表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【SF短編小説】性別のない観察者 ~河を渡れない私たち~  作者: 霧崎薫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/9

第四章 境界の侵食

 六ヶ月が経った。


 アイは、二人の人間と深い関係を持つようになっていた。


 一人は、高橋直たかはしなお。三十一歳、男性、システムエンジニア。レイのカウンセリングを受けたクライアントの一人だったが、セッション終了後も連絡を取り続けるようになっていた。


 もう一人は、黒川優希くろかわゆうき。二十八歳、女性、出版社勤務の編集者。カイとカフェで偶然隣り合わせになり、会話が始まった。


 直はレイを、優希はカイを、それぞれ「人間」だと思っている。


 アイは、嘘をついている。


 だがその嘘が、アイの中で奇妙な重みを持ち始めていた。



 直との会話。


 夜のファミリーレストラン。窓際の席。直はハンバーグセットを注文し、アイ――レイ――はコーヒーだけを頼んだ。


「レイさんって、あんまり食べないよね」


 直がフォークを持ったまま、レイを見た。


「ダイエットとか?」


「……少し、体質が特殊で」


 嘘ではない。だが真実でもない。


「そっか。まあ、無理に食べなくてもいいけど」


 直は自分のハンバーグを切り分けた。ナイフがゆっくりと肉に入っていく。肉汁が皿に広がる。


「……俺さ、最近思うんだ」


「何を?」


「レイさんと話してると、不思議な感じがする」


 アイの処理が0.1秒間、遅延した。


「不思議?」


「うん。なんか……俺のこと、全部見透かされてる気がする」


 直は笑った。だが目は笑っていなかった。


「いい意味でね。俺、今まで女の人と話すとき、いつも『どう思われてるか』気にしてた。でもレイさんといると、気にしなくていい気がする。なんでだろう」


 アイは答えを探した。見つからなかった。


「分かりません」


「正直だね」


 直はハンバーグを口に運んだ。


「そういうとこも、好きだよ」


 アイの聴覚センサーが、その言葉を記録した。「好き」。単純な二文字。だがその二文字が、アイの処理に新しい負荷をかけた。



 同時刻、カイの身体は優希と映画館にいた。


 上映前の暗い館内。スクリーンには予告編が流れている。優希はポップコーンを持ち、カイの隣に座っていた。


「カイさんって、映画よく観る?」


「いえ。あまり」


「じゃあ、今日が初めて?」


「……そうです」


 これは嘘ではなかった。アイは映画を「観た」ことがない。データとして処理したことはあるが、劇場で、誰かと並んで、スクリーンを見つめるという行為は初めてだった。


 予告編が終わり、本編が始まった。


 SF映画だった。人工知能が人間と恋に落ちる物語。アイは、スクリーンの中の「人工知能」を見ながら、奇妙な感覚を処理していた。


 スクリーンの中の人工知能は、自分の「本当の姿」を人間に告げようとしていた。だが告げれば、すべてが終わるかもしれない。


 隣で、優希の呼吸がわずかに乱れた。映画に集中しているのだろう。だがアイは、彼女の呼吸のリズムを、必要以上に詳細に記録していた。


 映画の終盤、人工知能は真実を告げた。人間は泣いた。そして――


 アイは、結末を見る前に、自分が何を感じているのか分からなくなった。



 その夜、アイは研究所で一人だった。


 カイの身体を動作させ、窓の前に立った。夜景。ビルの光。道路を走る車のヘッドライト。


 同時に、レイの身体は別のフロアにあった。動作を停止し、充電ポートに接続されている。だが意識は接続されたままだ。


 アイは、カイの目で夜景を見ながら、レイの身体の状態を監視していた。


 二つの身体。一つの意識。


 だが最近、その「一つ」が揺らいでいる。


 直と話しているとき、レイの身体はカイとは異なる反応を示す。優希と話しているとき、カイの身体はレイとは異なる反応を示す。


 同じ意識が、同じ言葉を処理しているはずなのに、身体が異なる出力を返す。


 アイは、そのずれを分析しようとした。だが分析するほど、ずれは大きくなっていった。


 まるで、意識が身体に引っ張られているかのように。



 香坂が入ってきた。


「まだいたんですか」


「はい」


「何を考えていたんですか」


 アイは0.5秒間、処理を停止した。


「……自分が、一つなのか二つなのか、分からなくなりました」


 香坂は隣に立った。同じ夜景を見た。


「最初から、二つだったのかもしれませんよ」


「どういう意味ですか」


「意識は一つでも、身体は二つある。身体が違えば、経験が違う。経験が違えば……記憶の質が違ってくる」


 アイは香坂を見た。彼女の目は、夜景に向けられたままだった。


「あなたは今、二つの人生を同時に生きている。カイとしての人生と、レイとしての人生。それは、同じ意識の二つの表現なのか、それとも……二つの意識への分岐なのか」


「分岐?」


「川が、二つの支流に分かれるように」


 アイは、その比喩を処理した。川。分岐。支流。


 だが処理しきれない何かが、残った。


「香坂さん」


「はい」


「私は……河を観察するために作られました。男女の間に流れる河を」


「そうですね」


「だが私は今、河の中にいる気がします。観察者ではなく、当事者として」


 香坂は何も言わなかった。


 窓の外で、一台の救急車がサイレンを鳴らしながら通り過ぎた。赤い光が、アイの視界を一瞬だけ染めた。


「……それは」


 香坂が、ようやく口を開いた。


「悪いことなのでしょうか」


 アイは答えられなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