異世界で、二人乗り 第一部 第15話「やさしい世界」
宿の朝は、静かだった。
白梟亭の食堂に降りると、木の床がわずかに軋む。
その音さえ、どこか遠慮がちに聞こえる。
窓から差し込む光は柔らかく、昨夜の緊張が、ようやく体の奥から抜けていくような気がした。
パンのいい香りがした。
今朝の食事は、簡素だった。
パン。
少量の野菜。
そして、ミルク。
タイラーは、その白い液体をじっと見つめた。
「……濃くないか?」
一口、飲む。牛乳に近い。
だが、いつも飲んでいたものより、少しだけ重い。
まさか――
絞ったままじゃないよな。そんな考えが一瞬よぎる。
腹を壊したらどうする。
この世界に、整腸剤なんてあるんだろうか。
そう思ったはずなのに、
不思議と、不安は広がらなかった。
量は少ない。
種類も多くない。
でも、今の自分には、十分だった。
昨日の夕食を、ふと思い出す。
見たことのない食材は、確かにあった。
葉の形が少し違う野菜や、色味の異なる肉。
それでも――
見覚えのあるものは、決して多くない。
だが、まったくの未知ばかりというわけでもなかった。
名前は違う。
呼び方も、この世界のものだ。
それなのに、
焼けば肉で、煮れば野菜で、
食べれば、ちゃんと食事になる。
あの果実も、そうだった。
りんごに似た、甘酸っぱい味。
「……カリナの実、だったか」
あおいが、そう呼んでいた。
森でよく採れる、ごくありふれた果実だと。
味は、知っているものに近い。
どこかで食べたことがある、と言われても納得できる。
それが、少しおかしい。
言葉も同じだ。
誰と話しても、日本語がそのまま通じる。
文字も読める。
看板に書かれた文字を、考える前に理解している。
翻訳されている感覚はない。
脳内で変換している感じもしない。
ただ、
最初から「通じている」。
異世界に来た、という実感は確かにある。
風景も、文化も、生活様式も違う。
それなのに――
食べ物と、言葉だけが、
不自然なほどこちら側に寄っている。
「……便利すぎるだろ」
そう思ってから、
ふと、別の考えが浮かぶ。
――この異世界は、やさしいな。
タイラーは、濃いミルクを一口飲んだ。
食後、白梟亭を出る。
石畳の感触が、靴越しに伝わる。
人の声。
店先の匂い。
朝の町は、もう動き始めている。
歩きながら、タイラーは考える。
金はある。
正確には、「あることになっている」。
だが、それがどれくらいで、
どれくらい持つのか、見当もつかない。
仕事。
そういうものが必要だ。
冒険じゃなくていい。
英雄になるつもりもない。
剣を振るって名を上げたいわけでもない。
ただ、生きるための手段。
昨日まで、森の中では考えなくてよかったことだ。
食べられる果実があり、眠れる場所があり、あおいがいた。
町に入った途端、
それだけでは足りなくなった。
「……生活、か」
小さく呟く。
この世界の仕組みを、少しずつ知る必要がある。
知らないままでは、選べない。
歩いているうちに、
自然と行き先が定まっていた。
冒険者ギルド。
聞き慣れた言葉。
異世界ものでは、よく見る存在。
依頼が掲示され、報酬が明示される。
登録制度はあるが、仕事を受けるだけなら必須ではない。
……わかりやすい。
だからこそ、少し怖い。
ここに行けば、「何者か」になることを求められる気がした。
それでも――
立ち止まる理由は、見つからなかった。
------▫️風の兆し▫️------
朝の町を、風が抜けていく。
森の風とは違う。
石と木と人のあいだを縫う、重たい流れ。
でも、それが嫌じゃなかった。
人の声が、風に混じる。
食べ物の匂いが、運ばれてくる。
新しい一日の気配。
私は、タイラーの少し後ろを歩いていた。
この人について行く。
それは、もう決まっている。
風が、私の頬をかすめる。
行き先を示すようでもあり、
背中を押すようでもある。理由は、まだ言葉にならない。
でも、風の向きははっきりしていた。
一緒にいたい。
そういう気持ちとは違う。わからない。
一緒にいたほうが、いい。
自分らしくない考えだけど、こちらの方が少し思う。
でも、風は嘘をつかない。
仕事を探すという選択も、その流れの中にあった。
新しい生活。新しい場所。
大きな期待は、抱いていない。
それでも――
風が止まらない限り、歩いていける。
そんな未来を、
私は、静かに思い描いていた。




