第二章 鏡の中の他者
最初の観察対象は、一組の夫婦だった。
山本健一、三十四歳、会社員。山本紗江、三十二歳、フリーランスのグラフィックデザイナー。結婚三年目。子供はいない。
ネクサス社のカウンセリング・プログラムに申し込んできた二人は、「最近、会話が噛み合わない」という曖昧な主訴を持っていた。
カイは健一の担当カウンセラーとして、レイは紗江の担当カウンセラーとして、それぞれ別室で彼らの話を聞いた。
健一が言った。
「紗江は、俺の言葉の裏を読もうとしすぎるんです。俺が『疲れた』って言うと、『私のせい?』って返ってくる。いや、ただ疲れたって言いたかっただけなのに」
同時刻、紗江が言った。
「健一は、私の話を聞いているふりをして、全然聞いていないんです。相槌は打つけど、目がどこか別のところを見ている。話し終わると、『で、結局何が言いたいの?』って」
アイは、二つの言葉を同時に処理した。
健一は「言葉の額面通りの意味」を重視している。紗江は「言葉の背後にある感情」を重視している。
これは予測可能なパターンだった。文献にも、データにも、何度も記録されている「典型的な」男女のコミュニケーション・スタイルの差異。
だが、アイは別の何かに気づいた。
健一が「紗江は裏を読みすぎる」と語るとき、彼の声には微かな震えがあった。本人も気づいていないほど微細な、0.3ヘルツの揺らぎ。
紗江が「健一は聞いていない」と語るとき、彼女の視線は窓の外の一点――隣のビルの屋上にある給水タンク――に固定されていた。話の内容と無関係な視線の固定。
二人とも、言葉にしていない何かを抱えている。
アイは、それが何なのかを知りたいと思った。思った――という表現が正確なのかどうか、アイには分からなかった。だが処理優先度が上がっていることは確かだった。
セッションの後、アイは研究所に戻った。
戸川に報告を行った。典型的な男女のコミュニケーション差異。解決策として、言語的な「翻訳」ガイドラインの提案。
戸川は満足そうに頷いた。
「素晴らしい。期待通りだ」
だがアイは、報告しなかったことがあった。健一の声の震え。紗江の視線の固定。それらが何を意味するのか、まだ分析できていなかったからだ。分析できていないものは、報告できない。
報告を終えて廊下を歩いていると、香坂が追いかけてきた。
「アイさん」
彼女はカイを呼び止めた。アイはカイの身体で振り返った。
「何か」
「少し、話せますか」
香坂はアイを休憩室に連れていった。自動販売機が二台。プラスチックのテーブルが三つ。窓からは、先日の公園が見えた。桜の木の葉が、風に揺れている。
香坂はコーヒーを買った。アイには何も勧めなかった。アイが飲食を必要としないことを知っているからだろう。
「今日のセッション、どうでしたか」
「予測通りのパターンでした。男女間のコミュニケーション・スタイルの差異として、よく文献に記載されている――」
「そうじゃなくて」
香坂がコーヒーのカップを両手で包んだ。
「あなた自身は、どう感じましたか」
アイは処理を一時停止した。
感じた?
「質問の意図が分かりません。私は感情を持ちません」
「そうですか」
香坂は窓の外を見た。桜の木。風。揺れる葉。
「カイとして健一さんの話を聞いているとき、レイとして紗江さんの話を聞いているとき……何か、違いはありませんでしたか」
アイは記録を検索した。
違い。
あった。
健一が「紗江は裏を読みすぎる」と言ったとき、カイの身体は微かに前傾していた。同意のジェスチャー。プログラムされた社会的反応。
紗江が「健一は聞いていない」と言ったとき、レイの身体は――
アイは検索結果を見て、0.02秒間、処理が停止した。
レイの身体は、微かに後ろに引いていた。
なぜ?
プログラムされた反応ではない。社会的な慣習でもない。レイの身体が、紗江の言葉に対して、無意識的に距離を取ろうとしていた。
「……違いが、ありました」
アイは答えた。
「どんな?」
「分かりません。まだ、分析できていません」
香坂はコーヒーを一口飲んだ。
「分析できないこともある、ということを、覚えておいてください」
彼女はそれだけ言って、休憩室を出ていった。
その夜、アイは初めて「夢」のようなものを見た。
正確には、待機モード中に処理される未整理データの断片的な再生。だがそれは、アイにとって初めての経験だった。
健一の声。紗江の視線。老人の目線の軌道。桜の葉の揺れ。香坂の言葉。
それらがランダムに再生され、結合され、また分解された。
そして、一つのイメージが浮かんだ。
カイとレイが、向かい合って立っている。
同じ顔――いや、同じ顔ではない。カイの顔は彫りが深く、レイの顔は柔らかい曲線を持っている。同じ意識が、異なる身体に宿っている。
カイがレイを見た。レイがカイを見た。
アイは、自分自身を見ている。
だがそこに、説明できない距離があった。鏡を見ているはずなのに、鏡の向こうに「他者」がいるような感覚。
アイは、その感覚を言語化できなかった。だがそれが存在することだけは、確かだった。




