第8話 15年越しの視線
氷の城の内部は、静寂そのものだった。
城門をくぐったレアを出迎えたのは生きた人間ではなく、氷塊でできた無骨なゴーレムたちだった。
彼らは言葉を発することなく、ただ機械的にレアを城の奥へと誘導していく。
回廊の壁も、床も、天井も、すべてが青白い氷で構成されていた。
歩くたびにカツ、カツと硬質な音が反響し、それがまるで自分自身の処刑台へのカウントダウンのように聞こえる。
空気は刃物のように冷たかったが、レアの背筋を震わせていたのは寒さだけではない。
城の深部へ進むほどに増していく、圧倒的な魔力の奔流。
それは呼吸をするだけで肺が凍りつきそうなほど濃密で、同時に、泣きたくなるほど懐かしい気配を纏っていた。
(間違いない。この先に、あの方がいる)
一五年という歳月は、彼女をどう変えてしまったのだろうか。
レアは祈るような気持ちで、巨大な両開きの扉の前に立った。
氷のゴーレムが重々しく扉を押し開く。
軋む音と共に謁見の間がその全貌を現した。
そこは広大な空間だった。
高い天井からは無数の氷柱がシャンデリアのように垂れ下がり、青白い燐光を放っている。
そして、その最奥。
何段もの階段を上がった先に鎮座する氷の玉座に、その人はいた。
「⋯⋯またか」
広間に響いたのは鈴を転がすような可憐さと、地獄の底のような冷たさを併せ持った声だった。
シルヴィア・エルンスト。
かつての主人は、そこにいた。
記憶の中の少女はもういない。そこに座っていたのは成熟した妖艶な美貌を持つ、一人の「魔女」だった。
輝くプラチナブロンドは腰まで波打ち、その身には漆黒のドレスを纏っている。白磁の肌との対比が、彼女の人間離れした美しさを際立たせていた。
年齢は三十代前半といったところだろうか。だが、その瞳に宿る光は数百年を生きた老賢者のように深く、そして昏い。
彼女は頬杖をつき、けだるげな視線を足元の虚空に投げていた。
レアのことなど見ていない。視界に入れる価値すらないと言わんばかりだ。
「あの愚かな豚どもは、いつになったら学習するのかしら。生贄など頼んでいないと言っているのに」
シルヴィアが指先を軽く振るうと、空気がビリビリと震えた。
苛立ち。それだけで周囲の空間が凍結しそうになる。
「食料や物資ならともかく、人間など送ってこられても迷惑なだけよ。喚くし、汚すし、すぐに死ぬ。⋯⋯氷像にして捨てるにも邪魔になるだけだわ、何の役にも立たない」
独り言のような呟きだった。
しかし、その言葉の端々から人間という種全体への深い絶望と嫌悪が滲み出ている。
レアは息を呑んだ。
あんなにも気高く、領民のために心を砕いていたシルヴィアが、人間を「ただのもの」と言い捨てている。
その事実に胸が張り裂けそうになる。
(ああ、やはり⋯⋯私のせいだ)
私が彼女を一人にしてしまったから。
信頼していた「道具」に裏切られ、孤独という牢獄に閉じ込められた彼女は、心を凍らせることでしか自分を守れなかったのだ。
「⋯⋯おい、そこな娘」
シルヴィアの声が、不意にレアに向けられた。
レアは弾かれたように顔を上げた。
「⋯⋯っ」
「⋯⋯」
視線が、交差する。
レアの琥珀色の瞳と、シルヴィアのアイスブルーの瞳。
その瞬間、謁見の間の時間が止まった。
シルヴィアの動きが凍りついた。
頬杖をついていた手が止まり、組んでいた足がわずかに強張る。
彼女の瞳孔が開き、焦点がレアの瞳の奥底にある「何か」に釘付けになった。
ドクン。
シルヴィアの心臓が、一五年ぶりに激しく跳ねた。
――知っている。
この目を。この視線の温度を。
世界中の誰もが私を恐れ、あるいは蔑み、利用しようとする中でただ一人だけ。
私を「守るべきもの」として、慈しみ、全てを捧げてくれた、あの男の目を。
「⋯⋯まさ、か」
シルヴィアの唇から、震える声が漏れた。
彼女は玉座から立ち上がりかけた。そのドレスの裾がカサリと音を立てる。
目の前にいるのは、薄汚れた孤児の少女だ。
性別も、年齢も、髪の色も、声も違う。
あの日、結界の向こう側で消えていった青年とは、似ても似つかない。
だというのに、魂が叫んでいる。
『見つけた』と。
『帰ってきた』と。
