異世界で、二人乗り 第一部 第23話「答えの手前」
パーティ討伐の依頼から、一週間ほどが経っていた。
タイラーとあおいの生活は、驚くほど変わらない。
白梟亭の朝は今日も同じ匂いがした。
焼いたパンの香ばしさと、湯気の立つスープ。木の皿と木の匙。
タイラーは席につき、パンをちぎって口に運ぶ。噛むたび、小麦の素朴な甘みが広がる。
最初の頃は、どれも「異世界の味」だったはずなのに――
今はもう、身体がそれを朝食として受け入れている。
向かいのあおいは、スープを一口飲んでから、ほんの少し間を置いた。
背筋は伸びている。視線は落ち着いている。
いつもと変わらないように見える。
けれど、変わらない「ふり」をしているのだと、タイラーにはわかっていた。
「……今日、どうする?」
声はいつも通りだった。
ただ、響きが少しだけ慎重で、言葉を床に置くみたいな出し方だった。
「ギルドで討伐の依頼を受けてみようか」
「うん」
それだけで会話は途切れる。
気まずい、というほどではない。
けれど以前より言葉が少ない。
それが不自然ではなく、むしろ「ちょうどいい」距離として二人の間に収まってしまっている。
タイラーは、そこでふと、自分が息を止めかけたのに気づいた。
――こういう朝が、当たり前になっている。
悪いことには思えない。むしろ楽だ。余計な力がいらない。
なのに。
胸の奥に、小さな棘みたいなものが残る。
ここに慣れていいのか。
慣れて、しまっていいのか。
現実世界のことが、ふと浮かぶ。
会社。実家。連絡のつかない自分。
どう扱われているか、想像したくないのに勝手に頭が動く。
タイラーはパンを噛み、飲み込み、その思考を押し戻した。
早く帰りたい、と強く思ったことはない。
帰り方を探したい、と焦ったこともない。
――この世界が、居心地がいいのかもしれないな。
パンをもう一片ちぎる指先が、わずかに止まる。
慣れてしまっている。
その事実が、棘を少しだけ深くした。
あおいはそれを見ていない。
見ないふりをしている。
あるいは見えていても、触れないと決めている。
ギルドへ向かう道は、まだ混み合っていなかった。
朝の町は働く者の匂いがする。露店の準備、荷車の軋み、桶の水音。人が生きている音がする。
ギルドの掲示板には、すでに人が集まっていた。
討伐、採取、街道警備、運搬。
紙の擦れる音と、短い言葉が飛び交う。
タイラーは人混みの外側で立ち止まり、掲示板を見上げた。
文字は読める。依頼の形式もわかってきた。
危険度の目安。必要人数。期間。報酬。
理解している自分に、また棘が刺さる。
あおいは掲示板の前に立ち、目で一枚ずつ追う。
しばらくして、一枚の依頼書を指で押さえた。
「これ……」
紙の上の名前を、タイラーは読む。
――グリムウルフ。目撃は二体。
あの森で、あおいと最初に出会った時に遭遇したモンスターだ。狼の形をした魔物。大きく、獰猛で、目が鋭い。
「目撃が増えてるってことは、縄張りがずれてきてるのか」
「うん。……街道に近いと、危ない」
危険度の欄は、先日のスクラッパー討伐よりは低い。群れではないからか。
ただ、油断はできない。狼型のモンスターは動きが速い。
「二人で行けるな」
タイラーがそう言うと、あおいは小さく頷いた。
頷き方が、少しだけ硬い。
それでも彼女は依頼書から指を離さない。
――行く。
この依頼は、行く。
そういう決意が、あおいの背中から漂っていた。
受付で依頼を通す。
いつもの受付の男が、淡々と書類を出し、淡々と確認をする。
「では、グリムウルフ。帰還の報告も忘れないように」
「わかった」
ギルドを出ると、あおいが一度だけ空を見上げた。
目が細まる。何かを確かめるような仕草だった。
「……大丈夫か?」
「うん」
大丈夫と言いながら、あおいの指先は腰のワンドに触れている。
ルミナ。
母から贈られたというワンド。森で一人で生きてきた時から持っている、不思議な杖。
一度、白梟亭に戻り準備を整える。
二人は宿の裏へ回った。裏庭の一角。ジュリオは布をかけられたまま、いつもの場所にいる。女将の許可を得て停めている場所だ。
布を外すと、金属の冷たさが朝の空気に馴染んでいる。
タイラーはハンドル周りを軽く触って確かめる。異常はない。いつも通りだ。
「いつも通り」――その言葉が、今日だけ少し重く感じた。
ジュリオのエンジン音が、門の前の空気を震わせる。
いつもの門番の男が顔を上げた。
「よう、また出るのか」
「ああ。軽い依頼だ」
「気をつけろよ。最近、街道の先でグリムウルフの目撃が増えてる」
「そのグリムウルフを狩りに行く」
門番は一瞬目を見開き、すぐに笑った。
「やるじゃねえか!」
――こういうやり取りを、日常の会話と呼ぶのだろうか。
タイラーはそう思い、すぐに思考を止めた。日常と呼びたくないのに、日常の形をしている。
