し、矢は肩を掠めることなく背後の木へ刺さった。
(いい援護だ、エルフさん)
声には出さない。
もう一本。
今度は高い。顔だ。
セイルは走る勢いのまま身を沈める。
矢が髪を掠める。空気を裂く音が耳のすぐ横を通る。
敵の弓ながら、かなり練度が高い。
だが、距離はそう遠くない。
闇の向こうに、人の呼吸がある。
矢をつがえるわずかな擦過音。
弓弦が引き絞られる緊張。
(見つけた)
セイルは速度を落とさない。
三本目が飛ぶ。
今度は予測で跳ぶ。
矢が地面を抉り、土が跳ねる。
木の陰に影が動いた。
弓使いは、焚き火の光が届かない場所を選んでいる。
訓練された位置取りだ。
正面から突っ込めば、次の矢で終わる。
セイルは一瞬だけ足を止め、右へ回り込む。
あえて枝を踏む。
ぱき、と音が鳴る。
弓使いがそちらへ矢を放つ。
その瞬間、セイルは逆へ踏み込んでいた。
距離が、詰まる。
弓使いの目が見開かれる。
矢をつがえ直す時間がない。
弓を盾のように前へ出す。
遅い。
セイルの剣が弓を叩き折り、そのまま男の肩口へ滑る。
血が噴き出す。
男が呻き、膝を折る。
だが、倒れきらない。
「……っ」
弓使いは腰の短剣へ手を伸ばす。
(根性はある)
セイルは一歩踏み込み、間合いを潰す。
短剣が抜かれるより早く、喉元へ刃を走らせた。
男が崩れる。
呼吸が止まる。
セイルは一瞬だけ周囲を確認する。
――もう一人いる。
気配が、ある。
視線を上げる。セイルはゆっくりと敵を探す。
ガレンは賊と向き合っていた。
おそらく、こいつらは引きつけ役だ。
一人はダウンしたが、もう一人は踏み込まずに牽制を続けている。
そこへ、さらにもう一人が森から現れる。――三人目か。
増援だ。息の整った足音。剣の構えが崩れていない。
二方向から詰める動きが“兵”のそれだ。
だが、これで状況は動く。
ガレンは下がらない。剣先の角度だけを変え、視線は二人を同時に捉える。
相手の呼吸を読むように、僅かに肩が動く。
一人が踏み込んだ瞬間、ガレンが“浅く”斬る。手首。
剣が落ちる。土を叩く鈍い音。
落ちた剣を拾おうとした瞬間が、次の隙だが――拾わせない。
もう一人がその隙を狙う。
ガレンは体ごと半歩ずらし、喉へ短い突き。
三人目が倒れる。
ガレンが三人を斬った。
斬ったというより、終わらせた。
その事実が動きで分かる。
――その瞬間だった。
蔦が動き、木と木の間から人が動く。
上から影が落ちる。
蔦が大きく揺れる。
木の上から一人の男が飛び込んできた。馬車へ、一直線。
速い。というより迷いがない。
狙いが“馬車の中”だけに固定されている。
地面の戦いに関心がない。役割が違う。
「きゃあっ!」
マレイア夫人の悲鳴。
男は幌を切り裂いて中へ消えた。布が裂ける音。木枠が軋む音。
続いて鈍い金属音。麻布の重い音。封蝋が割れる乾いた音。
幌の内側で、器が落ちる音もした。
金だ。
麻袋が落ち、金属同士がぶつかる音がする。
中身が硬い塊であることが、音だけで分かる。
男が幌から飛び出す。肩に麻布袋を担いでいる。
「ずらかるぞ!」
男は笛のような物を口に咥えた。
動きが慣れている。奪う動きが仕事みたいに速い。
男は蔦へ跳ぶ。逃げる。
ローディス氏が男の腕を掴もうとする。
「待て――」
刃が走る。
「ぐっ……!」
衝撃に押し出された声。断末魔じゃない。
肩から胸へ、赤い線が走る。血が噴き出す。
ローディス氏が崩れ落ちる。力無く地面に倒れる。
幌の内側で、マレイア夫人が言葉にならない声を出す。
馬車から飛び出してきて、地面のローディス氏に駆け寄る。
だが手を伸ばそうとして、伸ばせない。
