第23話 名前を失う者たち
ランベルト王国の崩壊は劇的な革命運動としてではなく、緩慢な腐敗の末の瓦解として歴史に刻まれた。
聖女の奇跡が不発に終わり、絶望した民衆が王宮になだれ込んだあの日。
それは後世の歴史家たちが好むような「圧政に対する自由の蜂起」といった美しいものではなかった。
ただ飢えた人々が食料を求めて暴れ、破壊し、そして疲れ果てて座り込んだだけの悲しい暴動に過ぎなかった。
玉座の間を占拠した民衆は、そこで呆然と立ち尽くした。
絢爛豪華に見えた王宮の倉庫は、空っぽだったからだ。
王太子シリルが豪遊や北への遠征費、聖女への貢ぎ物として浪費し尽くしており、金貨一枚、小麦一袋すら残されていなかった。
王族を殺したところで腹は膨れない。
新しい王を立てようにも、この凍りついた死にかけの国を背負おうとする者など、どこにもいなかった。
熱狂は急速に冷め、後には凍てつくような静寂と行き場のない徒労感だけが残された。
* * *
国王レグルス・ランベルトの最期は、その混乱の最中にひっそりと訪れた。
長らく病に伏せり、政務を息子に任せていた老王は寝室の外から響く怒号と悲鳴を聞きながら、自らの命数が尽きるのを悟っていた。
忠実な老侍従が震える声で事の顛末を報告した。
聖騎士団の壊滅。
聖女の失墜。
そして民衆による王宮の制圧。
「⋯⋯そうか」
枯れ木のような手で布団を握りしめ、王は乾いた息を吐いた。
驚きはなかった。心のどこかで、こうなる予感があったのだ。
一五年前、エルンスト公爵家を追放したあの日から、この国の歯車は狂い始めていた。
公爵家は国の影となり日向となって王家を支える柱石だった。
厳格で融通は利かないが誰よりも国を愛していた公爵。
そして、その娘シルヴィア。
彼女は優秀だった。あまりに優秀すぎて愚鈍な息子シリルでは釣り合わないと、王自身も疎ましく思っていた節がある。
だからこそ息子が「真実の愛」などと叫んで聖女を選んだ時、それを黙認した。
優秀だが可愛げのない娘よりも、愛嬌のある聖女の方が息子を幸せにしてくれるだろうと。
そのときは、その判断が素晴らしいことだと、どうしてか思えてならなかった。
それが国を滅ぼす選択だと分からないはずがなかったのに。
可愛げだけの聖女に政治はできず、叱ってくれる者を失った息子は増長し、国は芯から腐り落ちた。
「⋯⋯すまなかった、エルンスト」
王の口から漏れたのは国への憂いでも、息子への言葉でもなく、かつての盟友への懺悔だった。
「私が⋯⋯お前の娘を信じてやれれば⋯⋯」
シルヴィア・エルンスト。
今や「氷の魔女」と恐れられる彼女こそが、この国の真の希望だったのだ。
その希望を自らの手でへし折った報いが、この寒い終わりの日なのだ。
王の瞳から光が消える。
ランベルト王国の最後の君主は、誰にも看取られることなく、冷たい寝室で孤独に息を引き取った。
* * *
王太子シリル・ランベルトの末路は、より惨めなものだった。
暴徒と化した民衆に捕らえられた彼は、王族としての尊厳を徹底的に踏みにじられた。
自慢の金髪は泥と血にまみれ、豪華な軍服は引き裂かれ、顔の判別がつかないほどに殴打された。
彼を助けようとする騎士は一人もいなかった。彼らはシリルの無謀な命令で仲間を失い、彼を憎んでいたからだ。
シリルは地下牢へと放り込まれた。
かつて彼がシルヴィアを幽閉しようと画策していた、もっとも深く暗い独房へ。
暖房などない。窓もない。あるのは冷たい石床と汚れた藁だけ。
「ここから出せ! 私は王太子だぞ! 次期国王だぞ!」
シリルは鉄格子を掴み、喉が裂けるほど叫び続けた。
「私が何をしたと言うんだ! 私は正義を行っただけだ! 悪いのはあの魔女だ! あの女が冬を終わらせないから! あの女が私の騎士団を殺したから!」
彼は最期まで己の過ちを認めることはなかった。
自分は物語の主人公であり、今は一時的な試練の時なのだと信じ込もうとした。
いつか聖女が助けに来てくれる。いつか民衆が過ちに気づいて謝罪に来る。
そう喚き続け、やがて誰からも相手にされなくなった。
数日後、看守が様子を見に来た時、シリルは冷たくなっていた。
死因は凍死、あるいは餓死。
その顔は恐怖と怨嗟に歪み、かつて「太陽の貴公子」と呼ばれた美貌の欠片も残っていなかった。
彼の遺体は墓標すら作られず、罪人用の共同墓地へと無造作に埋葬された。
* * *
聖女リナと呼ばれた少女の運命は、ある意味で死よりも残酷だった。
暴動の翌日、王都の大聖堂は声明を発表した。
「リナは偽の聖女であり、国を惑わせた魔女の手先であった」と。
保身に走った教会によるトカゲの尻尾切りである。
リナは聖女の称号を剥奪され着ていたドレスも身につけていた宝石もすべて没収された。
薄汚れた平服一枚で、彼女は王都の裏路地へと放り出された。
一五年間チヤホヤされ、何不自由なく暮らしてきた彼女に生きる術などあるはずもなかった。
転生者としての知識? 乙女ゲームのシナリオ?
