第18話 愚者の葬列
その瞬間、優雅なティータイムの空気は鋭利なガラスのように凍りついた。
カチャリ。
シルヴィアがティーカップをソーサーに戻す音が、不自然なほど大きく響いた。
彼女は窓の外、吹き荒れる吹雪の彼方を見つめたまま、その美しい唇を歪めた。
それはレアに向けられる慈愛の微笑みではない。
「氷の魔女」としての冷酷で残忍な嘲笑だった。
「⋯⋯ふっ、愚者の葬列がやって来たようね」
その声の冷たさにレアの背筋が粟立った。
レアは反射的に背筋を伸ばし主人の視線の先を追う、しかし分厚い結界と猛吹雪に遮られ、肉眼では何も見えない。
「魔女様? 何かあったのですか」
「結界の端に集っている羽虫がいるわ。⋯⋯一匹や二匹じゃきかない、数百の群れね。ここまで集めるなんてよほど追い詰められているようね」
シルヴィアは退屈そうに指先でテーブルを叩いた。
「王国の旗、使者の旗を掲げているわ。武装した集団⋯⋯『視察団』とでも名乗るつもりかしら。随分と物騒な訪問客だこと」
ドクリ、とレアの心臓が跳ねた。
王国の軍勢。
一五年前、自分たちを追い詰め、断罪し、殺そうとした者たちの同類。
その単語を聞いた途端、レアの脳裏に警鐘が鳴り響いた。
(来たのか。シルヴィア様を害する者たちが)
レアの体温が急激に下がるのとは裏腹に思考は熱く加速する。数百の武装集団ということは当然、ただの迷い人ではない。明確な殺意と敵意を持ってこの城を目指しているのだ。
彼らの狙いは何か、魔女の討伐か、あるいは――私、レアの奪取か?
どちらにせよ放置はできない。
ここはシルヴィアの安息の地だ。彼女を傷つける可能性のある因子は、一つ残らず排除しなければならない。
「⋯⋯お下がりください、シルヴィア様」
レアの声色は、可憐な少女のそれから無機質な従者のものへと変わっていた。
彼女はドレスの裾を翻して立ち上がった。
その身体には、すでに臨戦態勢の魔力が練り上げられている。
「私が迎撃に向かいます。城門に到達される前に雪原で処理を――」
「座りなさい」
レアが動き出すよりも早く、シルヴィアの声がそれを制した。
命令口調、そしてそこには緊迫感など微塵も存在しなかった。
「放っておきなさい。アイツじゃ城門にすら辿り着けないわ」
「ですが! 相手は軍隊です。魔法使いも混じっているでしょう。城の守りが破られる可能性も⋯⋯」
「破れるものなら、破ってみればいいわ」
シルヴィアは再びカップを手に取り、優雅に紅茶を啜った。
「もう既に、この城の外はマイナス三〇度を下回る極寒に作り変えてある。加えて私の魔力を乗せた暴風雪が吹き荒れている。⋯⋯人間ごときが、この『神域』に土足で踏み込めると思って? 仮に辿り着けたとしても――粉々よ」
シルヴィアはニヤリと笑みを浮かべ、握り潰すように掲げた拳を握った。
彼女の言葉通り外の世界は氷結地獄、視界ゼロのホワイトアウト。
肺を凍らせる冷気。そして徘徊する氷のゴーレムたち。
シルヴィアにとって彼らはすでに敵としてすら認識されていない。
ただの環境ノイズ、冬の厳しさに淘汰されるだけの哀れな自殺者予備軍に過ぎないのだ。
理屈ではレアもそれを理解していた。
この城の防御は鉄壁だ。かつての王宮騎士団でさえ、この環境下では半日と持たないだろうと。
けれど。
理屈で抑え込めるほど、レアの魂に刻まれた傷痕は浅くなかった。
(⋯⋯嫌だ)
レアの呼吸が荒くなり脳裏にフラッシュバックする光景があった。
煌びやかな舞踏会。抜き身の剣。殺意に満ちた視線。
そして愛するシルヴィアに向けられた「罵倒」と「処刑」の宣告。
あの日、自分が盾にならなければシルヴィアは殺されていた。
今回もそうだ。もし万が一、守りが破られたら?
もし、「聖女」の加護が強力で、それを受けた武器が持ち込まれていたら?
もし、シルヴィアが傷つくようなことがあったら?