触れたら血が増える――そう分かっている動きだ。
ガレンは馬車前方から駆ける。
セイルは弓へ走っている。まだ戻らない。
あおいは矢を逸らしている。止めれば幌が蜂の巣になる。
ローディス氏を切った男は蔦へ。上へ。
タイラーが気付き、蔦の上の男を追いかける。
だが、次の瞬間、男が木の闇に溶けてしまう。
――ここで逃げられたら終わる。
理屈じゃない。身体が先に動いた。
雷鳴。
森が白く裂けた。
森が白く裂ける。一瞬光に覆われる。
光が落ち、音が一瞬だけ消える。
焚き火の火が、一瞬だけ青白く見えた。
タイラーの周囲に、また、あの白い光が浮かび上がる。
直後に、蔦から木の上に飛び乗ろうとする男にぶつかる。
男の身体が硬直する。
「……っ」
声ともつかない音が漏れる。
男が意図しているものではない。全身が痙攣するような動き。
黒煙を上げて、男が垂直に落下する。
焦げた匂いが一気に広がる。革と肉が焼ける匂い。
地面を叩く、重い音。
その瞬間、森の奥から叫びが上がった。
「かしらー!」
――そこで初めて、タイラーの電撃を受けた男が“頭”だと分かる。
叫びの声が、思わず姿をさらす。
叫んだ弓使いの男が、木の影から半身を出していた。
頭の落下を見て、動揺している。矢をつがえる手が止まっている。
怒りと恐怖が混じった顔が、焚き火の光で一瞬だけ見えた。
その瞬間、セイルが現れた。
無言で踏み込み、弓使いの男を斬る。
言葉がない。
刃が走り、男が崩れる。
弓が地面に落ち、矢がばらばらと散る音がした。
矢が止まった。
幌を貫く音が消える。
焚き火のぱち、という音が戻る。
森の虫の声は、まだ戻らない。
戦いは、そこでようやく終わった。
――終わった、はずなのに、耳の奥でまだ雷鳴が鳴っている気がする。
自分の心臓の音が、雷の残響みたいに響く。
「ローディス殿!」
ガレンの声。
タイラーも我に返り、ローディス氏の元へ走る。
血の匂いが濃い。
ローディス氏の呼吸は浅い。
マレイア夫人は声にならない声で、夫の肩に手を伸ばそうとして伸ばせない。
ガレンがローディス氏の傍らに膝をつく。
周囲も見ている。森も見ている。
警戒する姿勢のまま、脈を確かめ、傷口を押さえる。
「ローディス殿、息はある。だが出血が多い」
タイラーが手を当てる。
治癒術を流す。
光が滲む。
だが――雷の魔法の直後に、さらに治癒術を流すのは重い。
魔力が底を見せ始める感覚がある。削られるというより、引き抜かれる。
視界の端が白む。耳が遠い。
膝が抜けそうになるのを、歯を食いしばって堪える。
(……このまま続けたら、オレが倒れる)
自覚した瞬間、治癒が乱れそうになる。
乱れたら、ローディス氏が死ぬ。
「……あおい、頼めないか」
声がかすれる。頼むというより絞り出す声。
あおいは一瞬で理解する。タイラーの顔色と息を見て、迷わず手を重ねる。
「うん」
ルミナが淡く光る。魔力が収束しているような光。
あおいの治癒は揺れが少ない。風のように一定で、傷の周りが静かに落ち着く。
出血が止まっていくのが目で分かる。
タイラーは手を引く。
引いた瞬間、身体の中が空洞になったみたいに軽く――同時に重い。
雷の後の疲労が、遅れて骨に来る。
ガレンが短く息を吐く。
「……助かる、大丈夫だ」
雷の匂いが、まだ残っていた。
焦げた革と肉。
それに混じって、湿った土と、折れた枝の青臭さ。
焚き火の煙がそれらをいっぺんに抱えて、森の中に漂わせている。
タイラーは幌馬車の縁で膝をつき、荒い息のまま、自分の手を見た。
手のひらが妙に軽い。
空洞になったみたいに、力が入らない。
