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異世界で、二人乗り  作者: そよかぜ
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異世界で、二人乗り 第一部 第1話「変わらない一日」

アラームが鳴った。 

鳴っただけで、体はまだ眠っている。目を開けるより先に、胸の奥が重くなる。

理由はひとつじゃない。理由が多すぎて、ひとつにまとめられないことが、むしろ疲れる。

指先でスマートフォンの画面を撫で、音を止める。天井が見える。昨日と同じ天井だ。違うのは、自分のほうだけらしい。

どこが違うのかは、説明できない。

布団の端をつかんで起き上がる。体が軋む。痛いほどではない。痛みは、すでに均されてしまっている。

肩も腰も、同じ疲労を溜め込んだまま、何事もなかったように動く。

洗面所で顔を洗う。水は冷たい。指先から腕に冷えが走る。鏡の中の自分は、特別ひどい顔をしているわけではない。だからこそ、少し困る。

特別ひどくないのに、もう余裕がない。

歯を磨き、口をすすぐ。泡が口の端に残り、拭い取る。

こういう小さな手間が、朝にはやけに重い。

誰に見せるわけでもないのに、整えなければならない。

簡単な朝食をとる。味は覚えていない。覚えていないことに、もう驚かない。驚くほどの感受性は、平日の朝には残っていない。

スーツに袖を通す。布が肌に触れた瞬間、体が切り替わる。仕事用の体に。切り替わってしまうことに、少しだけ抵抗を覚える。

でも切り替わらなければ、今日をやり過ごせない。

玄関で靴を履く。鍵、財布、スマートフォン。順に確認する。忘れ物をしないための儀式は、もう考えなくても体が覚えている。

覚えているから楽なはずなのに、気持ちは軽くならない。

ドアを開けると、朝の空気が入り込む。湿り気を帯びた、都市の匂いだ。空を見上げることはしない。

見上げる余裕がない、というより、見上げても何も変わらないと知っている。


駐輪場に向かう。そこに、古いスクーターがある。ホンダのジュリオ。大学生の頃からの付き合いだ。

一時期はほとんど乗らず、埃をかぶらせていた時期もある。それでも処分はしなかった。理由は特別じゃない。壊れなかったからだ。

数年前、駅までの足が必要になって、また使い始めた。修理をして、最低限の整備をした。それ以上のことはしていない。

別にこれじゃなくてもよかった。けれど、これがあった。動いた。それだけの理由で、今もここにある。

キーを回す。スターターボタンを押すとセルが回り、エンジンがかかる。音は少し乾いている。静かとは言えないが、うるさくもない。

正直、2サイクルエンジンの音は好きじゃ無い。うるさいし。でも文句を言うほどではない、という音だ。

その曖昧さが、今の自分にちょうどいい。

ヘルメットを被り、ジュリオに跨る。シートの感触は慣れている。特別な感情は湧かない。愛着、と呼べるほどのものはない。でも、無くなると困る。

アクセルを回して動き出すと、朝の体が少しだけ前に進む。

住宅街を抜ける。朝の道は狭い。ゴミ出しを終えた袋が電柱の根元に置かれている。シャッターの半分閉まった店。カーテン越しの生活音。

どれも、他人の朝だ。自分の朝と交わることはない。

信号で止まる。ジュリオの振動が足元に伝わる。じっとしていると、体の奥の疲れが浮き上がってくる気がする。信号が変わり、また走る。

走っている間は、気持ちが楽だし考えなくていい。

駅前に着く。駐輪場に停める。エンジンを切る。急に静かになる。鍵を抜き、ハンドルをロックする。特別な動作はない。いつも通りだ。

ミラーに自分の顔を映す。ヘルメットで潰れた髪を整える。老けたよな。オレ。

改札に向かう人の流れに入る。階段を下り、ホームへ。電車はすでに入ってきている。

乗る。吊革につかまる。肩が触れる。鞄が当たる。謝罪の声はない。必要がない。

窓に映る自分を見る。目は開いている。開いているだけだ。起きているとも、眠っているとも言い切れない。

電車が動き出す。ビルが流れる。窓の数が多い。どの窓にも、誰かの仕事がある。誰かの疲れがある。全部、同じように見える。

降りる駅が近づく。体が勝手に準備を始める。降りる。歩く。エスカレーターを上がる。地上に出る。

空は細い。細い空を見て、何も感じない自分に、少しだけ気づく。

ビルのエントランスに入る。冷房の空気が、皮膚に触れる。外より楽だと思ってしまう。その感覚を、考えないようにする。

エレベーターで上へ。数字が増える。増える数字を見ていると、進んでいる錯覚がある。錯覚でいい、と心のどこかが言う。

フロアに着く。白い光。影の薄い空間。デスクに向かう。「おはようございます」と無意識に言うと、誰かの「おはようございます」が無意識に返ってくる。

パソコンを起動する。未読の数字が並ぶ。数字は正直だ。正直なものは、疲れる。

息をひとつ吐いて、最初のメールを開いた。



午前中は、思っていたより早く過ぎた。正確には、早く過ぎたように感じただけで、実際には細かい作業が途切れなく詰め込まれていた。

会議は定刻に始まらなかった。誰かが遅れたわけではない。前の会議が押しただけだ。理由がはっきりしている遅延は、文句の言いようがない。


上杉は席につき、配布された資料に目を落とした。

 

