異世界で、二人乗り 第二部 第3話 「働く」
朝の気配は、音よりも先に匂いで届いた。
パンを焼く香ばしさ。
どこかで湯を沸かす音。
窓の外から聞こえる、低く抑えた人の声。
リューデンの朝だ。
タイラーは、浅い眠りの底から、ゆっくりと意識を引き上げられる感覚を味わっていた。
目を開ける前から、すぐそばに気配がある。
あおいの匂いだ。
近い。
距離を確かめるまでもないほど。
呼吸が、同じ高さにある。
次の瞬間、唇にやわらかな感触が触れた。
短く、迷いのないもの。触れて、すぐに離れる。
「……おはよう」
囁くような声。
まぶたを開くと、あおいがそこにいた。
朝の光を背にして、少し逆光になった横顔。
「……おはよう」
声が、まだ完全には目覚めていない。
あおいは、何も言わずに小さく笑った。
昨夜のことを、言葉にする必要はない。
触れたまま眠り、同じ時間を過ごした。
それだけで、すでに共有されている。
タイラーは上体を起こし、軽く息を吐いた。
部屋の中は、静かだ。
夜の名残は消え、町はもう動き始めている。
「……朝、けっこう寝ちゃったな」
「町だから。ゆっくりしちゃったね。」
あおいは答え、微笑む。
野宿からの解放。安心感。
疲労していたのかも知れない。
ゆっくり眠ってしまった。
リューデンは活気のある町だ。
窓から通りを歩く人影が見える。まったく途切れない。
リューネルとはどこか違う。
森とも違う。
ここは、旅の途中に立ち寄る村や集落ではない。
人が留まり、生活を回す町だ。
二人は身支度を整え、階下へ降りた。
宿の朝食は簡素だった。
硬めのパンに、薄いスープ。
それでも、温かい。
「町の……食事だね」
あおいがそう言って、スープを口に運ぶ。
「町の宿だからな」
言いながら、「何言ってんだ」と自分にツッコむ。
タイラーは周囲を見回す。
同じように朝食をとる旅人。仕事の前らしい男たち。
既に出立準備を終え、出ていくパーティー。
誰も、特別なことはしていない。
それが、妙に現実的だった。
(……昨日までとは、違うな)
リューネルでは、どこか“守られている”感覚があった。
知り合いがいて、顔見知りが増えて、空気が緩んでいた。
だが、ここは違う。
誰も、こちらを気に留めていない。
通り過ぎる存在だ。
朝食を終え、部屋へ戻る。
荷物は少ない。
それでも、腰の袋の重みは確実に変わっている。
宿代。
食事代。
入町銭。
一つ一つは妥当だ。
だが、積み重なれば、確実に削れる。
タイラーは袋を持ち上げ、無意識に中身を確かめていた。
(……思ったより、減る)
先ほど、宿への滞在を三日分支払ったばかりだ。
漠然とは考えていた事だが、今になって鮮明に浮かび上がる。
走れる距離。
残りの日数。
王都セレスティア。
リューデンから、あと四日。
数字だけを見れば近い。
だが、この町の物価を見てしまったあとでは、楽観はできない。
「……考えが、甘かったよなぁ」
独り言のように漏れる。
あおいは、窓辺で外を見ていた。
その背中に、声をかける。
「なあ」
「なに?」
振り返る声は、落ち着いている。
「このまま行くとさ……」
言葉を切り、少し考える。
「セレスティアまで、持たない」
あおいは、すぐには返事をしなかった。
一拍置いてから、ゆっくり頷く。
「……お金、かかるね」
それだけ。
森にいた頃の彼女は、金をほとんど必要としない生活をしていた。
それでも、宿や食事の価値を理解していないわけじゃない。
「必要だよね」
続けて、そう言う。
「ちゃんと休む場所も、ごはんも」
その言葉に、少しだけ救われる。
「少し、稼ごうか」
自然に、そう口にしていた。
あおいは迷わず頷いた。
「うん。一緒に」
二人で宿を出る。
軒下には、ジュリオが静かに置かれている。
町の中では、今日も動かさない。
徒歩で進む距離。
歩く速さ。
ギルドの印が見えたとき、タイラーは小さく息を整えた。
