第22話 正義の死に方
ランベルト王国の王都は、巨大な氷の棺桶と化していた。
かつては大陸随一の繁栄を誇った大路も今は降り積もる雪と汚物、そして行き場のない民衆で埋め尽くされている。
食料の配給は途絶えて久しく、人々は薄い布を体に巻きつけ互いの体温で暖を取りながら、王城の方角を睨みつけていた。
今日、遠征に向かった「聖騎士団」が帰還するという噂が流れていたのだ。
彼らは唯一の希望だった。
正義の王太子殿下が北の魔女を討ち、奪われた春を取り戻してくれる。そう信じて送り出した最後の希望たち。
「見ろ! 城門が開くぞ!」
誰かの叫び声に、うずくまっていた人々がのろのろと顔を上げた。
重厚な門が軋みながら開く。
吹雪の向こうから現れたのは黄金の獅子の旗印――ではなかった。
現れたのはボロ屑の行進だった。
輝く鋼鉄の鎧はひしゃげ、凍りつき、黒ずんだ血に汚れている。
馬上の騎士などいない。生き残った者たちは皆、自分の足を引きずり、あるいは手足を失った仲間を荷車に乗せて、亡霊のように彷徨い歩いていた。
五百いたはずの精鋭は、わずか十分の一にも満たない数に減っていた。
「⋯⋯おい、どうしたんだ」
「魔女は? 春は?」
「食い物は奪い返せたのか?」
民衆が我先にと詰め寄ってくるが、対する騎士たちの瞳には光が失われていた。
虚空を見つめ、ブツブツと譫言を繰り返すばかり。
「⋯⋯無理だ」
「勝てるわけがない⋯⋯」
「何も、いなかった⋯⋯ただ、寒かっただけだ⋯⋯」
その言葉がさざ波のように広場に広がっていく。
騎士たちは魔女を倒したのではない。いや、戦ってすらいない。
ただ北の冬に拒絶され、一方的に仲間を殺され、逃げ帰ってきたのだという絶望的な真実。
「お、おい、嘘だろ⋯⋯」
「俺たちの食い物を供出して、装備を整えてやったのに!」
「弱点があると言ったじゃないか! 魔女は少女に夢中で、隙だらけだって言ったじゃないか!」
民衆の期待は瞬く間にどす黒い失望へと変わった。
英雄の帰還などではなく、これは敗残兵の逃亡だ。
そしてそれは、王国の「正義」が北の大地で凍死したことを意味していた。
* * *
王城の謁見の間は怒号と悲鳴に包まれていた。
「なぜだ! なぜ負けた! 五百の精鋭だぞ!?」
王太子シリルが報告に戻った騎士団長代理――団長のゲイリーは帰ってこなかった――の胸倉を掴んで揺さぶっていた。
シリルの目は血走り髪は振り乱れ、かつての貴公子の面影はない。
「魔女には弱点があったはずだ! 少女を人質に取れば、魔女はひれ伏すはずだった! バルダーはそう言っただろ!」
「で、殿下⋯⋯城に近づくことさえできませんでした⋯⋯」
代理の騎士は、凍傷で黒ずんだ顔で涙を流した。
「魔法も、剣も、通じません。あそこは⋯⋯人が立ち入っていい場所ではありませんでした。バルダー子爵の報告は、妄言だったのです⋯⋯」
「黙れ黙れ黙れッ!!」
シリルは騎士を突き飛ばし、頭を抱えて座り込んだ。
認められない。
自分の計画が完璧でなかったなんて。自分が騙されていたなんて。
あんな、一五年前に自分が捨てた悪しき魔女ごときに手も足も出ずにあしらわれたなんて。
「リナ! そうだ、リナ!」
シリルは弾かれたように顔を上げ、部屋の隅に佇む聖女を見た。
「君の出番だ! 民衆が動揺している。君が奇跡を見せれば奴らは鎮まる! 君の『聖女の力』で雪を止めてみせろ!」
リナは、死んだ魚のような目でシリルを見返した。
彼女は知っている。自分の力が「魅了」と「小規模な治癒」に特化したものであり、天候操作などという神の御業は不可能であることを。
ゲームの中の「聖女」であれば世界を救えたかもしれない。けれど現実の彼女はただの「愛されること」に特化したアクセサリーだ。
「⋯⋯無理です、シリル様」
「やるんだよ! 君は聖女だろう!? 僕が選んだ最高の女性だろう!? あの魔女より劣っているなんて、あってはならないんだ!」
シリルがリナの手首を掴み、バルコニーへと引きずっていく。
リナは抵抗しなかった。抵抗する気力も残っていなかった。
ただ、心の中で冷笑していた。