(守らなければ。私が。私が盾にならなければ)
それはレン・アシュトンという男が生涯をかけて培った、条件反射的な強迫観念だった。
自分の命などどうでもいい。
彼女を傷つけてはならない、指一本触れさせてはならない。
その衝動が、レアの足を出口へと向かわせる。
「⋯⋯行きます。万が一があってはなりません」
レアはシルヴィアの制止を振り切るように、一歩を踏み出した。
その手には、見えない剣が握られているかのようだった。
殺気――、一五歳の少女からは発せられるはずのない、歴戦の護衛騎士の気配。
その瞬間。
ガシッ、と。
レアの手首が強い力で掴まれた。
「――っ!?」
驚いて振り返るとシルヴィアが立ち上がりレアの腕を掴んでいた。
その顔は蒼白でいつもの余裕をもった魔女の顔ではない。
大切な宝物を奪われそうになった、怯える子供の顔だ。
「行くなと言っているでしょう!」
悲鳴のような叫び声が、サロンに響き渡った。
レアは硬直する。
「行かせない。絶対に行かせない! ⋯⋯また、そうやって飛び出して! また、私を置いていく気なの!?」
「し、シルヴィア様⋯⋯?」
「一五年前もそうだったわ! 私の命令を無視して勝手に一人で飛び出して⋯⋯ボロボロになって、血まみれになって⋯⋯!」
シルヴィアの手が震えている。
彼女が見ているのは今のレアではない。
あの日、雪の庭園で満身創痍になりながらシルヴィアを守り抜こうとしたレンの幻影だ。
あの時、シルヴィアは無力だった。
守られることしかできず、彼の死をただ受け入れることしかできなかった。
その悔恨が、その絶望が、一五年ものあいだずっと彼女を苛み続けてきたのだ。
「嫌よ⋯⋯もう二度と、あんな思いはしたくない。お前が戦う必要なんてないのよ!」
シルヴィアはレアの手首を引き寄せ、そのまま強く抱きしめた。
甘い香油の匂いと、微かな震えが伝わってくる。
「私が守るわ。世界中を敵に回しても、お前一人くらい私が守り抜いてみせる。⋯⋯だから、お願い。私の腕の中から出ないで」
懇願だった。
最強の魔女が、ただ「傍にいてほしい」と泣いている。
レアの体から、ふっと力が抜けた。
練り上げていた魔力が霧散し、殺気が消える。
目の前にいるのは、守るべきか弱い少女――かつてのシルヴィアではない。
自分を守ろうとしてくれている、強くて脆い女性だ。
一五年前とは違う。
あの日、レンは「盾」として死んだ。
だが今、シルヴィアが求めているのは「盾」ではない。
「共に生きる伴侶」としてのレアだ。
「⋯⋯申し訳ありません」
レアはシルヴィアの背中に手を回し、おずおずと抱き締め返した。
「昔の癖が抜けなくて⋯⋯。あなたが危険に晒されると思うと、どうしても体が動いてしまって」
「馬鹿ね。私が誰だと思っているの?」
シルヴィアは、涙目でレアを睨みつけた。
「私は氷の魔女よ。この城の主で、お前の飼い主よ。⋯⋯羽虫の掃除くらい、指先一つで終わらせてみせるわ」
強がりに思える。でもそれは頼もしい宣言だった。
「だから、お前はここで紅茶でも飲んでいなさい。⋯⋯いいえ、私の側にいなさい。一秒たりとも離れないように」
シルヴィアはレアをソファに座らせると自分もその隣に座り、レアを抱きすくめた。
まるで、外の脅威から隠すように。
あるいは、レア自身が飛び出さないように鎖をかけるように。
窓の外では侵入者たちを迎撃するための暴風雪が、さらに激しさを増していた。
けれどレアにはその音が遠く感じられた。
耳元で聞こえるシルヴィアの鼓動の方が、ずっと大きく、強く響いていたからだ。
(ああ⋯⋯そうか)
レアはシルヴィアの肩に頭を預けながら悟った。
もう、戦わなくていいのだ。
血を流す必要も命を削る必要もない。
一五年前の悲劇は繰り返さない。
なぜなら今の彼女は「守られる姫」ではなく、愛する者を守るために世界すら拒絶できる「魔女」なのだから。
レアの心の中にあった「戦士」としての最後の未練が氷解していく。
代わりに満ちていくのは守られることへの安堵と、この人を信じて委ねようという静かな覚悟だった。
「⋯⋯はい、シルヴィア様。私は貴女と共にいます」
レアは目を閉じ、その温もりに身を任せた。
城の外では、愚かな侵入者たちが次々と押し寄せる気配が続いてる。
だが、それはこの箱庭の中の二人にとっては、窓の外の悪天候と何ら変わらない、些細な出来事に過ぎなかった。