ここから先は、旅人としてではなく、働く側として、この町に足を踏み入れる。
扉を押し開ける。
中には、すでに人がいた。
依頼書。
受付。
立ち話をする冒険者。
空気が、少しだけ張りつめている。
「……ここだね」
あおいが、小さく言う。
「ああ」
タイラーは一歩、前に出た。
ここから先は、昨日の夜の延長じゃない。
生活を続けるための、現実だ。
ギルドの中は、昼でも薄暗かった。
灯りはある。
だが、窓から入る光は少なく、壁際にはいつも影が残る。
影の中に、視線がある。
依頼書を見ているだけで分かる。誰かがこちらを見て、値踏みしている。
敵意ではない。ただ、ここではそれが普通だ。
タイラーは掲示板の前に立ち、紙を一枚ずつ見ていった。
討伐。
護衛。
採取。
倉庫整理。
運搬の補助。
派手な依頼ほど、紙が新しい。
手が伸びている。
報酬も高い。逆に、誰も見向きもしない紙は、端が擦れている。
(……まずは、ここからだな)
目に留まったのは、地味なものだった。
《街道脇の害獣駆除》
《倉庫整理・荷運び》
《夜間見張り》
危険度は低い。
報酬も多くない。
けれど、確実だ。いきなり高額依頼を狙うのではない。
継続して、着実に稼ぐことが目的だ。
カウンターへ向かうと、受付係が顔を上げた。
「依頼か?」
「ああ。これ」
紙を差し出す。
受付係は目を通し、短く頷いた。
「冒険者登録証はあるか?」
初耳だった。
「いや、持ってないが」
「なら、先にギルドへの冒険者登録からだ」
リューネルと違い、ここリューデンでは、冒険者の依頼仕事は登録制だった。
簡単な登録だが、人が多い町は色々あるのだろうと思った。
渡されたのは名前や出身地、種族、得意な武器や魔法などの簡単な質問事項が書かれている用紙だった。
用紙といっても、紙は厚く、繊維が粗い。端も揃っていない。
現実世界の印刷用紙のように整ったものではない。この世界の紙は、まだ手仕事の匂いが残っている。
登録用紙の端を、親指でなぞる。
ざらりとした繊維が、爪に引っかかった。
紙が軽いんじゃない。
オレが、軽かっただけだ。この町で、まだ何者でもない。
だから ――働く。
ギルドの扉を出た瞬間、空気が少しだけ軽く感じた。
紙一枚。
名前を書いて、サインしただけ。
それだけなのに――
「働く場所を得た」
そんな感覚があった。登録に銀貨1枚取られたけど。
オレは思わず、手に持った薄い金属の登録札を指で弾く。
軽い音がした。
軽い。
本当に軽い。
けど、その軽さの中に、妙に重たい現実が詰まっている気がした。
食うために働く。
泊まるために働く。
進むために働く。
――ああ。
現実世界と、何も変わらない。
むしろ、こっちの方がシンプルだ。
「……」
隣で、あおいが静かに札を見つめている。
「これで……仕事、できるんだね」
「そうだな」
オレは肩をすくめる。
「いきなり大仕事ってわけにはいかないけどな」
「うん」
あおいはうなずいた。
その声は、少しだけ――
安心したように聞こえた。
最初の仕事は、拍子抜けするほど地味だった。
倉庫整理。荷物の仕分け。
町外れの商人の倉庫に積まれた荷物を、分類して積み直すだけの仕事。
魔物も出ない。
危険もない。
ただ、重い。
ひたすら重い。
木箱を持ち上げるたびに、腕の筋肉が悲鳴を上げる。
「……っ」
思わず息が漏れる。
現代でこんな肉体労働、何年ぶりだろう。
現実世界で会社員だったオレは、パソコンと会議室が仕事場だった。
肉体労働は、学生のバイトの時以来。
「あおい、大丈夫か?」
振り返ると――
彼女は黙々と荷を運んでいた。
無駄のない動き。
軽やかで、静か。
まるで森の中を歩くみたいに、音を立てずに仕事をしている。
「……」
無言で仕事をこなす、あおい。
オレは苦笑する。
この世界に来て、不思議と疲れなくなった。戦いの時は想像した動きができる。
不思議な力を身につけた。
でも、なんだろうな。
