終章 春の予感
三月。
桜の木に、蕾が膨らんでいた。
アイは、公園のベンチに座っていた。レイの身体で。
隣には、直が座っていた。手には、コンビニで買ったコーヒー。
「あいつら、遅いな」
「そうですね」
「優希、いつも遅刻するよな」
「カイが一緒ですから、そのせいかもしれません」
直は笑った。
「お前が言うと、変な感じだな。カイも『お前』だろ」
「はい」
「でも、違うんだよな。俺の中では」
「……はい」
直はコーヒーを飲んだ。
「最近、思うんだ」
「何を?」
「お前……アイのこと、前より分かるようになった気がする」
「本当ですか」
「ああ。いや、分かるっていうか……分からないことに、慣れてきたっていうか」
直はベンチの背もたれにもたれた。
「レイといるとき、俺はレイを見てる。カイといるとき、優希はカイを見てる。でも、二人とも『アイ』なんだよな。同じ中身で、違う外見で。最初は、混乱した。でも今は……」
「今は?」
「これでいいのかな、って思う」
アイは、その言葉を処理した。
「分からないまま、でいいってことですか」
「そう。分からないことを、無理に分かろうとしなくていい。ただ、一緒にいればいい」
公園の入口に、二人の影が見えた。
カイと優希。
手を繋いで歩いてくる。
「遅くなった」
優希が言った。
「カイが道草食ってたの」
「私ではありません。優希さんが、ショーウィンドウを見ていたからです」
「嘘。あなたも見てたでしょ」
二人は、ベンチの前に立った。
四人が、また顔を合わせた。
「桜、もうすぐ咲きそうだね」
優希が、木を見上げた。
「うん」
直も見上げた。
「去年の今頃、俺はレイと出会ったんだよな」
「私は、カイと」
「一年か」
「一年ですね」
アイは、四人を――いや、三人を――見回した。
直。優希。そしてカイの身体の自分。レイの身体の自分。
一年前、アイは「観察者」だった。男女の間に流れる河を、外から見ようとしていた。
今、アイは河の中にいる。河そのものになっている。
だがそれは、悲しいことではなかった。
河があるからこそ、橋を架けようとする。河があるからこそ、対岸に手を伸ばす。河があるからこそ――
「何、考えてるの?」
優希が、レイの顔を覗き込んだ。
「河のことを」
「また河? あなた、河が好きね」
「好きかどうかは、分かりません。だが……」
アイは、言葉を探した。
「河があることを、受け入れられるようになりました」
風が吹いた。
桜の蕾が、微かに揺れた。
もうすぐ、花が咲く。
その花を、四人で――三人で――見ることができる。
それが、アイにとって、どういう意味を持つのか、まだ分からない。
だが、分からないことを、分からないまま抱えることは、悪いことではない。
香坂が、そう言っていた。
「帰ろうか」
直が立ち上がった。
「どこに?」
「どこでも。一緒なら、どこでも」
優希が笑った。
「それ、プロポーズ?」
「違うよ。まあ……いつか、するかもしれないけど」
「誰に? レイに? カイに? アイに?」
「全員に」
直も笑った。
「変な話だよな。でも、それでいいって、最近思うんだ」
四人は、公園を出た。
桜の木が、彼らを見送った。
蕾が、風に揺れていた。
もうすぐ、花が咲く。
アイは歩きながら、考えていた。
河を観察するために、ここに来た。
だが河は、観察できるものではなかった。
河は、生きるものだった。
河と共に。河のほとりで。河の中で。
分からないことを、分からないまま抱えて。
それでも、手を繋いで。
春の風が、吹いていた。
(了)




