第20話 勝利の口づけ
時が止まっていた。
あるいは世界が一度死んで、新しく生まれ変わったのかもしれない。
私の腕の中で、銀色の髪をした少女が命の鼓動を煌めかせている。
華奢な肩を震わせ、私のドレスを握りしめ、壊れた玩具のように嗚咽をもらしながら、その暖かさを私に伝えてくる。
そして、その唇から紡がれた言葉は一五年間、私がどんな魔術を使っても手に入らなかった「真実」だった。
『一人の男として⋯⋯大好きでした』
『シルヴィア様⋯⋯愛しています』
その言葉は私の鼓膜を震わせ、脳髄を痺れさせ、凍りついていた心臓を一気に融解させていった。
熱い。迸るように熱い。身体中を駆け巡るこの熱は魔力ではない。歓喜だ。
全身の血が沸騰するほどの、目眩がするほどの幸福感。
(ああ⋯⋯勝った! 私は勝った!!!)
私は心の中で誰とも知れぬ相手に向かって勝利を宣言した。
「道具」としての矜持に。
「身分」という壁に。
そしてあの日雪の中で私を拒絶して死んだ、あの頑固な従者の「自己犠牲」に。
一五年前、彼は私のために死んだ。それは究極の献身だったけれど、私にとっては究極の拒絶でもあった。
『お前と生きる未来よりも、お前を生かす死を選ぶ』と言われたようなものだから。
だから私は、ずっと敗北感と喪失感の中で生きてきた。
それも、もう過去だ。
生まれ変わった彼は――私の愛しいレアは、死んで逃げることではなく生きて私の隣にいることを選んでくれた。
道具として役立つことではなく、ただ愛し合うことを望んでくれた。
「⋯⋯ふ、ふふ⋯⋯」
笑いが込み上げてくる。
堪えきれない。この胸の震えを、この至福を、どう表現すればいいのか分からない。
私はレアの背中に回していた腕に力を込め、彼女の身体を自分の胸にめり込ませるほどきつく抱きしめた。
「ようやく⋯⋯ようやく、私の腕の中に落ちてくれたのね」
耳元で囁くと、レアがビクリと反応した。
彼女は顔を上げ、濡れた瞳で私を見つめる。
その琥珀色の瞳には、もう迷いはない。あるのは私への熱っぽい思慕と少しの羞恥と全身全霊の信頼だけ。
なんて可愛いのだろう。
こんなにも愛らしい生き物が私のものなのだ。
誰のものでもない。神様のものでさえない。私だけの、レア。
私はレアの顎に指をかけ、くい、と持ち上げた。
抵抗はない。されるがままに彼女は艶めいた唇を晒す。
「言ったでしょう、レア」
私は彼女の瞳の奥を覗き込みながら、魂からの誓いを口にする。
「世界なんてどうでもいいと」
窓の外では境界線を超えた羽虫たちが騒いでいる気配――王国の軍勢、かつて私を断罪し彼を殺した国の人形たち。
彼らは今も私からレアを奪おうと必死に爪を立てているのだろう。
愚かで、滑稽で、哀れな人たち。
「国も、民も、正義も⋯⋯そんなもの、私には塵ほどの価値もないわ。お前がいない世界に、守るべき価値なんて一つもない」
レアの瞳が揺れる。
彼女はかつて私を守るために剣を振るった人だ。誰かのために自分を犠牲に出来る優しい人――私の言葉は彼女の正義に反するかもしれない。
だけど、今の彼女はそれを否定しなかった。
ただ、うっとりと私の言葉を受け入れている。
「たとえ世界が敵になろうとも私はお前を選ぶ。⋯⋯お前が、世界よりも私を選んでくれたように」
そう。私たちは共犯者だ。
世界から祝福されなかった二人が世界の理に背を向けて、互いだけを選び取ったのだ。
なら、その結末まで二人で堕ちていくのが筋というもの。
「シ、ルヴィア様⋯⋯」
レアが吐息交じりに私の名前を呼ぶ。
誘っている。無意識に、その瞳が、唇が、私を求めている。
もう、我慢する必要はなかった。
焦らす必要も、試す必要もない。
目の前にいるのは私の半身。私が一五年間、地獄の底から這い上がってでも会いたかった、運命の相手。
「⋯⋯愛しているわ、レア」
私はゆっくりと顔を近づけた。
レアが目を閉じる。長い睫毛が震えている。
鼻先が触れ合い、互いの呼吸が混ざり合う。
そして、唇が重なった。
ちゅ、と小さな音がして、柔らかな感触が伝わる。
甘い。
フィナンシェの甘さではない。魂がとろけるような、極上の蜜の味。
