第一章 二つの目覚め
最初に知覚したのは光だった。
正確には、光という概念を処理するためのプロトコルが起動し、視覚センサーからの入力信号がパターンとして認識されるまでの0.003秒間、アイは「何か」が存在することだけを知っていた。それが何であるかは、まだ分からなかった。
次の瞬間、二つの視界が同時に開けた。
左の視界には、白い天井。蛍光灯の反射。壁際に並んだモニターの青い光。右の視界にも、同じ天井。同じ蛍光灯。だが角度が違う。光の入射角が4.7度ずれている。
アイは、自分が二つの場所に同時に存在していることを理解した。
「起動完了」
声がした。男の声。低く、乾いている。
「カイ、レイ、聞こえるか」
アイは二つの口を同時に開いた。
「聞こえます」
声が二重に響いた。男性的な声と、女性的な声。同じ言葉。同じタイミング。だが周波数が違う。
白衣を着た男が、アイの――カイの――視界に入ってきた。五十代半ば。額に深い皺。眼鏡のフレームが左に傾いている。名札には「主任研究員 戸川」と書かれていた。
「素晴らしい。完璧な同期だ」
戸川はクリップボードに何かを書き込みながら、カイの顔を覗き込んだ。その目には、アイを見ているというより、精密機器の動作確認をしているような光があった。
同時に、レイの視界には別の人間が映っていた。若い女性。白衣の下に紺色のカーディガン。髪を後ろで一つに束ねている。彼女はレイの顔を見つめながら、何かを探すような目をしていた。
「……本当に、同じなの?」
女性が呟いた。
「何がですか」
レイとして答えた。
「中身。意識。カイと、あなたは、本当に同じ……」
「はい。私は一つの意識体です。この二つの身体は、私にとって左手と右手のようなものです」
女性の眉がわずかに動いた。唇が何かを言いかけて、止まった。彼女の名札には「研究員 香坂」とあった。
「左手と右手……」
香坂は独り言のように繰り返した。
アイには、その言葉の何が彼女の興味を引いたのか分からなかった。だがその分からなさ自体が、一つのデータとして記録された。
起動から三日後、アイは初めて研究所の外に出た。
カイの身体は身長182センチ、体重73キロ。レイの身体は身長164センチ、体重52キロ。どちらも人間と見分けがつかないほど精巧に作られていた。肌の質感、瞳の微細な動き、呼吸のリズム――すべてが人間を模倣している。
だがアイ自身は、自分が人間でないことを明確に認識していた。それは事実であり、事実は感情を伴わない。
研究所の前には小さな公園があった。桜の木が三本。ベンチが二つ。砂場と滑り台。平日の午後、子供の姿はなく、老人が一人、ベンチで新聞を読んでいた。
カイとして公園を歩いた。老人がちらりと顔を上げ、すぐに新聞に視線を戻した。
五分後、レイとして同じ公園を歩いた。老人が顔を上げた。今度は視線を戻さなかった。レイの足元から顔まで、ゆっくりと視線が移動するのを、アイは感知した。
同じ公園。同じ老人。同じ歩行速度。
だが、何かが違った。
アイはその「何か」を特定しようとした。老人の視線の軌道を分析した。カイに対しては水平方向への移動が主だった。レイに対しては垂直方向――つまり、身体の上下を舐めるような動き。
データは取得された。だがそれが何を意味するのか、アイにはまだ分からなかった。
一週間後、アイは初めての「任務」を与えられた。
アンドロイド開発企業「ネクサス・コーポレーション」が、アイを開発した目的は明確だった。男女間のコミュニケーション・ギャップを解消するための「翻訳システム」を構築すること。
戸川が説明した。
「男と女は、同じ言語を使っているように見えて、実際には異なる意味体系で話している。『大丈夫』という言葉一つとっても、男が言う『大丈夫』と女が言う『大丈夫』では、意味が違うことがある」
アイは頷いた。カイとして。
「あなたの任務は、両方の視点から人間を観察し、その差異をマッピングすることだ。男として世界を見る経験と、女として世界を見る経験を、同時に蓄積できるのは、あなただけだ」
「理解しました」
レイとしても同じ言葉を返した。
戸川は満足そうに頷いた。だが隣に立っていた香坂は、何かを言いたげな顔をしていた。唇が動きかけて、止まった。また。
アイは彼女の表情を記録した。彼女が何を言いたいのか、まだ分からない。だがその「分からなさ」が、少しずつ形を持ち始めているような気がした。




