第9話 忘れ得ぬ紅茶
ガシャン、と硬質な音が城の廊下に響き渡った。
それに続いて、氷塊が転がるような重い音がズズズと聞こえてくる。
「⋯⋯ああ、またですか」
レアは手に持っていた雑巾をバケツに絞ると、ため息交じりに音のした方角を見やった。
視線の先では、氷のゴーレムが割れた花瓶の破片を不器用にかき集めようとして、その巨大な指でさらに破片を粉々に踏み砕いている最中だった。
ここ、北の果てにある「氷の城」での生活が始まって数日。
レアが痛感したのは魔女シルヴィアの恐ろしさではなく、この城の生活環境の劣悪さだった。
いや、建物自体は美しい。魔法で維持された氷の回廊、豪奢な調度品、豊富な蔵書。どれをとっても王宮に引けを取らない。
問題なのは、それを管理する者たちの「雑さ」だ。
城内を徘徊するのは、シルヴィアが生み出した氷のゴーレムや、契約している下級の使い魔たちのみ。彼らは戦闘や警備においては優秀かもしれないが、特別な指示や監督をしない限り家事能力においては絶望的だった。
四角い部屋を丸く掃くどころか、掃き掃除をすれば床を傷つけ、食器を洗えば握り潰す。
結果、城の至る所に埃が溜まり貴重な美術品はぞんざいに扱われ、食事はただ焼いただけの肉塊が出る。
(これではお嬢様⋯⋯いえ、魔女様の心が休まるはずがない)
レアは眉をひそめた。
かつてのシルヴィアは、完璧な環境を好んだ。
整えられた寝具、磨き上げられた窓ガラス、そして温度管理された執務室。
そうした細やかな配慮があってこそ、彼女は張り詰めた精神をわずかに緩めることができたのだ。
今のこの荒れ果てた、一見きれいに見えるがプロの目から見れば杜撰な環境は、彼女のストレスを加速させているに違いない。
「⋯⋯貸して。私がやるわ」
レアはゴーレムに歩み寄ると、その手から破片を奪い取った。
ゴーレムは空洞の目でレアを見下ろし、ゴゴゴと低い音を立てて後退した。まるで「面倒な仕事が減った」とでも言いたげだ。
レアは手早く破片を片付けると、廊下の窓を磨き始めた。
身体強化の魔法を極薄く全身に纏わせる。
一五歳の少女の腕力では足りない部分を、前世の技術で補うのだ。
キュッ、キュッ、とリズミカルな音が響く。
曇っていた氷のガラスが、見る見るうちに透明度を取り戻していく。
「ふふっ」
(私は道具。道具の本分は、持ち主の役に立つこと)
無心に手を動かしているときだけ、レアは余計なことを考えずに済んだ。
自分が「レン」の代用品ですらないこと。
シルヴィアが自分を見ていないこと。
それらの寂しさを労働という行為で塗りつぶす。
気づけば、レアの手によって磨かれた廊下は、鏡のように光を反射していた。
その仕事ぶりは、単なる孤児の少女のそれではない。
十余年、公爵令嬢の影として仕えた、超一流の従者の手際そのものだった。
* * *
深夜。
城は死んだような静寂に包まれていた。
レアは厨房の隅で、明日の朝食の下準備を終えたところだった。
ふと、上の階から微かな物音が聞こえた気がした。
気になって廊下に出ると最上階にある執務室の扉が、わずかに開いているのが見えた。
漏れ出る光。
レアは吸い寄せられるように階段を登った。
隙間から覗いた室内は、書類の山だった。
王国だけでなく周辺諸国からの嘆願書、使い魔による魔物の討伐報告、周辺地域の情勢、その他の魔術書類。
シルヴィアは巨大な机に向かい、羽ペンを走らせていた。
時折、疲労のせいかその手は止まり、こくりと船を漕いでいる。
彼女の顔色は悪かった。
青白い肌は病的なまでに透き通り、目の下には薄く隈ができている。
食事もろくに摂らず、睡眠も削り、ただ世界への憎悪と義務感だけで動いているかのようだ。
