異世界で、二人乗り 第一部 第3話「確認」
――なんだ、ここは。
言葉にした瞬間、現実味が増した。増したところで理解できるわけではない。理解できないから言葉にした。
言葉にして、さらに理解できなくなることもある。上杉はブレーキを握ったまま、呼吸を整えた。
ジュリオは止まっている。エンジンはまだ生きている。熱が足元から伝わる。振動が消えないうちは、少なくとも自分が幻を見て倒れている可能性は低い。
いや、低いだけだ。ゼロではない。人間は想像以上に脆い。
暗い。街灯がない。都市の夜の暗さとは質が違う。暗闇が、きちんと暗い。光がない場所の暗さだ。
道路は舗装されていない。砂利と土の感触が足裏に返ってくる。自宅マンションの近くにこんな道はない。少なくとも記憶にはない。
見上げると空が広い。広さに、まず戸惑う。次に、妙な安心が来る。圧迫がない。ビルの谷間で押しつぶされる感じがない。
空が空のまま上にある。その当然が、都市では当然ではない。
さっきから匂いがする。嗅いだことのない匂いだ。なのに落ち着く。落ち着くという感覚が先に来て、理由が追いつかない。
上杉はその匂いを、排気ガスでも花でも湿った土でもないと判断した。判断したというより、どれにも当てはまらないと感じた。
上杉はジュリオのエンジンを切った。急に静かになる。静かすぎて、耳の奥で自分の血の音が目立つ。でも耳も使って現在の状況を把握したいと思った。
まず、確認。上杉はスマートフォンを取り出し、画面を見た。時刻は現実とつながっている。バッテリー残量もある。圏外。アンテナは一本も立たない。
圏外はあり得る。地下でも山でも、圏外はある。だがここはどこだ。自宅の近くでは、圏外になったことはない。
地図アプリを開く。GPSの許可。位置情報を取得中。くるくる回るアイコンは、答えを出さないまま回り続けた。数十秒待っても同じだ。
上杉はスマートフォンの電源を切り、入れ直した。再起動。起動。再び圏外。
通信障害、という可能性はある。しかし通信障害が起きても、街灯は消えない。道が土になったりもしない。
上杉は周囲を見回し、音を探した。車の走行音がない。ここは環七(環状7号線)が近く、ほぼ車の音が絶えないはずだ。人の声がない。犬の鳴き声もない。
都市の夜には、必ず何かの音がある。ここは、音が少ない。少ないというより、最初から用意されていない。
風が吹いた。暖かい。夜なのに。肌を冷やす風ではない。頬を撫でて、通り過ぎる。
上杉は呼吸を深くした。焦りを抑えるためではない。焦りの正体を見極めるためだ。焦っているかどうかをまず把握する。把握しないまま動くと、判断を誤る。
自分の脈は速い。だが暴走してはいない。手の震えもない。足は動く。頭は回る。目は暗闇に慣れ始めている。
――誘拐、という線は薄い。
誘拐なら、もっと乱暴だ。それに連れ去られるなら、人が関わるだろう。人の気配がしないのだ。何より自分には金も地位もない。課長という肩書きは社内では意味があるが、社外では何の価値もない。
価値があるとしたら、会社という仕組みの中だけだ。
――事故で意識を失って、別の場所に運ばれた。
それも薄い。ジュリオがここまで運ばれる意味がない。運ぶなら自分だけだ。ジュリオを運ぶ手間は救命救急に必要ない。
――道を間違えた。
上杉は首を振った。ここを曲がれば自宅マンションが見える。何百回と通った曲がり角だ。迷いようがない。迷いようがない場所で迷うなら、幻か。無意識で走ったか。
――オレが死んだ。
実感は無いが、少なくとも先ほどからここ10分ほどの間で、死んだ記憶はない。 ・・・何言ってんだ、オレ。
上杉はジュリオを押して、少し先まで歩いた。ヘッドライトはない。だからスマートフォンのライトを点ける。白い光が足元の砂利を照らす。少々押しにくいが、周囲の音を聞くのも重要な情報だ。
地面の砂利の粒が不揃いだ。工事現場の砂利のような均一さがない。自然にここにある砂利に見える。
道の両側は、草だ。背の高い草が揺れる。葉の擦れる音がする。虫の声がする。夜の虫の声は、東京でもある。だが東京の虫の声は、常に車の音に薄められている。
ここでは虫の声がそのまま届く。虫が世界の主役みたいに鳴いている。
道は緩やかに曲がって、闇に溶ける。上杉は立ち止まった。歩いて行けば、もっと深い暗闇に入る。帰るべき場所がわからない以上、闇の奥へ踏み込むのはリスクだ。
上杉は一度、背後を振り返った。振り返っても、何もない。自宅マンションどころか、住宅街の気配もない。電柱がない。電線がない。看板がない。コンビニの光もない。
