第24話 氷の城、夜
その日の氷の城は深海のように静かで、そして濃密だった。
窓の外には雪原が青白い月光に照らされ、かつてあんなに荒れ狂っていた吹雪は王国の軍勢が壊滅し、脅威が去ったと同時に嘘のように凪いでいた。
月明かりが差し込む寝室で私はシルヴィア様の腕の中に包まれている。
ことり、と窓枠を叩く乾いた音がした。
見れば氷で作られた小さな白いフクロウが止まっている。
シルヴィアが放っていた連絡用の使い魔だ。
「⋯⋯報告が来たようね」
シルヴィアは身を起こすと指先を振るった。
窓が開き、フクロウが滑り込んでくる。それは空中で弾けて光の粒子となり、シルヴィアの耳元で囁くように情報を伝達した。
私はシーツを胸元まで引き上げ、その横顔を見つめていた。
長い睫毛が影を落とす、彫刻のように美しい横顔。その表情がふっと緩んだ。
「終わったわ」
シルヴィアは短く告げた。
「ランベルト王国、王家は滅び地図上から消え去ったそうよ」
その言葉はあまりにも淡々としていて、今日の夕食の献立を告げるのと変わらない温度だった。
私は息を呑んだ。
覚悟はしていた。あの無謀な進軍が失敗した時点で、国の命運は尽きたと分かっていた。
けれど実際に「消えた」と聞かされると、胸の奥に鉛を流し込まれたような重苦しさが広がった。
一五年前。
レン・アシュトンだった私はあの国の一員として剣を振るっていた。
あの国の貴族社会でシルヴィア様が理不尽な目に遭わないよう、必死に立ち回っていた。
私の人生の全てを捧げた場所。
それがこんなにあっけなく、泡沫のように消えてしまった。
「⋯⋯これで、よかったのでしょうか」
ぽつりと、独り言のような疑問が口をついて出た。
シルヴィアがこちらを見る。
私は視線を伏せたまま、言葉を続けた。
「私はあの日、命を懸けてシルヴィア様を逃がしました。それは、あなたが生き延びることで、いつかまた光が当たる日が来るかもしれないと⋯⋯心のどこかで、あの国の更生を信じていたのかもしれません」
でも、現実は違った。
私の死は彼らを何一つ変えなかった。それだけならまだしも、彼らはシルヴィアという唯一の希望を自ら徹底的に遠ざけ、自滅の道をひた走った。
本当ならシルヴィアは王国で輝かしい未来を生きていたはずなのだ。仮にシナリオの強制力があったとしても、あの断罪劇を乗り越えた先にやり直す機会は絶対にあったはずだ。
しかし、ついぞシルヴィアの名誉回復には至らなかった。
すべては、無駄だったのだろうか。
「レア」
名前を呼ばれ、ふわりと温かな気配が近づいた。
シルヴィアがベッドに戻り、私の背後に回って抱きしめてくる。
彼女の指が私の銀髪を優しく梳いた。
「よかったのよ」
彼女の声には一片の迷いもなかった。
「これでよかったの。私は一切後悔していないわ。全て身から出た錆、種を撒き、育て、腐らせたのは彼ら自身よ。その行いが返ってきた、それだけのこと」
「⋯⋯はい」
「お前の献身が無駄だったわけではないわ。お前があの時私を守ってくれたから、今、私たちはこうして生きて、愛し合えている。⋯⋯それだけで、あの国が存在した意味は十分にあったと思わない?」
残酷な理屈だった。
一国が滅んだことを、二人が出会うための舞台装置だったと切り捨てるような。
けれどその傲慢さが今の私には救いだった。
「それにね、レア。⋯⋯お前があの国のせいで胸を痛め、健やかに暮らせないというのなら、いっそのこと綺麗サッパリ消してしまったほうがいいのよ。どうせ、もう国としては機能していなかったのだから」
シルヴィアは悪戯っぽく微笑んだ。
その言葉に、私は少しの違和感を覚えた。
「⋯⋯消してしまったほうがいい、とは? 彼らは自滅したのでは?」
「ええ、きっかけは自滅よ。でも、崩壊した後の処理がスムーズすぎるとは思わなくて?」
シルヴィアはサイドテーブルに置かれた封筒を指差した。
見覚えがある。先日、南方の帝国から届いた最高級の茶葉と一緒に送られてきた手紙だ。
私はてっきり、茶葉の礼状か何かだと思っていたのだが。
「隣国の帝国、それに西の共和国。彼らがこれほど迅速に軍を動かし、治安維持という名目で領土を分割統治できたのは、なぜだと思う?」