そんなものは今日を生きるパンの代わりにはならなかった。
彼女は王宮を見上げた。
雪に埋もれ、黒ずんだその城郭は、かつてゲーム画面で見たキラキラした城とは似ても似つかない。
「⋯⋯なんでよ」
リナは乾いた唇で呟いた。
「私はヒロインだったはずよ。⋯⋯私が主役の世界だったはずなのに」
誰も答えない。
通り過ぎる人々は薄汚れた少女を一瞥することすらせず、足早に去っていく。
彼女がかつての聖女であることに気づく者さえいない。
彼女は、ただの「リナ」になったのだ。
何者でもない、名前すら誰も知らない、貧民の一人。
その後、彼女がどうなったかを知る者はいない。
寒さに凍えて野垂れ死んだか、あるいは春を売って生き延びたか。
いずれにせよ、歴史の表舞台から彼女の名前は永遠に消滅した。
* * *
そして、国もまた消えた。
王と王太子を失い、統治機能を喪失したランベルト王国は、もはや国家としての体をなしていなかった。
その混乱に乗じるように、周辺諸国が動き出した。
「人道支援」や「治安維持」という名目で、隣国の軍隊が国境を越えて進駐してきたのだ。
抵抗する力は残っていなかった。
民衆はパンを持ってきてくれるなら支配者が誰であろうと構わなかった。
こうして冬の終わりと共に地図の上から「ランベルト王国」という名前は塗りつぶされた。
領土は分割され、ある部分は帝国領に、ある部分は共和国領に編入された。
かつて大陸有数の強国と呼ばれた国は、一滴の血も流す戦争をすることなく、自らの重みで潰れるようにして歴史の幕を閉じたのである。
* * *
すべてが終わった後、北の地だけが残された。
新しい支配者たちは、北への干渉を避けた。
ランベルト王国を滅ぼした原因が、北の「氷の魔女」にあることを知っていたからだ。
精鋭騎士団を一瞬で壊滅させる暴風雪。
人を拒絶する絶対零度の結界。
そこに触れれば国一つが傾くほどの災害に見舞われる。
人々は北の地を地図上の空白地帯とした。
そこはもう、誰かの領土ではない。
人が足を踏み入れてはならない、畏怖すべき「神域」。
時が経つにつれ、シリルやリナの名前は忘れ去られ、ランベルト王国の歴史も風化していった。
だが「氷の魔女」の伝説だけは、恐怖と共に語り継がれた。
北の果てには美しい氷の城があり、そこには永遠に冬を統べる魔女が住んでいる、と。
しかし、誰も知らなかった。
その恐ろしい魔女が、城の中で何をしているのかを。
彼女が世界への復讐や支配などとうに忘れ、ただ一人の愛しい少女と甘やかな永遠を過ごしていることを。
外の世界の歴史書から名前を失った者たちと対照的に、城の中の二人は互いの名前を呼び合い、確かな「生」を刻み続けていた。
世界に見捨てられた国と、世界を見捨てた恋人たち。
勝者がどちらであったかは、語るまでもないことだった。