内容は新規案件の進捗確認だった。大きな問題はない、と言えばない。ただ、予定通りに進んでいるとも言い切れない。

修正点がいくつかあり、その修正点が別の修正を呼ぶ。誰の判断が悪かったわけでもない。全員が、正解を探し続けた結果だ。


「上杉課長、この点なんですが」


部下の声に顔を上げる。上杉は頷き、資料を指でなぞった。説明を聞き、短く返す。否定はしない。肯定もしすぎない。

調整が必要だ、とだけ言う。その言い方は、いつの間にか身についていた。「出た、課長の口癖。」なんて部下に言われてそうだ。

課長という肩書きは、重くはない。軽くもない。決定権があるようで、最終決定ではない。責任があるようで、裁量は限られている。

ちょうど中間に置かれた立場は、常に上下から引っ張られる。

会議が終わる頃には、決まったことと、決まらなかったことが同じくらい残った。決まらなかったことの方が、後を引く。

決まらなかったからこそ、次に持ち越される。持ち越されるということは、忘れられないということだ。

席に戻ると、メールが増えていた。未読の数字は、もう確認しない。順に開いていく。

要件は簡潔だが、背景を理解するには時間がかかる。背景を理解したところで、即答できるわけではない。


「上杉課長、ちょっといいですか」


今度は別の部下だ。上杉は椅子から立ち上がり、相手のデスクへ向かう。画面を覗き込み、状況を聞く。

判断を求められているのはわかるが、即断はしない。急げばミスが出る。ミスが出れば、後で倍の時間がかかる。

慎重でいることは、正解だと思っていた。少なくとも、これまでは。

 

昼休憩の時間になり、周囲が少しだけ緩む。上杉は席を立ち、社内の食堂へ向かった。

混雑を避けるため、少し時間をずらしたつもりだったが、同じことを考える人間は多い。列は長く、進みは遅い。

トレイを持ち、定食を受け取る。席を探し、空いている場所に座る。食事を始めるが、味の印象は薄い。

噛んで、飲み込んで、また箸を動かす。その動作の間、頭の中では午前中の会議が繰り返されている。


「信一朗君」


声をかけられ、顔を上げる。信頼している上司だった。彼はオレが新人の頃と変わらない。下の名前で呼ぶ。

穏やかな口調で、向かいに座る。


「さっきの案件だけどね、いい数字は出ているから、あまり抱え込みすぎないほうがいい」

 

上司は、助言というより確認のような言い方をした。上杉は小さく頷く。


「君の判断は間違っていない。ただ、全部を自分の責任にしなくていい」


そう言われると、返す言葉に困る。責任を自分のものにした覚えはない。ただ、そうならないように振る舞ってきた結果が、今なのだ。

食堂を出る頃には、休憩時間がほとんど残っていなかった。自席に戻り、コーヒーを淹れる。

苦味が舌に残る。その残り方が、少し強い。

午後は、さらに細切れになった。電話、チャット、口頭での確認。どれも緊急ではないが、後回しにできない。

対応しているうちに、別の用件が割り込んでくる。


「信一朗先輩、この資料、どこまで詰めればいいですか」


後輩だ。ここ2年ほどで別部署から異動して来て、部下として迎えた。ただの先輩と後輩だった頃の呼び方が抜けない。

彼の問いに、上杉は画面を見て答える。具体的な数字と、目安となるラインを伝える。

後輩は安心したように頷き、席に戻っていく。

その背中を見送りながら、上杉は自分が同じことを先輩に聞いていた頃を、ぼんやりと思い出す。

 

あの頃は、質問をすれば何かが前に進んだ気がした。今は、進めば進むほど、次の確認事項が増える。

 

夕方が近づき、オフィスの空気が少し重くなる。集中力が落ち、ミスが出やすくなる時間帯だ。

上杉は、チェックを一つずつ丁寧に行った。急がない。急げば崩れる。

それでも、終わりは来ない。終わらせるつもりの作業が、終わらないまま残る。

残った作業は、明日へ送られる。明日は、今日より軽くなるだろうか。そう考えて、考えるのをやめる。

定時が過ぎ社内から人の気配が消えた頃、ようやくパソコンを閉じた。達成感はない。後悔もない。ただ、一区切りついたという感覚だけが残る。

区切りはついたが、線は続いている。


「働き方改革」で残業は減ったし、一人の仕事量も減ったんだと思う。

でも、勤務時間が減っただけで、人によっては集まる仕事は集まる。

定時と少々の残業くらいで帰れるようになったのは、いい事なのかもしれない。

だが、単純に仕事が先延ばしになって、終わらないだけだと思う事もある。


エレベーターで下へ。数字が減っていく。朝とは逆だ。逆なのに、解放された感じはしない。

ビルを出る。駅へ向かう足取りは、朝より重い。疲れているからだ。それだけの理由で、十分だった。

改札を抜け、電車に乗る。朝と同じ吊革。朝と同じ窓。違うのは、自分の中身だけだ。疲れた自分。

降車駅に着き、改札を出る。駐輪場へ向かう。鍵を取り出し、ジュリオのハンドルに触れる。冷えている。朝よりも冷たい。

キーを回し、エンジンをかける。変わらない音がする。変わらない、ということに、少しだけ救われる。

家までの短い距離を走る。帰り道は好きな方だ。家に近づくと少しだけ解放された気分になる。

風が頬を撫でる。考え事は浮かぶが、すぐに後ろへ流れていく。走っている間だけは、今日という一日が、一本の線としてつながる気がした。

それが錯覚だと知っていても、悪くはなかった。


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