(ああ、終わった。全部終わった)
シナリオの強制力なんて存在していなかった。
あったのは無能な王太子と勘違いした転生者が招いた、必然の破滅だけ。
* * *
王宮前の広場は数万の民衆で埋め尽くされていた。
彼らは飢え、凍え、そして怒っていた。
騎士団の敗北は、王家への不信を決定的なものにしていた。
「王を出せ! 説明しろ!」
「パンをよこせ! 薪をよこせ!」
「嘘つきめ! 春なんて来ないじゃないか!」
投石が始まる寸前、バルコニーの扉が開き、ピンクブロンドの美しい少女が現れた。
聖女リナだ。
彼女の姿が見えた瞬間、広場の喧騒がわずかに静まった。
腐っても聖女。一五年間、国の象徴として崇められてきたアイドル。彼女なら、もしかして。
リナは手すりに立ち灰色の空を見上げると震える手を組み、祈りのポーズをとった。
「⋯⋯光よ」
彼女の体から淡いピンク色の光がキラキラと溢れ出していく、それはとても美しかった。暖かな春を連想させる、慈愛の光。
民衆から「おお⋯⋯」と感嘆の声が漏れる。広場に膨れ上がる期待――だが、それだけだった。
光は広場を照らしたが、熱はやってこなかった。
空から降ってくる雪は、光を吸い込んでも溶けることなく、冷たい塊のまま人々の頭上に降り注ぎ続ける。風は一向にやまず雲が割れることもない。
リナの光は吹雪という圧倒的な自然の暴力の前では、蛍の光のように儚く、無力だった。
一分、五分、十分――リナは必死に祈り続けた。持てる全ての魔力を放出して笑顔を作ろうとした。
けれど世界は何も変わらなかった。ただ、彼女のドレスに雪が積もっていくだけ。
「⋯⋯寒い」
誰かが呟いた。
「寒いじゃないか!」
「雪が止まないぞ!」
「何も起きないじゃないか!」
期待が裏切られた反動は、凄まじかった。
感嘆の声は罵声に変わり、祈りは怒号に飲み込まれた。
「偽物だ! あれは聖女なんかじゃない!」
「ただの光るだけの飾り人形じゃねぇか! ふざけんじゃねぇぞ!」
「俺たちを騙しやがったな! 偽聖女!」
ビュッ、と音がして一際大きな石が飛んだ。
それはリナの額に当たり、赤い血を散らせた。
「きゃっ⋯⋯!」
リナが悲鳴を上げて崩れ落ちる。
それを見たシリルが「貴様ら、無礼だぞ!」と叫んで前に出るが、それが火に油を注いだ。
「あの無能王太子を引きずり下ろせ!」
「殺せ! 俺たちが飢えているのに、ぬくぬくと肥え太りやがって!」
暴徒と化した民衆が、城門へと殺到した。
普段なら近衛兵や騎士団がそれを食い止めるはずだった。
しかし精鋭たちは北の地で凍りつき、帰ってきた者たちも戦意を喪失して座り込んでいる。
城門を守る兵士はあまりにも少なく、飢えた獣のようになった数百、数千の民衆を止める術はなかった。
メリメリと音を立てて門が歪んでいく、王宮になだれ込もうとする人の波。
それは革命という高尚なものではない、ただの集団ヒステリーによる破壊と略奪の終末。
その混乱の中で、ある老人が空を見上げて呟いた。
「⋯⋯エルンスト公爵がいらっしゃれば」
その言葉は呪いのように周囲へ伝播した。
「そうだ⋯⋯あの方々がいた頃は、こんなことはなかった」
「エルンスト様はどこへ行っちまったんだよ!」
「魔女を生んだ家だって、王家が取り潰したんだろ!」
「あの方々は厳しかったが、俺たちを餓死させたりはしなかったぞ!」
「追い出す相手を間違えたんだ⋯⋯王家こそ悪魔だ!」
「本物の『正義』を殺しちまったからこうなったんだ!」
遅すぎる後悔。
一五年前、王国はシルヴィアを断罪し北へと追いやった。
その報いが今、彼ら自身の首を絞めている。
北の空を見上げても、そこにあるのは分厚い雲と死の沈黙だけ。
魔女はもう、彼らを憎んですらいない。助けもしないし、殺しもしない。
ただ、関心を失っただけだ。
それが何よりも残酷な「断罪」であることを、人々は骨の髄まで理解した。
ついにバリケードが破られ、王宮の扉が開く。
雪崩れ込む民衆の絶叫とともに、ランベルト王国の「正義」は、誰に看取られることもなく、泥と雪の中で息絶えた。