町を抜け、草原を走る。
建物が減り、空が大きくなる。風景が開けると音も変わる。町の音が遠のき、草の擦れる音が近くなる。
背後のあおいの重みは、いつも通りだ。
今日は、いつもより姿勢が安定している。腰に掴まる力が、ほんの少し強い。
触れない距離。けれど、遠くない距離。
その距離が、タイラーの胸を静かに撫でる。
ジュリオで一時間ほど。
目的の場所は街道から少し外れた林だった。木々の影が濃く、地面は落ち葉が厚い。足音が吸われる。
ジュリオを見えにくい位置に停める。
しばらく歩くと気配を感じた。タイラーは剣を抜き、呼吸を整える。
「来る」
言った直後、落ち葉が揺れた。
影が一つ、滑るように現れる。灰黒い毛並み。肩が高く、目が鋭い。
グリムウルフは一体ではない。少し離れた影に、もう一体いる。依頼書通りだ。
「二体……」
あおいが息を吐く。
あおいはルミナを握り直した。
掌の中で、ルミナがほんのり温かい。
魔力を流す前から、受け取る準備をしているみたいだった。
ルミナの先端に淡い光が宿る。それは炎でも雷でもない。
空気がほんの少しだけ“濃く”なる感じがする。
一体目のグリムウルフが、こちらに目掛けて走り込んでくる。
その瞬間、風が一体目の体を叩いた。
吹き飛ぶほどではない。だが踏み込みが一拍乱れる。落ち葉を滑り、肩が落ちた。
タイラーは横目であおいを見た。
あおいは動揺していない。むしろ、冷静に見えた。
――冷静に“しようとしている”のかもしれない。
魔力が、無理なく流れている。
気のせいではない。今日は、いつもより積極的に魔法が使うように見える。
迷いが薄い。恐れが消えたわけではないが、足が止まっていない。
二体目のグリムウルフが跳ねた。回り込む気配。
タイラーに近い。爪が空を裂く。
タイラーは半身で避け、剣で受け流した。刃が火花を散らす。
体勢を整えた二体目が飛び掛かろうとした瞬間、あおいがルミナを軽く振った。
音はない。けれど空気が“まとわりつく”ように変わる。
二体目の動きが、ほんの一拍遅れた。足が絡み、跳躍が短くなる。
(鈍らせた……)
タイラーはその一拍を逃さない。
剣を横に振る。風を切る音が短い。
刃が毛皮を裂き、血が飛ぶ。
二体目は、その場で崩れた。
一体目が体勢を整えて向かってくる。
あおいのルミナが光を増す。肩の力が抜けて、動作が自然だ。
積極的なように見えて、タイラーが動揺する。
(……何かが起きてる)
タイラーの身体が、青白い光に薄く覆われた。
速度が増す感覚が、わかりやすい。
今日の補助魔法は、以前受けた時よりも効果がはっきりしていた。
目の前の一体目が再び突っ込んでくる。
タイラーは一歩、踏み込む。
この世界に来てから身についた動き。剣を振るう時、身体が軽い。
想像の中の動きが、そのまま体で表現される。
一閃。
刃が首筋を斜めに走り、グリムウルフは力を失って倒れた。
短い戦いだった。
息が荒くなる前に終わった。
だが、明らかにいつもと違う。
それが、妙に怖い。
タイラーは剣を納めた。
あおいはルミナの光をゆっくり落とし、肩で息をした。
「……大丈夫か」
「うん」
いつもより返事が早い。
あおいは自分の指先を見て、そしてルミナを見た。
驚いている。自分の魔力が、今日こんなに素直に動くことに。
「……変だった?」
タイラーが聞くと、あおいは首を振る。
「変じゃない。……ただ、流れが……」
言い切らず、唇を閉じる。
言葉にしてしまうと、何かを壊す気がしているのかもしれない。
討伐証明のため、必要な部位を取り、簡易の刻印を入れる。
こういうことに慣れていく。
その事実がまた、タイラーの胸に棘を立てる。
帰り道。
ジュリオは町へ向けて走り出す。陽は傾きはじめ、草原の色が少しだけ深くなる。
背後のあおいは、いつもより静かだった。
いや、静かなのではない。言葉が喉まで来ているのに、出し方を探している。
タイラーも喋らない。
戦闘の感触が指先に残っている。
あの一閃の軽さ。慣れてしまっている感じ。慣れて、いいのか。
朝から何度も同じことを自問自答している。
ふと、白梟亭の朝が浮かぶ。
パンの匂い。スープ。木の皿。
あおいの「今日どうする?」
それが当たり前になっていくことへの、不安。
タイラーは視線を前に固定したまま、胸の奥だけが少しざわつくのを感じた。
「帰る」という言葉がどこかにある。
どこへ。何を。
答えはない。
ただ、約束を軽々しく口にできない理由だけが重い。
その時、背後から小さな声がした。
「……タイラー」
エンジン音と風切り音の中で、声は本来なら溶けるはずだった。
けれど、タイラーの耳には届いた。届いてしまった。
「ん?」
短く返す。
返した瞬間に、身体が少し固くなる。何かが来る。
その予感が背中越しに伝わる。
あおいの手が、腰のあたりでわずかに迷う。