雷の魔法を放った反動が、ようやく身体の奥に追いついてきた。
――遅れてくる。
それが怖い。
今は平気な顔をしているのに、あとから何かが崩れる感覚。
この世界に来てから何度も経験した。
幌馬車の横では、ガレンがローディス氏の傍らに膝をつき、布を当てたまま目を離していなかった。
ローディス氏の顔色は青い。呼吸はある。浅いが、ある。
マレイア夫人は、目に涙を浮かべ、祈っている。
あおいが治癒術を続けていた。
ルミナが淡く光る。
あおいの額には、汗が滲んでいた。
ガレンが低く言う。
「ローディス殿、出血は止まってきた。……マレイア夫人、今は揺らすな」
「……はい」
マレイア夫人の返事は、震えていた。
タイラーは周囲を見回しながら、焚き火の近くに向かった。
膝が抜けそうになるのを、焚き火の熱で誤魔化した。
熱があるうちは、人間は立っていられる。
鍋に水を入れ、湯を沸かす。
外はまだ闇が濃い。
だけど、戦いの音は消えている。
消えているからこそ、逆に耳が拾ってしまう。
木の枝が擦れる音。
遠くで小動物が走る音。
そして、血が土に染みていく気配。
タイラーは、周囲の空気が冷え込んできた事を知った。
セイルが闇の中で動いていた。
賊の死体を一箇所に集め、武器を外し、矢を回収している。
数を確認する時だけ、ほんの僅かに動きが止まる。
息が乱れていない。戦闘のあとにありがちな興奮がない。
ガレンが幌の近くから声をかける。
「セイル、周囲を見ろ。まだ残りがいる可能性もある」
「ああ」
セイルは短く返し、死体の影を足で転がして顔を確かめる。
胸元を探り、何か紙片のようなものを見つけて捨てる。
価値がないのではない。今は余計なものを拾う場面じゃない、という判断が速い。
焚き火は、いったん小さくなっていた。
タイラーは倒れていた枝を拾い、火にくべた。
火は、ためらいながらも舌を伸ばし、枝を食う。
ぱち、と爆ぜる音が戻る。
火が戻ると、世界の輪郭が戻る。
鍋の湯が沸いてきた。
茶葉を落とす準備をする。
手順を追うことで、頭の中の何かが“生活”に戻ろうとする。
マレイア夫人は、夫の傍から離れられない。
でも、ずっと血の匂いの中にいたら、心が壊れる。
タイラーは湯を注ぎ、少し冷ましてから、マレイアに器を渡す。
「マレイアさん……お茶、飲めますか。かなり冷えてきた」
マレイア夫人が息を吸う音がした。
「……ありがとうございます。タイラーさん」
声が弱い。
器を受け取る手が震えている。
ガレンが同じ空間にいる。
ローディス氏の傍らにいる。
そのことが、周囲の“安全”を支えている。
それでも、夜は長い。
しばらくして。
焚き火の輪の外で、戻ってきたセイルが言った。
「……九人だ」
タイラーが顔を上げる。
セイルは、集めた死体の影を見下ろしながら、淡々と続けた。
「頭が一人。あと八人。間違いない」
数字が、地に落ちる。
戦闘中は数えられない。
戦闘が終わって、こうして“形”になって初めて、数字が意味を持つ。
九人。
九人の影が、森の夜をこんなに重くする。
ガレンが低く息を吐いた。
「……剣筋が揃っていた」
タイラーは、その言葉に引っかかる。
剣筋。
賊の剣は、荒っぽいものだと思っていた。
だが今夜の刃は違った。雑じゃない。狙いがある。連携がある。
ガレンは続ける。
「王国兵だな。兵落ちの集まりだ」
“賊”という言葉が、少しだけ形を変える。
悪党の集まりではなく、壊れた人間の集まり。
戦場の臭いを持ったまま、森へ落ちてきた連中。
セイルが続ける。
「かなり訓練している動きだったな。弓の位置も良かった」
「戦が終われば、余る兵も出る。食えねば……こうなる」