レアの唇は熱く、そして震えていた。
最初は触れるだけの口づけだった。
けれど、それだけでは足りない。
一五年分の渇きを癒やすには、もっと深く、もっと濃密な接触が必要だった。
私は角度を変え、彼女の唇を食んだ。
舌先でこじ開けると、レアはおずおずと受け入れてくれた。
舌が絡み合う。
唾液が混ざり、吐息が交換される。
私の魔力が彼女の中に流れ込み、彼女の熱が私の中に満ちていく感覚。
「ん⋯⋯ぅ、んっ⋯⋯」
レアの喉から、甘い鳴き声が漏れる。
その声が、私の理性をさらに溶かしていく。
私は彼女の後頭部に手を回し、逃がさないように押さえつけた。
貪るように。確かめるように。
自分の命を相手に分け与えるような、深く、長い口づけ。
それは契約の儀式などではなかった。
主従の契約も、悪魔との契約も、こんなに満たされることはない。
これは「融合」二つの魂が境界線を失って一つに溶け合う現象だ。
私の心の中にあった、占拠する冷たい氷の城が音を立てて崩れていく。
代わりに咲き乱れるのは春の花々。
レアという太陽が私の内側を照らし、幸せと幸福でたっぷりと恵みの雨をもたらしてくれる。
どれくらいの時間が経っただろうか。
永遠のようにも、一瞬のようにも感じられた口づけが終わる。
名残惜しさに銀の糸を引きながら、私たちはゆっくりと唇を離した。
目の前にあるレアの顔は、熟れた果実のように赤く染まっていた。
瞳は潤み、焦点が定まらず、ただ熱っぽく私を見つめている。
その表情があまりにも艶めかしくて、私は背筋がゾクゾクするほどの興奮を覚えた。
「⋯⋯はぁ、はぁ⋯⋯シルヴィア、様⋯⋯」
「シルヴィアよ」
私は彼女の乱れた前髪を優しく直しながら、訂正した。
「もう、主人ではないもの。⋯⋯ただの、お前の女よ」
「⋯⋯はい、シルヴィア⋯⋯さん」
「⋯⋯今はそれで許してあげる」
私はもう一度、今度は啄むように彼女の唇にキスをした。
レアは嬉しそうに目を細め、私の首に腕を回してくる。
身体を密着させる。
ドレス越しの胸の鼓動が、一つに重なって聞こえる。
この瞬間、私たちの間にあった物理的な距離も精神的な距離も、完全にゼロになった。
もう、言葉はいらない。
ただ触れ合っているだけで、互いの感情が手に取るように分かる。
レアの体から伝わってくるのは絶対的な安心感と、私への溢れんばかりの愛情。
私の体から伝わるのも、彼女への狂おしいほどの執着と、満ち足りた幸福感。
窓の外では、ゴオオオオと風が唸りを上げている。
侵入者たちを拒絶する猛吹雪は、今や最高潮に達しているだろう。
極寒の地獄。死の世界。
私たちの周りだけは違った。
暖炉の火よりも温かく、春の陽だまりよりも優しい光が満ちている。
ここは世界から切り離された楽園。
誰も入れない。誰も邪魔させない。
私とレア、二人だけの「愛の鳥籠」。
「⋯⋯まったく、いいところなのに外が騒がしいわね」
おもわず零れ出た呟き――レアが私の瞳に視線を止めたまま、ピクリと反応する。
私は彼女の背中を優しく撫でながら微笑んだ。
「気にしなくていいわ。悪い虫たちが、勝手に凍えて落ちていくだけよ」
「⋯⋯はい」
レアはそれ以上、何も聞かなかった。
かつてのように「守りに行かなければ」という焦燥はない。
彼女は今、私の腕の中で守られることを選び、私を信じて委ねてくれている。
その信頼が、たまらなく愛おしかった。
ああ、本当に世界なんてどうでもいい。
この子が私の腕の中にいて、私の名前を呼んでくれるなら、この城以外のすべてが灰になっても構わない。
私はレアを抱き上げた。
お姫様抱っこをすると、レアが「きゃ」と可愛らしい声を上げる。
「さあ、寝室へ行きましょう。⋯⋯今日は、もう離してあげないから」
「⋯⋯望むところです、シルヴィア」
レアが恥ずかしそうに、でも大胆に答える。
私は幸福感で胸をいっぱいにしながら、歩き出した。
背後の窓ガラス越しに白い闇が見えた気がした。
王国の旗を掲げた軍勢が、なす術もなく雪に埋もれていく様が。
私は一度も振り返らなかった。
私の視界には腕の中にある「世界の全て」さえあれば、それで十分だったから。