ここがどこかはわからない。だが、ここが「いつもの場所」ではないことはわかる。
上杉はジュリオのシートに座り、考えを整理するために、頭の中で箇条書きを始めた。会社でやっているのと同じやり方だ。
感情を捨てるためではない。感情に飲まれないための手順だ。
状況:帰宅途中、いつもの曲がり角のはずの場所で、未知の環境に切り替わった。
現象:風が暖かい。匂いが未知だが落ち着く。景色が既知と一致しない。通信が使えない。
資源:ジュリオ(走行可能)、スマートフォン(圏外だがライトや時計は使える)、財布、鍵、服装はスーツ、体力は残り少ない。
制約:位置不明、周囲に人間の気配なし、夜、移動は危険。
最初に必要なのは、安全確保だ。次が情報収集。最後が行動計画。
上杉は立ち上がり、ジュリオの周りを確認した。タイヤに異物はない。燃料残量は曖昧だが、駅から家までなら足りるはずだった。
ここでどれだけ走れるかはわからない。無駄に走れば詰む。
上杉は上着やズボンのポケットを弄った。何か役に立つものは。変わったものはないか。
ハンカチに小銭入れ。胸ポケットの名刺入れ。いま役に立ちそうなものは無い。
空を見上げる。星がある。東京でも星は見える。だがここでは星が「数」になっている。光点が多い。多すぎて、星座がわからない。星座がわからないという事実は、地味に怖い。
地球上で星座は変わらないはずだ。変わらないものが変わって見えるなら、目がおかしいのか、空がおかしいのか、判断がつかない。
上杉は目をこすり、もう一度見た。変わらない。星は多いままだ。
風がまた吹いた。匂いが濃くなる。胸の奥がゆるむ。ゆるむ感覚が怖い。恐怖の中で落ち着いてしまうのは、思考を鈍らせる。
――一度、動く。
上杉はジュリオのエンジンをかけた。音が夜に響く。夜が広いせいか、音が吸われていく。エンジン音が頼りになる。機械の音は、現実に繋がる。
上杉は道を選ぶ前に、ライトで周囲の地面を照らした。タイヤ痕のようなものはない。だが何かが通ったような痕跡はあるが、今は判断がつかない。それに新しいものでもない。
雨が降っていないのか、痕が崩れていない。ここ数日、雨がない可能性がある。
上杉はゆっくり進むことにした。全開で走れば危険だ。転んだら終わる。助けを呼べない。夜の土道は罠だ。穴があるかもしれない。石があるかもしれない。獣が出るかもしれない。
ジュリオは、思ったより素直に進んだ。砂利を噛む音がする。スーツの裾が風で揺れる。こんな格好で走る場所ではない、と頭の片隅が言う。格好の不釣り合いは、現実の不釣り合いを強める。
10分ほど砂利道を進んだ。
道は続いている。だが、何も変わらない。左右の景色も、空気も、匂いも、ほとんど同じだ。
走っている感覚はある。だが「進んでいる」という実感が、薄い。
確かに景色は移り変わっているが、先が見えてこない。
目的地に近づいている気もしないし、遠ざかっている気もしない。
上杉は速度を落とし、やがて止まった。エンジンを切る。
先ほどと変わらない風の音と虫の声。なにも変わらない。
しばらく、その場に立ったまま考えた。
考えようとして、何を考えればいいのかわからなくなった。
進んでも何も起きない。なら、戻るしかない。
上杉はジュリオを反転させ、来た道を引き返し始めた。
数分走ったところで、道がわずかに開けた場所に出た。
上杉は、そこで再び止まった。
視界が抜けている。
木々が途切れ、頭上に、空が大きく広がっていた。上杉はこの状況に陥って、はじめてゆっくりと星空を眺めた。
夜空がある。星が、異様なほど多い。
見慣れた並びではない。それは先ほど確認した。改めて見ても、作り物のようでもない。
ただ、広い。本物の夜空。
東京で見上げる夜空とは、距離感が違う。
空が遠いのではない。
自分が、小さくなったような感覚だった。
上杉は、その場でしばらく動かなかった。
何かを確認しているわけでもない。ただ、見上げていた。
ここまで来て、何も起きていない。
それなのに、
「ここにいる」という事実だけが、やけに重かった。
月が――見慣れない。月だと認識するのに、少し時間を要した。
上杉は目を細めた。月が、ひとつではないように見える。重なっているのか、雲なのか。夜目の錯覚か。錯覚ならいい。錯覚であってほしい。
スマートフォンで写真を撮ろうとして、やめた。撮ったところで、誰に見せるのか。今は証拠より、自分の安全だ。




