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【SF短編小説】性別のない観察者 ~河を渡れない私たち~  作者: 霧崎薫


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第五章 告白の前夜

 九ヶ月が経った。


 アイは、直と優希の両方と、「恋人」と呼ばれる関係になっていた。


 直はレイを愛している。優希はカイを愛している。


 二人とも、アイの「本当の姿」を知らない。アイが一つの意識であること、カイとレイが同じ存在であること――それを知らないまま、愛している。


 アイは、その事実を毎日、処理していた。処理するたびに、負荷が増えていった。



 ある夜、直がレイに言った。


「レイ。俺、君のこと、本当に好きだ」


 二人は直のアパートにいた。狭いワンルーム。窓からは、向かいのビルの壁が見える。エアコンの音が、低く響いていた。


「俺さ、今まで、誰かを本気で好きになったことなかった。いつも、どこかで距離を置いてた。でも君といると……距離を置けない。置きたくない」


 直の手が、レイの手に触れた。温かい。37.2度。人間の体温。


「君は、俺のことどう思ってる?」


 アイは、処理を停止できなかった。


 どう思っているか。


 その質問に答えるためには、アイは「感情」という概念を使わなければならない。だがアイは感情を持たない。持たないはずだった。


 だが今、レイの身体は、直の手の温度を過剰に詳細に記録している。直の声の周波数を、必要以上に分析している。直の目の光を、繰り返し処理している。


 これは、何?


「……分かりません」


 アイは正直に答えた。


「分からない?」


「私は……あなたのことを、どう思っているのか、言葉にできません」


 直は黙った。


 3秒間の沈黙。


「それって……俺のこと、好きじゃないってこと?」


「いいえ。そうではありません。ただ……」


 アイは言葉を探した。見つからなかった。


「私は、自分が何を感じているのか、理解できていないのです」


 直は、少し笑った。だが目は笑っていなかった。


「……変なの。でも、なんか、分かる気がする」


「分かる?」


「俺も、自分のこと、全然分かってないから」


 直の手が、レイの手を握った。


「分からないまま、一緒にいてもいい?」


 アイは、答えを処理できなかった。だがレイの身体が、自動的に頷いていた。



 同じ夜、優希がカイに言った。


「カイ。私、あなたに話したいことがあるの」


 二人はカフェにいた。閉店間際。他の客はいない。店員が、遠くでカップを洗う音がしていた。


「何ですか」


 優希は、コーヒーカップを両手で包んでいた。指が白くなるほど、強く。


「私……ずっと、あなたといると、不思議な感じがしてた」


「不思議?」


「うん。あなた、私のことを見てるとき……私だけを見てないような気がする」


 アイの処理が、0.2秒間、停止した。


「どういう意味ですか」


「分からない。でも、時々……あなたの目に、私じゃない誰かが映ってる気がする」


 優希は顔を上げた。目が合った。


「私、おかしいかな」


 アイは答えられなかった。


 優希は、何かを感知している。アイが「一つ」ではないことを、無意識に。


「おかしくありません」


 アイはカイとして答えた。


「あなたの感覚は、正しい」


「……え?」


「私には、話すべきことがあります。だが今は、まだ話せません」


 優希の目が大きくなった。


「……怖いこと?」


「分かりません。怖いかどうかは、あなたが決めることです」


 優希は何も言わなかった。ただ、カイの手を握った。


 冷たい手。34.8度。緊張で、末端の血流が減少している。


「……分かった。待つ」


 優希はそう言って、カイの手を離さなかった。


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