働くあおいの姿を見ていると、やっぱりこの世界の住人なんだと思う。
体の使い方が違う。
「まさかこの年になって、こういう仕事をするとはな。」
思わず小さく呟いた。
でも、嫌じゃなかった。
むしろ――
変な充実感があった。
五日間。
あおいと一緒に同じような仕事を続けた。
害獣駆除。
倉庫整理。
荷運び。
どれも地味で、誰でもできる仕事。
報酬も多く無い。
それでも――
「ありがとうな、冒険者の兄さん。困ってたんだよ!」
依頼主の言葉が、妙に胸に残った。
現代では、あまり聞かなくなった言葉だ。
評価も、数字も、効率もなくて。
ただ、目の前の人が助かる。そういう仕事。
五日目の夕方。
さすがに体が重くなってきた頃だった。
倉庫の外に出た瞬間、あおいがぴたりと止まった。
「……」
無言。
わずかに機嫌が落ちている。
でも分かる。
もう知っている、このパターン。
旅の途中で気づいていた。
あおいは空腹になると、少しだけ不機嫌になる。
「はいはい」
オレは苦笑しながら通りを見渡す。
角に、小さな屋台が出ていた。
炭火で肉を焼いている。焦げた脂と香草の匂いが混ざっている。
串を二本買って、一本を渡す。
あおいは無言で受け取り、そのままかぶりついた。
もぐもぐ、と真剣に噛む。
目が合うと、ほんの少しだけ頬がゆるむ。
……こういうところだ。
夜。
宿の部屋。
オレは硬いベッドに腰掛けながら、銀貨を指で弾いた。
軽い音が、部屋の中に転がる。
少ない。
正直に言って、少ない。
なんとか二人で食べて、泊まれる程度だ。
指先で、無意識に袋の重みを確かめる。
――想像すれば、増えるのかもしれない。
この世界に来てから、理屈の通らないことはいくつもあった。
剣も、ガソリンも、テントも、出てきた。
なら――
金貨が百枚、ここに入っていると考えたら?
一瞬だけ、本気でそう思う。
でも。
オレは銀貨を袋に戻した。
「……違うよな」
あおいは何も言わない。
ただ、隣にいる。
食うために働く。
泊まるために働く。
進むために働く。
それでいい。
それでいいと、思いたい。
「……」
あおいが隣に座る。
少し距離が近い。
最近はもう、それが当たり前になってきた。
「疲れた?」
「まあな」
オレは笑う。
「でもさ」
少しだけ、視線を落とす。
「働いてお金をもらうってのは……やっぱり安心するな」
タイラーが言うと、あおいはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「うん」
短い言葉だったけど――
その中に、同じ気持ちがちゃんと入っているのが分かった。
その翌日。
ギルドの掲示板の前で、オレは足を止めた。
新しい紙が貼られている。
大きめの依頼書。周囲に、冒険者たちが集まっている。
ざわざわとした空気。
内容はすぐに分かった。
――合同討伐。
町の外れに現れた、スクラッパーの群れ。
単独では危険。
だが、放置すれば町の脅威になる。
だから――
人数を集めて討つ。
オレはその紙を見つめた。
指がわずかに止まる。隣で、あおいも同じように見ていた。
この仕事は、ただの荷運びじゃない。
命のやり取りがある場所。
「……ちょうどいい、タイラー!」
背後から、声がかかった。
「……お前たち」
振り向く。
ギルドの受付の男だった。
リューネル同様、また名前は知らないが、オレたちの事を知っている受付の男。
「たしか、魔法が使えるって言ってたよな?」
低い声。
「無理にとは言わないが。魔法が使える冒険者を探している。」
一拍置く。
「参加する気はないか?」
オレは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして、ゆっくり開く。
あおいを見る。
彼女は、静かにうなずいた。
あおいの目は、オレに判断を任せるという目だった。
オレは受付の男に向き直る。
「……参加します」
あおいが一歩、隣に並んだ。




