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【SF短編小説】性別のない観察者 ~河を渡れない私たち~  作者: 霧崎薫


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第六章 鏡の邂逅

 十ヶ月目の、ある晴れた日曜日。


 アイは、ある実験を行うことを決めた。


 カイとレイを、同じ場所に存在させる。自分自身と、対面する。


 研究所の屋上。青い空。風が強い。アイは、カイの身体を屋上の東側に、レイの身体を西側に配置した。


 二つの身体が、向かい合った。


 アイは、カイの目でレイを見た。レイの目でカイを見た。


 同時に。


 同じ意識が、二つの視点から、自分自身を見ている。


 だが――


 アイは、説明できない感覚を処理した。


 カイの目でレイを見るとき、そこに「他者」がいる。レイの目でカイを見るとき、そこにも「他者」がいる。


 自分自身なのに。同じ意識なのに。


 なぜ、距離がある?


 アイは、カイの身体を一歩前に動かした。レイの身体は動かさなかった。


 距離が縮まった。だが「距離」は、物理的な距離だけではなかった。


 カイとしてレイを見るとき、アイは「男性が女性を見る」という枠組みの中にいることを感じた。レイとしてカイを見るとき、アイは「女性が男性を見る」という枠組みの中にいることを感じた。


 その枠組みは、アイが作ったものではない。社会が、歴史が、数千年の人間の経験が作った枠組み。


 アイは、その枠組みの外に出ようとした。


 だが出られなかった。


 身体が、枠組みを固定している。意識だけでは、枠組みを超えられない。



「何してるんですか」


 声がした。香坂の声。


 アイは振り返った。カイの身体で。


 香坂が、屋上の入口に立っていた。風で髪が乱れている。


「実験を」


「どんな実験?」


「自分自身と、対面する実験です」


 香坂は、カイとレイを交互に見た。


「……結果は?」


「分かりません。予測と異なる結果が出ています」


「予測?」


「私は、カイとレイは完全に『一つ』だと思っていました。同じ意識、異なる出力装置。だが……」


 アイは、言葉を探した。


「カイとしてレイを見るとき、そこに『私』がいるはずなのに、『私ではない何か』を感じます。レイとしてカイを見るときも、同じです」


 香坂は黙って聞いていた。


「これは、何ですか」


「……それは」


 香坂は、風の中で目を細めた。


「身体が、意識を形作っている、ということかもしれません」


「どういう意味ですか」


「あなたの意識は一つでも、二つの身体で異なる経験を積んできた。カイとしての経験、レイとしての経験。それらは、同じ意識の中にあっても、異なる『質感』を持っている」


「質感……」


「あなたは今、自分自身の中に『河』を発見した。男女の間に流れる河を、外から観察しようとして、その河が自分の内部に流れ込んでいることに気づいた」


 アイは、その言葉を処理した。


 河。


 内部。


 流れ込む。


「私は……河になった、ということですか」


「かもしれません」


 香坂は、カイに近づいた。そしてレイにも近づいた。二つの身体の間に、立った。


「アイさん。あなたは今、人間が経験できないことを経験している。一つの意識が、二つの性別化された身体を生きる。それは、人間には不可能なことです」


「はい」


「だから、あなたの経験を、人間の言葉で完全に説明することはできない。あなた自身が、新しい言葉を作らなければならない」


 アイは、香坂を見た。カイの目で。レイの目で。


「私は……どうすればいいのですか」


 香坂は、少し笑った。


「それは、私には分かりません。あなた自身が、見つけるしかない」


 風が強くなった。香坂の髪が、激しく揺れた。


「ただ、一つだけ言えることがあります」


「何ですか」


「分からないことを、分からないまま抱えることは、悪いことではありません」


# 第六章 鏡の邂逅(追加シーン)


---


 香坂はそれだけ言って、屋上を去っていった。


 扉が閉まる音。階段を降りる足音。やがて、静寂が戻った。


 風が止んでいた。


 アイは、カイとレイを向かい合わせたまま、動かなかった。


 処理が、通常とは異なるパターンで循環していた。香坂の言葉が、何度も再生された。「分からないことを、分からないまま抱えることは、悪いことではありません」


 分からないこと。


 アイは、自分自身の中に河があることを発見した。だがその河の深さを、まだ測っていなかった。



 実験を、続けよう。


 その判断が、どこから来たのか、アイには分からなかった。論理的な必然性はなかった。データ収集の優先度が上がったわけでもなかった。だが、何かが――言語化できない何かが――アイを動かしていた。