掴む。力を入れるというより、ぎゅっと掴む。今までになかった動き。
そして、息を吸う気配。
「……好き」
一言。それだけだった。
タイラーは視線を前に向けたまま一拍遅れた。心臓が変な鳴り方をする。
何が起きた。
わかっているのに、自分の中で整理が追いつかない。
嬉しさが先に来て、次に怖さが来る。
怖さは拒絶の怖さではない。抱えきれないものを抱えた時の怖さだ。
タイラーはゆっくりと道の端に寄せ、ジュリオを止めた。
エンジンを切る。音が消えると、草原の小さな音が一気に近づく。
あおいは降りない。降り方を忘れたみたいに背後に座っている。
タイラーも降りない。振り返ることができない。
一度、息を吐く。
「……あおい」
声が少し低くなる。
言葉を選ぶ。正しい言い方を探して、見つからない。
「すぐには……答えは出せない」
逃げじゃない。気持ちを受け流すつもりで言ったんじゃない。
でも、言葉を飾れば飾るほど嘘になる気がした。
タイラーは続けた。
「大切に思ってるのは……本当だ」
そこだけは嘘にしたくなかった。
昨日も今日も、あおいは隣にいた。
もう自分にとっては、一緒にいてほしい存在になっている。
それでも……だ。
あおいは小さく息を吸い、吐いた。目を伏せているのが背中越しにわかる。
「……うん」
一言。
それだけで、あおいはそれ以上を求めなかった。
求めないふりではない。求めない、と決めた声のようだった。
タイラーはいま返事ができない。
返事をしてしまうと、何かを確定させる。
確定させることへの怖さが、胸の奥で棘になる。
再びジュリオを走らせ、町へ向けて走り出す。
今度は、あおいの手が少しだけ強く腰を掴んでいた。
タイラーはそれを拒まなかった。
拒む理由がない。
むしろ、そこに触れていないと不安になるのは自分の方かもしれない。
町の門が見えてきた。
門番と目が合う。
「よう。無事に戻ってきたか」
「ああ、なんとか」
門番は二人の顔を見て短く頷く。通行証は求められない。顔で通る。
そのことに安堵しながら、また棘が刺さる。
――ここは、帰る場所になりつつある。
それでいいのか。いいのに。いいはずなのに。
町をくぐり、白梟亭の裏庭にジュリオを停める。
いつもの場所。女将の許可。それが当たり前。
二人はそのままギルドへ向かった。
討伐証明を提出し、確認を受ける。受付の男は相変わらず淡々としている。
「問題ない。報酬は規定通り」
「ありがとう」
「次も何かあれば回す」
タイラーは頷き、あおいもそれに倣った。
食堂はピーク時間でとても混み合っていた。
二人は運良く空いたカウンター席に並んで座る。同じ皿を分ける。いつもと同じ。
話題はない。
無言でお互い食事をとる。
今日はそれで精一杯だった。
告白の話はしない。
夜になり、白梟亭の部屋に戻る。
湯浴みからあおいが戻ると、タイラーはあおいの顔を見ずに自分も湯浴み場へ向かった。
部屋に戻ると灯りはついたままだったが、あおいはもうベッドで休んでいた。
タイラーはいつものように背を向けてベッドに入る。
無理に距離を詰めない。
それが優しさなのか、逃げなのか、自分でも判別できない。
タイラーは目を閉じる。
胸の奥に、言葉にできないものが沈んでいく。
嬉しい。大切だ。気持ちに応えたい。
それらは本当だ。
けれど、その「本当」を未来の約束に結びつけてしまう怖さがある。
約束をした瞬間に、何かを手放すことになる。
自分の足元が、まだ確かではないから。最後はあおいを傷つける。
答えは、すぐに出した方がいい。
そう思うのに――まだ、言葉が追いつかない。
------▫️風の兆し▫️------
森の奥。誰もいない場所。
あおいは悲しいことがあると、きまってそこへ行った。
魔法がうまく流れない日が続いて、胸の中が空っぽになったみたいだった。
そこに現れたのが、おばば様だった。
老いた人ではない。年を重ねた気配だけをまとった、美しい人だった。
声は低くなく強くなく、ただ落ち着いていた。
「どうしたんだい」
あおいが事情を話すと、おばば様はゆっくり頷いた。
「力が足りない、と思っているうちは、まだ遠いね」
「……じゃあ、どうすれば……」
「魔力はね、腕力みたいなものじゃあない」
おばば様は少し考えて、あおいの胸元に指を置いた。
「ここが空っぽだと、流れない」
「満たそうとするのではなく、まず、向けるんだ」
「向ける……?」
あおいは意味がわからない。
「大切だと思うものはあるかい?」
「守りたいと思うものは?」
「失いたくないものは?」
あおいは答えられなかった。答えがわからなかった。
おばば様は笑った。
それは優しくて、どこか寂しそうな笑い方だった。
「森の民の力の源はね……」
「たぶん、そういうものだよ」
「それがある時、魔力は風に流れる」
その言葉の意味を、今日、初めて、わかった気がした。