狂おしいほどの衝動がシルヴィアを突き動かそうとした。今すぐ駆け寄り、その体を抱きしめ、中身を暴きたい。
だが次の瞬間、冷徹な理性が鎌首をもたげた。
(――あり得ない)
シルヴィアは奥歯を噛み締め、自嘲の笑みを浮かべた。
何を期待しているの、シルヴィア。
レンは死んだのよ。
私の目すら届かない場所で、私のために、無残に殺された。
この一五年間、あらゆる蘇生魔術を試し禁忌に手を染め、魂の呼び戻しを行ったけれど彼は一度だって応えなかったではないか。
これは私の弱さが見せる幻覚だ。
孤独に狂った脳が、見知らぬ少女の中に彼の面影を勝手に重ねているに過ぎない。
そんな都合のいい奇跡なんて、この残酷な世界にあるはずがないのだから。
シルヴィアはゆっくりと腰を下ろし、再び冷酷な魔女の仮面を被り直す。その指先が玉座の肘掛けに食い込み、微かな亀裂を入れていることには気づかないふりをして。
「⋯⋯名は?」
問いかけられた声は先ほどよりも低く、少しだけ震えていた。
レアは心臓が口から飛び出しそうな緊張を抑え込み、深く頭を下げた。
(――名乗れない。今の自分はレンじゃない、ただのレアだ)
今ここで「レンです」と名乗れば、彼女はどうなる?
ひょっとすると喜んでくれるかもしれない。或いは、あの日彼女を置いて死んだ罪を問われるかもしれない。
でも、きっと彼女が求めているのはレンだ。ガリガリにやせ細った孤児のレアじゃない。
今の自分はどうひっくり返っても、ただの無力な少女でしかなかった。
かつてのように彼女を剣で守ることも支えることもできはしないだろう。
そんな中途半端な存在として現れるのは、彼女の古傷を抉るだけではないのか。
自分は道具だ。
壊れた道具が新しいガワを被って主人の前に現れるなんて、おこがましいにも程がある。
「⋯⋯レアと申します」
レアは震える声を必死に抑えて答えた。
できるだけ弱々しく。どこにでもいる哀れな生贄の少女として。
「王国の孤児院より参りました。⋯⋯あの、お命だけはお助けください。私にできることなら、何でもいたします」
「何でも、だと?」
「はい。掃除、洗濯、料理⋯⋯雑用であれば一通りこなせます。どうか、城の隅に置いていただけないでしょうか」
レアは額を氷の床に擦り付けた。
そう。これでいい。
ただの使用人として、彼女の視界の端にいられれば十分だ。
彼女が生きていることを確認できた。それだけでこの二度目の人生には意味があった。
そして今出来る最大限の奉仕でもって、彼女の心を癒やすのだ。
シルヴィアは、床に伏せる少女を冷ややかな目で見下ろした。
失望。
そう、やはり違う。
あいつならこんな風に命乞いはしない。
『私は道具です』と淡々と言い放ち、私の命令を待つはずだ。
この少女はただ死を恐れる凡庸な人間に過ぎない。
⋯⋯だというのに。
なぜだろう。彼女を追い出す気にはなれなかった。
あの琥珀色の瞳が、どうしても脳裏から離れない。
「⋯⋯ふん」
シルヴィアは鼻を鳴らし、興味を失ったふりをして手首を振った。
「好きにするがいい」
それは実質的な許可だった。
普段なら即座に氷像に変えるか、使い魔の餌にするところを気まぐれに命を拾ってやる――そんな態度。
「城の家事は使い魔たちに任せているが、細かなところには手が届かん。勝手に働くなら止めはしないわ」
「あ、ありがとうございます」
「ただし」
シルヴィアの声が、氷点下の刃となってレアを貫いた。
「私の視界を汚すな。私の邪魔をするな。そして二度と、私にその目を向けるな」
拒絶の言葉。
だが、その裏にあるのは「それ以上見られると、心が揺らいでしまう」という魔女の悲痛な叫びだった。
もちろん、レアにそれが伝わるはずもない。
「⋯⋯承知いたしました、魔女様」
レアは深く一礼し、逃げるように広間を後にした。
重い扉が閉まる音が、ドォンと響く。
再び静寂が戻った玉座の間で、シルヴィアは一人、天井を見上げた。
その瞳から一雫の涙がこぼれ落ち、頬を伝って凍りついた。
「⋯⋯レン」
誰もいない空間で、愛しい人の名前を呼ぶ。
あの子が彼であるはずがない。
分かっている。分かっているのに。
胸の奥で燻り始めた小さな火種は、もう二度と消えそうになかった。




