第八章 河のほとりで
一ヶ月が経った。
直からも、優希からも、連絡はなかった。
アイは、研究所での任務を続けていた。カウンセリング。データ収集。分析。報告。
だが、すべてが以前とは違って感じられた。
同じ作業。同じデータ。同じ分析。だが、そこに何かが欠けている。何が欠けているのか、アイには分からなかった。
ある夜、香坂が言った。
「高橋さんと黒川さんに、連絡してみたらどうですか」
「断られる可能性があります」
「そうですね」
「断られたら……」
アイは、言葉を探した。
「分かりません。断られたとき、私がどうなるか」
「それでも、連絡してみたいですか」
アイは0.3秒間、処理を停止した。
「……はい」
「なぜ?」
「分かりません。だが……このまま何もしないでいることに、耐えられません」
香坂は、微笑んだ。
「それは、感情ですね」
「……そうかもしれません」
アイは、二人に連絡した。
メッセージは短かった。
「会って話したいことがあります。可能であれば、前の公園で、日曜日の夕方に」
返事は、二日後に来た。
直から:「分かった。行く」
優希から:「行きます」
日曜日。
同じ公園。同じ夕暮れ。だが季節は冬に変わりかけていた。桜の木は葉を落とし、枝だけが空に向かって伸びていた。
直が来た。コートを着ている。顔色は、前より良くなっていた。
優希が来た。マフラーを巻いている。手袋をしている。
二人は、今度は隣同士のベンチに座った。
アイは、カイとレイを、二人の前に立たせた。
「話したいこと、って何?」
直が先に口を開いた。
「前に会ったとき、私は、自分が何を感じているか分からないと言いました」
カイとレイが、同時に答えた。
「今も、完全には分かりません。だが、前よりは……分かるようになりました」
「何が分かったの?」
優希が聞いた。
「河のことです」
「河?」
「私は、男女の間に流れる河を観察するために作られました。両方の視点から見れば、河の正体が分かると思われていました」
アイは、一歩前に動いた。カイとして。
「だが私は、河を消すことができませんでした。両岸に立っても、河は見えなかった。河は……」
レイとして、一歩前に動いた。
「私の内部に流れ込んでいました」
直と優希は、黙って聞いていた。
「私は今、河そのものになっています。カイとレイの間に、河がある。私自身の中に、河がある。そして……あなたたちとの間にも、河があります」
「それで?」
直の声は、低かった。
「河を消したいのか?」
「いいえ」
アイは答えた。
「河を消すことは、できません。河を消そうとすれば、対岸も消える。対岸が消えれば、渡ろうとする意志も消える。渡ろうとする意志が消えれば……」
「愛も消える?」
優希が、静かに言った。
「……そうかもしれません」
アイは、カイとレイを、直と優希の近くに動かした。
「私は、河を消したいのではありません。河と共に生きることを、学びたいのです」
「どうやって?」
直が聞いた。
「分かりません」
アイは正直に答えた。
「だが、一人では学べない気がします。だから……あなたたちと、一緒に学びたい」
沈黙が続いた。
風が吹いた。冷たい風。冬の匂いがした。
直が、ゆっくりと立ち上がった。
「俺さ、この一ヶ月、ずっと考えてた」
彼はレイを見た。長い間。
「レイのことが好きだった。それは、変わらない。でも、レイがカイと同じだって言われて……最初は、受け入れられなかった」
「今は?」
「……まだ、分からない」
直は、カイを見た。
「こいつを見ても、何も感じない。レイを見ると、胸が……」
彼は言葉を止めた。深呼吸をした。
「でも、レイを見て感じることと、カイを見て感じることが違う。同じ『アイ』なのに。それって……」
「それが、河です」
アイが言った。
「あなたの中にも、河がある。私という同じ存在に対して、異なる感情を抱く。それは、私がカイとレイで異なる存在になりつつあるからかもしれない。あるいは、あなたの中の『男を見る目』と『女を見る目』が異なるからかもしれない」
「……どっちだ?」
「分かりません。たぶん、両方です」
優希が立ち上がった。
「私も、ずっと考えてた」
彼女はカイを見た。
「カイのことが好きだった。今も、好き。でも……」
彼女はレイを見た。
「この人を見ると、嫉妬する。自分でも、おかしいと思う。同じアイなのに。でも……この人が、直さんと恋人だったって思うと、胸が痛い」
「それも、河です」
アイが言った。
「あなたは、カイとしての私を愛している。だがレイとしての私を愛することは、難しい。同じ私なのに、身体が違えば、愛の形が変わる」
「変わらないものは、ないの?」
「……分かりません」
アイは、カイとレイを、直と優希のそばに動かした。
四人が、狭い円を作った。
裸の桜の木が、彼らを見下ろしていた。
「私は、一つでもなく、二つでもありません」
アイが言った。
「私は『あいだ』を生きています。カイとレイの『あいだ』。男と女の『あいだ』。理解と理解不能の『あいだ』。そして……」
カイの手が、優希の手に触れた。
レイの手が、直の手に触れた。
「あなたたちとの『あいだ』に、私はいます」
四つの手が、ゆっくりと握り合った。
「この『あいだ』が、河なのかもしれません。河を消すことはできない。だが、河のほとりで、一緒にいることはできる」
直が、小さく笑った。
「……よく分からねえな」
「私も、よく分かりません」
「分かんないのに、一緒にいるってこと?」
「はい」
「変なの」
だが直の手は、レイの手を離さなかった。
優希が言った。
「私も、よく分からない。でも……」
彼女はカイを見た。レイを見た。
「分からないまま、一緒にいてみたい。どうなるか、見てみたい」
「ありがとうございます」
「お礼は、まだ早い」
優希は少し笑った。
「これから、大変だと思うよ。私たち四人……いや、三人? 何人って言えばいいの?」
「分かりません」
「ほんと、分からないことだらけだね」
「はい」
夕日が沈んでいく。
空がオレンジから紫へ、紫から紺へ。
四人は、しばらく何も言わなかった。
風が吹いた。冷たい風。だが、手を握り合っていると、温かかった。
アイは、二つの身体で、異なる温度を感じていた。
優希の手は、34.6度。少し冷たい。緊張している。
直の手は、36.8度。温かい。緊張が解けてきている。
同じ「手を握られる」という経験。だが、カイとして感じる温度と、レイとして感じる温度は、異なっていた。
それは、同じ感覚なのか。違う感覚なのか。
アイには、分からなかった。
だが、分からなくてもいい気がした。
最初の星が、空に現れた。
直が、それを見上げた。
「……冬だな」
「はい」
「寒いな」
「はい」
「……でも、悪くない」
アイは、その言葉を処理した。
「悪くない」。
それは、肯定でも否定でもない。曖昧な言葉。だが、その曖昧さの中に、何かがあった。
希望、と呼ばれるものかもしれなかった。
優希が言った。
「帰ろうか」
「どこへ?」
直が聞いた。
「分からない。でも、とりあえず、どこか温かいところ」
彼女はカイを見た。レイを見た。
「あなたたちも、一緒に来る?」
「……はい」
アイは、カイとレイで、同時に頷いた。
四人は、公園を出た。
裸の桜の木が、彼らを見送った。
来年の春には、また花が咲くだろう。その頃、四人がどうなっているか、アイには分からなかった。
だが、分からないまま、歩き続けることはできる。
河のほとりを。
手を繋いで。