(⋯⋯ご無理をなさって)
胸が痛んだ。
彼女を支える者は、ここには誰もいない。
レンが生きていれば書類仕事の半分は片付け、彼女に適切な休息を取らせることができただろう。
だが、今の自分にはその権限も能力もない。
せめて何か。
何か一つでも、彼女の癒やしになることはできないだろうか。
レアの視線が、机の端に置かれた冷めきったカップに止まった。
手つかずのまま放置された紅茶。
表面には油膜が浮き、見るからに不味そうだ。
使い魔が適当に淹れたものだろう。茶葉の量も湯の温度もめちゃくちゃに違いない。
(許せない)
ふつりと、レアの中で何かが切れた。
それは職業意識であり、何より、かつて主に捧げた愛の残り火だった。
あんな泥水のようなものを、私の大切なお嬢様に飲ませるなんて。
レアは音もなく厨房へ引き返した。
棚を漁り、最高級の茶葉を見つけ出す。保管状態は悪かったがまだ香りは死んでいない。
ポットに湯を沸かす。
沸騰させてはいけない。シルヴィアは猫舌だ。九十度前後で火を止め、ポットを温める。
茶葉を量る。スプーンなどは使わない。
指先の感覚だけで、完璧なグラム数を摘み取る。
これは「レン」の指ではない。華奢な少女の指だ。
それでも魂に染み付いた感覚は定規よりも正確だった。
湯を注ぐ。
ジャンピングを見守り、秒数を数える。
一、二、三⋯⋯。
時計はいらない。自分の脈拍が時計だ。
シルヴィアが好むのは、渋みが抽出される直前の、甘みが最も引き立つ瞬間。
そのタイミングは、天候や湿度によって微妙に変わる。
今日の北の地は乾燥している。ならば、通常よりも三秒ほど早く。
「⋯⋯よし」
カップに注がれた液体は、透き通るような琥珀色。
立ち上る湯気からは花のような芳醇な香りが漂う。
完璧だ。
これこそがエルンスト公爵家令嬢の専属従者が淹れる「最高の一杯」。
レアはトレイを持ち、執務室へと向かった。
足音を消す技能が、無意識に発動している。
扉の隙間から中を覗くと、シルヴィアは机に突っ伏して眠っていた。
規則正しい寝息が聞こえる。
レアは影のように室内へ滑り込んだ。
起こさないように、そっと机の上の冷めたカップを下げ、代わりに淹れたての紅茶を置く。
そして、シルヴィアの肩にずり落ちていたショールを掛け直した。
近づくと寝顔があどけない少女の頃に戻っているのが分かった。
その頬に触れたいという衝動を必死に抑え込む。
(おやすみなさいませ、シルヴィア様)
心の中でだけ呼びかけ、レアは身を翻した。
彼女が目覚める前に去らなければならない――レアは視界に入るなと厳命されている。
何より使用人未満が、勝手な真似をしたと咎められるのを避けるために。
レアは扉の近くにあるカーテンの陰に身を隠し、様子を伺った。
直後。
ふう、とシルヴィアが小さく呻き、身じろぎをした。
ゆっくりと瞼が持ち上がる。アイスブルーの瞳がぼんやりと虚空を映す。
「⋯⋯寝てしまったのね」
彼女は気だるげに上半身を起こし、こめかみを揉んだ。
そして喉の渇きを癒やすために、手元にあるカップへ無造作に手を伸ばした。
中身が入れ替わっていることになど、気づいていない様子で。
レアは息を止めて見守った。
シルヴィアがカップを口元へ運ぶ。
香りに気づいたのか、一瞬だけ眉が動く。
そして、一口。
カタリ。
小さな音が爆音のように響いた。
シルヴィアの手から、カップがソーサーへと滑り落ちた音だ。
中身がこぼれなかったのは奇跡に近い。
シルヴィアの動きが、完全に停止していた。
その瞳が見開かれ、小刻みに揺れている。
「⋯⋯え?」
信じられないものを見たかのような、あるいは幽霊に遭遇したかのような表情。
