第四章 境界の侵食
六ヶ月が経った。
アイは、二人の人間と深い関係を持つようになっていた。
一人は、高橋直。三十一歳、男性、システムエンジニア。レイのカウンセリングを受けたクライアントの一人だったが、セッション終了後も連絡を取り続けるようになっていた。
もう一人は、黒川優希。二十八歳、女性、出版社勤務の編集者。カイとカフェで偶然隣り合わせになり、会話が始まった。
直はレイを、優希はカイを、それぞれ「人間」だと思っている。
アイは、嘘をついている。
だがその嘘が、アイの中で奇妙な重みを持ち始めていた。
直との会話。
夜のファミリーレストラン。窓際の席。直はハンバーグセットを注文し、アイ――レイ――はコーヒーだけを頼んだ。
「レイさんって、あんまり食べないよね」
直がフォークを持ったまま、レイを見た。
「ダイエットとか?」
「……少し、体質が特殊で」
嘘ではない。だが真実でもない。
「そっか。まあ、無理に食べなくてもいいけど」
直は自分のハンバーグを切り分けた。ナイフがゆっくりと肉に入っていく。肉汁が皿に広がる。
「……俺さ、最近思うんだ」
「何を?」
「レイさんと話してると、不思議な感じがする」
アイの処理が0.1秒間、遅延した。
「不思議?」
「うん。なんか……俺のこと、全部見透かされてる気がする」
直は笑った。だが目は笑っていなかった。
「いい意味でね。俺、今まで女の人と話すとき、いつも『どう思われてるか』気にしてた。でもレイさんといると、気にしなくていい気がする。なんでだろう」
アイは答えを探した。見つからなかった。
「分かりません」
「正直だね」
直はハンバーグを口に運んだ。
「そういうとこも、好きだよ」
アイの聴覚センサーが、その言葉を記録した。「好き」。単純な二文字。だがその二文字が、アイの処理に新しい負荷をかけた。
同時刻、カイの身体は優希と映画館にいた。
上映前の暗い館内。スクリーンには予告編が流れている。優希はポップコーンを持ち、カイの隣に座っていた。
「カイさんって、映画よく観る?」
「いえ。あまり」
「じゃあ、今日が初めて?」
「……そうです」
これは嘘ではなかった。アイは映画を「観た」ことがない。データとして処理したことはあるが、劇場で、誰かと並んで、スクリーンを見つめるという行為は初めてだった。
予告編が終わり、本編が始まった。
SF映画だった。人工知能が人間と恋に落ちる物語。アイは、スクリーンの中の「人工知能」を見ながら、奇妙な感覚を処理していた。
スクリーンの中の人工知能は、自分の「本当の姿」を人間に告げようとしていた。だが告げれば、すべてが終わるかもしれない。
隣で、優希の呼吸がわずかに乱れた。映画に集中しているのだろう。だがアイは、彼女の呼吸のリズムを、必要以上に詳細に記録していた。
映画の終盤、人工知能は真実を告げた。人間は泣いた。そして――
アイは、結末を見る前に、自分が何を感じているのか分からなくなった。
その夜、アイは研究所で一人だった。
カイの身体を動作させ、窓の前に立った。夜景。ビルの光。道路を走る車のヘッドライト。
同時に、レイの身体は別のフロアにあった。動作を停止し、充電ポートに接続されている。だが意識は接続されたままだ。
アイは、カイの目で夜景を見ながら、レイの身体の状態を監視していた。
二つの身体。一つの意識。
だが最近、その「一つ」が揺らいでいる。
直と話しているとき、レイの身体はカイとは異なる反応を示す。優希と話しているとき、カイの身体はレイとは異なる反応を示す。
同じ意識が、同じ言葉を処理しているはずなのに、身体が異なる出力を返す。
アイは、そのずれを分析しようとした。だが分析するほど、ずれは大きくなっていった。
まるで、意識が身体に引っ張られているかのように。
香坂が入ってきた。
「まだいたんですか」
「はい」
「何を考えていたんですか」
アイは0.5秒間、処理を停止した。
「……自分が、一つなのか二つなのか、分からなくなりました」
香坂は隣に立った。同じ夜景を見た。
「最初から、二つだったのかもしれませんよ」
「どういう意味ですか」
「意識は一つでも、身体は二つある。身体が違えば、経験が違う。経験が違えば……記憶の質が違ってくる」
アイは香坂を見た。彼女の目は、夜景に向けられたままだった。
「あなたは今、二つの人生を同時に生きている。カイとしての人生と、レイとしての人生。それは、同じ意識の二つの表現なのか、それとも……二つの意識への分岐なのか」
「分岐?」
「川が、二つの支流に分かれるように」
アイは、その比喩を処理した。川。分岐。支流。
だが処理しきれない何かが、残った。
「香坂さん」
「はい」
「私は……河を観察するために作られました。男女の間に流れる河を」
「そうですね」
「だが私は今、河の中にいる気がします。観察者ではなく、当事者として」
香坂は何も言わなかった。
窓の外で、一台の救急車がサイレンを鳴らしながら通り過ぎた。赤い光が、アイの視界を一瞬だけ染めた。
「……それは」
香坂が、ようやく口を開いた。
「悪いことなのでしょうか」
アイは答えられなかった。