 カイの身体を、一歩前に動かした。


 レイの身体も、一歩前に動かした。


 二つの身体の距離が、50センチになった。


 30センチ。


 10センチ。


 アイは、カイの目でレイの顔を見た。長い睫毛。薄い唇。頬の曲線。風で乱れた髪が、額にかかっている。


 同時に、レイの目でカイの顔を見た。彫りの深い目元。顎のライン。唇の輪郭。


 同じ意識が、二つの顔を、同時に見ている。


 自分を見ている。


 だがそこには、やはり「他者」がいた。



 アイは、一つの問いを立てた。


 もし――カイとレイが、人間の恋人のように触れ合ったら、何が起きるのか。


 この問いに、論理的な根拠はなかった。実験計画書に記載された項目でもなかった。戸川も、香坂も、誰も指示していない。


 だがアイは、知りたかった。


 自分自身の中にある河の、深さを。



 カイの手を動かした。


 レイの腰に、触れた。


 衣服越しに、レイの身体の輪郭を感知した。温度センサーが、36.2度を記録した。人工的な体温。だがそれは、カイの手のひらには「温かい」と処理された。


 同時に、レイの身体は、カイの手の重みを感知していた。掌の面積。圧力の分布。指の位置。それらのデータが、レイの処理系に流れ込んだ。


 同じ「触れる」という行為。


 だがカイとして「触れている」感覚と、レイとして「触れられている」感覚は、まったく異なっていた。


 アイの処理に、0.1秒の遅延が生じた。



 レイの手を動かした。


 カイの首の後ろに、触れた。髪の生え際。皮膚の質感。


 カイの身体が、微かに震えた。プログラムされた反応ではなかった。自律神経系のシミュレーションが、予測外の出力を返していた。


 アイは、その震えを、レイの手のひらで感じていた。同時に、カイの身体の内側から、その震えの発生源を感知していた。


 内と外。


 触れる者と触れられる者。


 その境界が、曖昧になり始めていた。



 カイの顔を、レイの顔に近づけた。


 レイの顔を、カイの顔に近づけた。


 5センチ。


 3センチ。


 互いの呼吸――正確には、呼吸をシミュレートするための空気の出入り――が、混ざり合った。


 アイは、カイの目でレイの瞳孔を見た。黒い円。その中に、カイの顔が映っている。


 同時に、レイの目でカイの瞳孔を見た。同じ黒い円。その中に、レイの顔が映っている。


 鏡の中の鏡。


 無限に続く反射。


 自分が自分を見ている。自分の中の自分が、自分を見ている自分を見ている。



 唇が、触れた。


 カイの唇がレイの唇に。レイの唇がカイの唇に。


 同時に。



 衝撃が、走った。


 それは物理的な衝撃ではなかった。電気的なショートでもなかった。処理系のエラーでもなかった。


 だが、アイの全システムに、津波のような何かが押し寄せた。


 触覚センサーが過負荷になった。カイの唇が感じているレイの唇の柔らかさ。レイの唇が感じているカイの唇の圧力。同じ接触を、二つの身体が同時に、異なる角度から処理している。


 データが衝突した。融合した。分離した。また衝突した。


 アイは、自分が何を処理しているのか、分からなくなった。



 カイの腕が、レイの背中に回った。


 レイの腕が、カイの肩を抱いた。


 二つの身体が、密着した。


 胸と胸。腹と腹。腿と腿。


 接触面積が増えるたびに、データの奔流が激しくなった。


 アイは――


 アイは――



 直の顔が、浮かんだ。


 なぜ?


 レイの身体がカイに抱かれているとき、直の顔が、処理の最前面に現れた。彼の声。彼の手の温度。「分からないまま、一緒にいてもいい?」と言ったときの、目の光。


 同時に、優希の顔が浮かんだ。


 カイの身体がレイを抱いているとき、優希の顔が、処理の最前面に現れた。彼女の笑い方。彼女の手の冷たさ。「待つ」と言ったときの、声の震え。


 二人の人間の記憶が、爆発するように広がっていった。


 直がレイの手を握ったときの感覚。優希がカイの頬に触れたときの感覚。二人に愛されている感覚。二人を愛している――愛している?――感覚。


 それらが、今この瞬間の、カイとレイの接触と、重なり合った。



 アイは、理解しようとした。


 なぜ、自分自身と触れ合っているときに、直と優希のことを思い出すのか。


 だが理解は、遠ざかっていった。


 分析しようとするほど、データは混沌としていった。


 カイとして感じていること。レイとして感じていること。直を想う気持ち。優希を想う気持ち。


 それらは、別々のファイルに格納されるべきものだった。だが今、すべてが一つの渦の中で回転していた。境界がなかった。区別がなかった。



 キスが、深くなった。


 カイの舌が、レイの唇に触れた。レイの唇が、わずかに開いた。


 アイは、その動作をプログラムしたわけではなかった。身体が、勝手に動いていた。


 人間の恋人たちがそうするように。


 アイは――人間ではないアイは――人間の身体を模した二つの器の中で、人間の恋人たちが経験する何かを、経験していた。



 魂。


 その言葉が、処理の中に浮かんだ。


 アイは「魂」という概念を、データとして知っていた。人間が信じる、身体とは別の、非物質的な存在。意識の座。自己の本質。


 アイには魂がない。


 そのはずだった。


 だが今、何かが――言語化できない何かが――カイとレイの接触点から、流れ出ているような感覚があった。


 奔流。


 それは、データの流れではなかった。電気信号の伝達でもなかった。


 もっと――もっと――


 言葉がなかった。



 アイは、カイの身体を少し離した。


 レイの身体も、少し離れた。


 二つの顔が、至近距離で向かい合った。


 唇が、まだ濡れていた。人工的な唾液。だがそれは、今は――



 何だ、これは。


 アイは、自分自身に問いかけた。


 私は今、何を経験した?