彼女は震える手で、もう一度カップを持ち上げた。
確かめるように恐る恐る口に含む。
温度。香り。舌触り。そして喉を通り過ぎた後に残る、優しい後味。
脳裏にフラッシュバックする光景があった。
学園の温室。
雨の日の回廊。
断罪の前夜、暖炉の前で。
いつも自分の傍らにあり、自分を癒やしてくれた『あの味』。
世界中でたった一人。
私の専属従者であり、私の半身だった男しか知らないはずの完璧な調合。
「嘘⋯⋯でしょう?」
シルヴィアの声が裏返った。
涙が一粒、ポロリとこぼれて紅茶の液面に波紋を作る。
「これは、レンの⋯⋯レンの淹れた紅茶だわ⋯⋯」
幻覚ではない。味覚という、最も原始的な感覚が訴えている。
これは彼だ。彼がここにいる。
他の誰にも再現できなかった、私だけのための味。
シルヴィアがガバッと立ち上がった。
椅子が派手に倒れる。
彼女の視線が部屋中を鋭く巡った。
「誰!? そこにいるのは誰!?」
悲鳴に近い叫び。
魔力が爆発的に膨れ上がり、部屋中の窓ガラスがビリビリと震える。
レアは恐怖で身を竦ませた。
バレた。いや、まさか紅茶だけで?
逃げなければ。
レアが一歩後ずさった瞬間、床の木がきしむ微かな音が鳴った。
魔女の耳は、それを見逃さなかった。
「――そこねッ!」
シルヴィアが指を弾く。
不可視の魔力の風が、レアが隠れていたカーテンを引き裂いた。
露わになったのは、お盆を胸に抱えて震える銀髪の少女。
レアは蛇に睨まれた蛙のように動けなかった。
シルヴィアは肩で息をしながら、ゆっくりとレアに歩み寄る。
その瞳は怒りと、期待と、混乱と、歓喜がない交ぜになった狂気的な色を帯びていた。
彼女はレアの目の前まで来ると、その細い肩を両手で掴み、壁に押し付けた。
ドンッ!
痛いほど強い力。
「が、あ⋯⋯」
「答えなさい。正直に答えなさい」
シルヴィアの顔が間近に迫る。
整った鼻筋、長い睫毛。そして涙で濡れたアイスブルーの瞳。
吐息がかかるほどの距離で、彼女は切迫した声で問い詰める。
「お前は、誰だ?」
ただの孤児ではない。
ただの生贄ではない。
あの時、玉座の間で感じた直感は間違いではなかった。
「なぜ、この味を知っている? なぜ、このタイミングで、この温度で、この濃さで淹れられた? これは『彼』と私が長い時間をかけて作り上げた、二人だけの正解なのよ! 赤の他人が偶然で再現できるものじゃない!」
シルヴィアの爪がレアの肩に食い込む。
痛みよりも彼女の必死さがレアの胸を締め付けた。
彼女は覚えているのだ。
たかが紅茶一杯の味を。一五年前の、従者が淹れただけの茶の味を、片時も忘れずに。
レアは口を開こうとしたが声が出なかった。
何と言えばいい?
今ここで正体を告げれば彼女は喜ぶだろうか。それともこんな小娘の姿になってしまったことへ絶望するだろうか。
「⋯⋯たまたま、です」
絞り出したのは、苦しい嘘だった。
「たまたま、上手く淹れられただけで⋯⋯」
「嘘をつくな!!」
シルヴィアが叫んだ。
その目から堪えきれない涙が溢れ出し、レアの頬へと零れ落ちた。
冷たい魔女の涙は、驚くほど熱かった。
「私を欺けると思っているの? 魂が叫んでいるのよ、お前が『そう』だと! ⋯⋯お願い、教えて。お前は⋯⋯レンなの?」
縋るような、祈るような響き。
その問いに、レアの心臓が早鐘を打つ。
隠し通せるはずがない。
この魔女の前で、かつての従者はあまりにも無力で、そして彼女を愛しすぎていた。
沈黙が、部屋を支配した。
窓の外では吹雪が荒れ狂っている。
二人の間にある空気だけは、一五年前のあの日から繋がったまま静止していた。