ガレンが、自分と重ねているように言う。
焚き火の音が、ぱち、と鳴った。
その音が、言葉の代わりみたいに聞こえた。
「だがタイラーの雷の魔法はすごかったな」
沈んだ空気を変えるようにセイルが言う。
「咄嗟にな。逃げられそうだったから」
タイラーが答えた。
だが、話題は続かなかった。
マレイア夫人が焚き火に寄ってきた。
ガレンが無言でローディス氏のそばに戻った。
タイラーも立ち上がりかけたが、ガレンが視線だけで制した。
今はガレンがついている。
タイラーが入る場面じゃない。
マレイア夫人が焚き火の前に腰掛ける。
血の匂いを纏っているのに、姿勢を崩さない。背筋はしっかりと伸びている。
火の前に座る。器を両手で包む。
湯気が、目の前で揺れる。
その横へ、あおいがすっと座った。
言葉はない。
ただ、マレイア夫人の手を握る。
マレイア夫人の肩が、ほんの少しだけ下がる。
その“少し”が、どれほど大きいかを、タイラーは知っている。
マレイア夫人が、震える声で口を開いた。
「……フェルナント商会は」
セイルが焚き火の向こうで顔を上げる。戦闘の最中に漏れたあの一言が、ここにつながる。
「会長は高齢で……甥のロナンが、取り仕切っていました」
名前が出た瞬間、声が一段細くなった。
泣きそうなのに泣けない声――いや、泣いたら崩れると分かっている声だ。
「若いのに……しっかりしていて。会長も、あの子に任せて安心だと……」
そこで息が止まる。
湯気が揺れているのに、マレイア夫人の目はそれを見ていない。焚き火の赤の向こう側――“黒い壁”の中を、見ている。
「……私、ロナンのことを……何度も叱ったことがあるんです」
突然、そんな言葉が落ちた。
「“慎重すぎる”って。
“護衛を増やせ”って言うたびに……私は、商売は勢いだって……」
声が震える。湯を包む指が白くなる。
「ロナンは、いつも言ったんです。
“森の夜は、音が消える。音が消える夜は、誰も守ってくれない”って」
マレイア夫人が一度、喉を鳴らした。飲み込めないものを飲み込む仕草。
「……分かっていたんだと思います。
分かっていたのに――」
言葉が途切れる。肩が、ほんの少しだけ上下した。呼吸を整えようとしているのに整えられない。
その横で、あおいがすっと座り、マレイア夫人の手を握った。
何も言わない。けれど、その温度が、崩れそうなものをぎりぎり支える。
マレイア夫人は、続けた。
「……この道で、襲われたんだと思います。
護衛も……たぶん、間に合わなかった。
夜襲で……体勢を整える前に……」
焚き火が、ぱち、と爆ぜた。
その音にすら驚いたように、マレイア夫人の瞳が揺れる。
視線が宙をさまよい、やがてタイラーとあおいに落ちる。
「タイラーさん……あおいさん……危険な目に合わせてしまって、ごめんなさい」
頭を下げようとする。
あおいが、握った手の力でそっと止めた。
「……マレイア」
エルフには敬称がない。それは無礼ではなく、距離の取り方の違いだ。
マレイア夫人は、あおいの手の温かさに救われたみたいに、目を伏せる。
タイラーは言葉を探し、ようやく口にした。
「……護衛仕事ですから。危険は……承知の上です」
言った瞬間、自分の声が空っぽに聞こえて嫌になる。
だが、今はそれ以上の言葉が見つからない。
マレイア夫人は小さく頷いた。
「……分かっているんです。分かっているのに……」
そこで、ようやく“本音”が出た。
声が細い。けれど、逃げない。
「今夜……エドヴァルが斬られた時……私、何もできなかった。
叫ぶことしかできなかった。
助けてって……声を出すことしか」