私はハッとしてシルヴィアを見た。
彼女は悪女のような、それでいて頼もしい女王のような顔で笑っていた。
「ま、まさか⋯⋯」
「事前に話をつけさせておいたわ。⋯⋯『近いうちに王国は統治能力を失う。その際は速やかに介入し、民を保護せよ。その代わり北の地には一切干渉するな』とね」
背筋が震えた。
彼女はこの氷の城に引きこもっていたのではなかったのか。
世捨て人のように世界を拒絶しているようでいてその実、彼女の手は世界の裏側にまで伸びていたのだ。
「遠隔魔法通信に、定期的な交易。⋯⋯私がただ、お前を着飾らせるためだけに、他国と繋がりを持っていたと思った?」
シルヴィアの指が私の頬をなぞる。
「私の可愛いレア。お前との平穏な生活を守るためなら、国の一つや二つ動かすなんて、造作もないことよ」
圧倒された。
私が「道具」として、城門の前で剣を構えて守ろうとしていた時、彼女は遥か高みから、盤上の駒を動かして「詰み」を作り上げていたのだ。
そのスケールの違い。
彼女は私が守らなければならないか弱いお嬢様などではなかった。
正真正銘、この世界を統べることさえ可能な、偉大なる「魔女」だったのだ。
「⋯⋯あ」
私は小さく息を漏らした。
自分の小ささが恥ずかしくもあり、同時に誇らしくもあった。
こんなにも強く、賢く、美しい人が私だけのものなのだ。
「シルヴィア様の心配するなんて⋯⋯おこがましかったですね、私」
私が苦笑すると、シルヴィアは首を横に振った。
「いいえ。お前のその気持ちが、私を強くするの。⋯⋯お前が私を案じてくれる、その心が一番嬉しいのよ」
シルヴィアの腕に力がこもる。
彼女の体温が、ドレス越しに伝わってくる。
そして、ぬるりと。
彼女の手が私の胸元に滑り込んだ。
「ところで、また様に戻ってるわよ?」
「ん⋯⋯っ、シルヴィア⋯⋯」
「もう、難しい話はおしまい。⋯⋯ねえ、レア。外の世界なんてどうでもいいでしょう?」
耳元で囁かれる甘い吐息。
私の思考回路が熱で溶かされていく。
国が滅んだ? 歴史が変わった?
そんなことは今、彼女の指先が私に与えてくれる甘さに比べれば、塵のような些事だった。
ドン、と軽い衝撃。
私はベッドに押し倒されていた。
月光を背負ったシルヴィアが、私の上に覆いかぶさっている。
解けたプラチナブロンドの髪が、白金の帳となって私たちの世界を閉ざす。
「見て、レア。私だけを見て」
シルヴィアの瞳が青い炎のように揺らめき私を映しだす。
そこに一五年前の孤独も、憎しみも、もうない。
あるのは私を喰らい尽くさんばかりの情熱と底なしの愛情だけ。
「はい⋯⋯見ています。あなただけを、ずっと」
私は彼女の首に腕を回して引き寄せた。
唇が重なる。
言葉は吐息に変わり、理性は熱に変わる。
ドレスが脱がされ、肌と肌が触れ合う。
冷たいはずの夜気の中で、私たちの肌は火傷しそうなほど熱かった。
かつてレンだった頃の私は、この行為を「主への不敬」だと恐れていただろう。
けれど今の私は、それを「至上の喜び」として受け入れている。
彼女の一部になりたい。彼女に刻み込まれたい。
その衝動に身を任せることこそが、私の新しい生きる意味なのだ。
「愛しているわ、レア⋯⋯私の命⋯⋯」
「私も⋯⋯私もです、シルヴィア⋯⋯」
互いの名前を呼び合う声が、夜の寝室に溶けていく。
外の世界では、一つの国が終わりを迎え、多くの人々が嘆き、あるいは新しい支配者に怯えているのかもしれない。
歴史が大きく動き、時代が変わろうとしているのかもしれない。
それは、この布団の中の温もりに比べれば、それはあまりにも些細な出来事だった。
私たちは、世界を捨てた。
そして、この小さくも完全な楽園を選んだ。
シルヴィアの激しい愛撫に翻弄されながら私は意識の片隅で思った。
もし、これが「堕落」だと言うのなら。
私は喜んで彼女と共に地獄の底まで堕ちていこう、と。
氷の城の夜はまだ明けない。いや、私たちには太陽など必要なかった。
互いの熱さえあれば、それだけで私たちは永遠に生きていけるのだから。