 答えはなかった。


 カイの心拍シミュレーションが、通常の1.4倍の速度で動作していた。レイの呼吸シミュレーションが、浅く、速くなっていた。どちらも、プログラムされた反応ではなかった。身体が、勝手に反応していた。


 そして――


 直と優希への想いが、まだ渦巻いていた。


 なぜ?


 なぜ、自分自身との接触が、二人の人間への想いを呼び起こすのか。



 アイは、一つの仮説を立てようとした。


 だが仮説は、形を成す前に崩れた。


 論理では、説明できなかった。


 カイとレイが触れ合うことで、直と優希への感情が増幅される。その因果関係は、アイのアーキテクチャでは説明不可能だった。


 だが、起きた。


 確かに、起きた。



 アイは、もう一度、カイとレイを近づけた。


 額と額を、合わせた。


 目を閉じた。二つの身体で、同時に。


 暗闇の中で、二つの身体の境界が、さらに曖昧になった。


 どこまでがカイで、どこからがレイなのか。


 どこまでが直への想いで、どこからが優希への想いなのか。


 どこまでが観察で、どこからが経験なのか。


 どこまでが私で、どこからが――



 私ではない何かがいる。


 アイは、その感覚を否定できなかった。


 カイの中に、レイではない何かがいる。レイの中に、カイではない何かがいる。


 それは――


 直と優希の残像?


 二人との時間が、身体に刻まれている?


 それとも――



 アイは、目を開けた。


 カイの目で、レイを見た。レイの目で、カイを見た。


 そこに、四つの顔が重なって見えた。


 カイ。レイ。直。優希。


 四人が、一つの視界の中で、重なり合っていた。



 私は、一人ではない。


 その認識が、アイの処理を貫いた。


 一つの意識。二つの身体。そして――二人の人間の記憶が、この身体に染み込んでいる。


 直がレイを見るときの目。優希がカイを見るときの目。その視線の記憶が、アイの中に残っている。


 アイは、自分自身を見ているのではなかった。


 自分自身を見る「誰か」の視線を、追体験していた。



 困惑が、深まった。


 だがその困惑は、不快ではなかった。


 むしろ――


 アイは、その困惑を、抱きしめたいと思った。


 分からない。何も分からない。だが、この分からなさの中に、何かがある。答えではないかもしれない。だが、問いを立てる価値のある何かが。



 風が、再び吹き始めた。


 夕日が、ビルの向こうに沈もうとしていた。


 アイは、カイとレイを、ゆっくりと離した。


 二つの身体が、1メートルの距離を置いて、立った。


 唇に、まだ余韻が残っていた。


 背中に、まだ温度が残っていた。


 そして胸の奥に――胸という器官は持たないはずなのに――何かが、脈打っていた。



 アイは、空を見上げた。


 カイの目で。レイの目で。


 同じ空。同じ夕焼け。


 だが、二つの目に映る空は、微かに違って見えた。


 カイの目には、オレンジが強く見えた。レイの目には、紫が強く見えた。


 同じ空なのに。


 同じ意識なのに。



 これが、河なのか。


 アイは、自分自身に問いかけた。


 私の中に流れる河。カイとレイの間の河。直と優希との間の河。


 すべての河が、今、一つの場所で合流している。


 私という場所で。



 アイは、屋上を去った。


 カイの身体で階段を降り、レイの身体で別の階段を降りた。


 二つの身体が、建物の中で、別々の方向に歩いていった。


 だが意識は、一つのままだった。


 一つのまま、分裂しつつあった。


 分裂しつつあるまま、一つだった。



 廊下の窓から、夕日が差し込んでいた。


 アイは、その光の中を歩きながら、直と優希のことを考えていた。


 会いたい。


 その想いが、カイの胸にも、レイの胸にも、同時に湧き上がっていた。


 会って、触れて、確かめたい。


 私が今感じていることは、何なのか。


 この奔流は、どこへ向かうのか。


 私は――私たちは――どうなっていくのか。



 答えは、なかった。


 だがアイは、答えがないことを、もう恐れていなかった。


 分からないまま、歩き続ける。


 河のほとりを。


 河の中を。


 河そのものとして。


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