唇が震える。息が詰まる。
「フェルナント商会の時も、きっと……そうだったんでしょうね。
ロナンも……護衛の人たちも……
助けて、って言う暇もなかったのかもしれない」
“かもしれない”が、刃みたいに刺さる。
「エドヴァルは、こういう時に無理をする人で……
でも、無理をしないと、商会は守れない。
分かっているのに……」
言葉が尽きた。
焚き火の音だけが残る。
その沈黙の中で、あおいはマレイア夫人の手を握り続けていた。
タイラーは、何も言えずに火を見つめた。
――闇はまだ、“黒い壁”のままそこに立っている。
言葉の端に、夫を責めるニュアンスはない。
むしろ、祈りに近い。“帰ってきて”という祈り。
ガレンが幌馬車の方向から言う。
「マレイア夫人。ローディス殿は生きる。……だが今夜は、ここにとどまる」
「セイル、手を貸せ」
「はい」
セイルが立ち上がる。
二人でローディス氏を馬車に寝かせた。
タイラーも手伝う。
マレイア夫人に毛布をかけるあおい。
涙は浮かべたが、泣かない。泣けば崩れるから泣かない。
その強さが痛い。
夜はさらに深くなり、やがて薄くなる。
焚き火が小さくなり、灰が増える。
森の湿気が冷たくなり、骨に染みる。
焚き火の前のタイラーは、ずっと妙に落ち着いていた。
落ち着きすぎている。それが、自分でも気持ち悪い。
剣を拭き、鞘に戻し、火の近くに置く。
手順を追っている間は、心が“生活”に戻る。
だが、夜明け前。
ふと、剣を握ろうとして――手が震えた。
止まらない。力を入れるほど震える。
隠そうとすると、もっと震える。
震えているのは、寒さじゃない。
オレは今日、三人の命を奪った。
ニュースで見たことがある。
「三人殺害」という文字。
アナウンサーが淡々と読み上げる声。コメンテーターが眉をひそめる映像。
あれは、遠い世界の話だった。いま、その数字が自分の手の内側にある。
腕を切り落とした男。
もう戦えなかったかもしれない。それでも刺した。
あおいに剣を向けた男。迷いはなかった。
守るという言い訳で、迷いを潰した。
頭の男。
雷で焼いた。
顔もろくに見ていない。焼けた匂いだけが残っている。
三人。
もしここが元の世界なら、オレは確実に裁かれる。
連続殺人犯として、人生はそこで終わる。
オレだけでは済まない。親も親戚も、親しい友人も。会社も。
全てに暗い影響がある。
殺した男達にも人生があった。
親がいたかもしれない。友がいたかもしれない。
兵落ちだとしたら、やむを得ない事情があったのかもしれない。
タイラーは焚き火を見た。
火は、いつも通りに燃えている。
世界は、いつも通りに朝へ向かっている。
なのに、自分だけが遅れている。
この世界に降り立ち、モンスターは退治した。
その流れで、いつか、人を殺すこともあるのではないかと思っていた。
覚悟はしていない。できるはずもない。
だが、人を殺す場面は唐突に訪れる。
受け入れる、割り切る。
現代社会に生きていて、そんな事できるはずはない。
――だが同時に思う。
やらねば、やられていた。
その事実が、問いをもう一度、黙らせる。正しさではない。納得でもない。
ただ、血の匂いと同じくらい確かな事実だ。
手の震えは止まらない。
「タイラー」
あおいが隣に座る。
先ほど休んだと思ったが、いつ起きたのか分からない。足音がない。
何も言わず、震える手の上に手を重ねてくれる。
温かい。
震えは止まらない。でも、隠す必要がなくなる。
あおいが小さく言う。
「……大丈夫」
森に朝の光が差し込む。昨日と同じ森なのに、どこか違う。
あおいの水色の髪は、輝いていた。




