第17話 氷の城は静かすぎて
世界は分厚いガラス一枚を隔てて、二つの極端な色に分かれていた。
窓の外は、すべてを拒絶する白。視界を埋め尽くす猛吹雪が荒涼とした大地を死の色に染め上げている。
対して窓の内側は甘美な金とピンク色。魔力で保たれた適温の空気には、高価な香油と焼き菓子の匂いが漂い、豪奢な調度品が暖かな光を反射している。
そこは世界から切り離された2人だけの箱庭だった。
音すらない。風の咆哮も木々が折れる音も結界に阻まれて届かない。
聞こえるのは衣擦れの音と、すぐ耳元で響く愛しい人の吐息だけ。
「⋯⋯レア。何をぼんやりしているの?」
背後から温かな重みがのしかかってきた。
シルヴィアだ。
彼女は窓辺に立つレアを後ろから抱きすくめ、その肩に顎を乗せている。豊かな胸の感触と少し高めの体温がドレス越しに伝わってくる。
「いえ⋯⋯。外の雪を見ていました。相変わらず、すごい嵐だなと思って」
「ふふ。そうね。でも、関係ないわ。あの嵐は私たちの邪魔をする者を排除するための番犬みたいなものだから」
シルヴィアは上機嫌に囁くとレアの首筋に唇を寄せ、甘噛みするように口づけた。
ちくりとした刺激と、そこから広がる熱にレアの背筋が震える。
「さあ、あちらへ行きましょう。新しいドレスが届いたの。着替えさせてあげる」
「あ、あの、魔女様。着替えくらいは自分でやらせて⋯⋯」
「だめ」
短く、しかし絶対の拒絶。
シルヴィアはレアの体をくるりと反転させると、愛おしそうに頬を撫でた。
「お前は私の可愛いお人形でしょう? お人形が勝手に動いてはいけないわ。⋯⋯それに、お前の肌に触れるのは私の特権なのだから」
その瞳は、深海のように昏く、そして狂おしいほどの愛に満ちていた。
レアは反論の言葉を飲み込み、大人しく頷いた。
これが、今のレアの日常だった。
かつてレンだった頃、主人の世話を焼くのが仕事だった。
今はその主人が甲斐甲斐しく元従者の世話を焼いている。
朝の洗顔から始まり、着替え、髪の手入れ、そして食事に至るまで。シルヴィアはレアが指一本動かすことを嫌い、すべてを自分の手で行おうとするのだ。
* * *
ドレッシングルームに連れて行かれたレアは、されるがままに服を脱がされた。
抵抗はない。羞恥心も最初の数日で麻痺してしまった。
シルヴィアの指先が素肌を滑る感触に、むしろ安心感を覚えている自分がいる。
「⋯⋯綺麗よ、レア。どこにも傷がない。白くて、滑らかで⋯⋯」
シルヴィアは熱っぽい視線でレアの肢体を眺めながら、新しいドレスに袖を通させた。
今日の一着は、淡いライラック色のシルクドレスだ。レースとリボンがふんだんにあしらわれたそれは、一五歳の少女の可憐さを極限まで引き立てるデザインだった。
かつてのレンなら「男にこんなひらひらしたものを着せるな」と憤慨したかもしれない。
けれど今のレアは、鏡の中の自分を見ても、違和感よりも先に「彼女が喜んでくれるなら」という想いが湧き上がる。
背中のボタンを一つ一つ留めていくシルヴィアの手つきは、壊れ物を扱うように慎重で優しい。
「髪はどうしましょうか。編み込みにして、真珠の飾りをつけましょうか」
「はい。シルヴィア様のお好きなように」
「いい子ね」
シルヴィアはレアを椅子に座らせ、銀色の髪に櫛を通し始めた。
シャリ、シャリ、という静かな音だけが部屋に響く。
鏡越しに目が合うと、シルヴィアが蕩けるように微笑む。
その笑顔を見るたびに、レアの胸の奥で、かつての自分が持っていた「常識」が音を立てて崩れていくのを感じた。
これは異常なことだ。
主従が逆転しているだけではない。一人の人間から自立性を奪い、完全な庇護下に置く行為。
普通の人間なら自由を奪われたことに憤り、逃げ出そうとするだろう。
でもレアは逃げたいとは思わなかった。この閉鎖的な空間がたまらなく心地よかったのだ。
(ああ、私は⋯⋯堕落してしまったのだろうか)
レアは目を細め、シルヴィアの手の感触に身を委ねた。
前世の自分は常に気を張っていた。
悪役令嬢を守るため、周囲に敵意を向け、剣を振るい、傷つくことを恐れなかった。
「誰かの役に立つこと」が生きる意味であり、自分の命はそのための燃料だと思っていた。
だが今はどうだ。
何も生産せず、何も守らず、ただ綺麗に着飾って、甘やかされているだけ。
それなのに心はかつてないほど満たされている。
「ふふ、できましたよ。⋯⋯ああ、なんて可愛いのかしら」
シルヴィアがレアの肩を抱き、頬ずりをした。
鏡の中には幸せそうに寄り添う二人の美女が映っている。
そこには世界の危機も、王国の衰退も、何の影も落としていない。
「お茶にしましょう、レア。今日は東方の珍しい茶葉を用意させてあるわ」
シルヴィアに手を引かれ、レアはサロンへと向かう。
その足取りは軽く、迷いはなかった。
* * *
ティータイムもまた、シルヴィアの独壇場だった。
レアがカップを持とうとするとシルヴィアがそれを制し、自らカップをレアの口元へ運ぶ。
焼き菓子も、果物も、すべて彼女が切り分け、あーん、と食べさせてくれる。
最初は「さすがに自分で食べます」と抵抗したレアだったが、シルヴィアが悲しそうな顔をするのでやめた。
今では、雛鳥のように口を開けて待つことが自然になってしまっている。
「美味しい?」
「はい。とても」
「よかった。もっとお食べ。私のレア。たくさん食べて、私のために生きて」
シルヴィアの言葉は呪いのようであり、祝福のようだった。
レアは口の中の甘い菓子を噛み締めながら、ふと窓の外へと視線を向けた。
猛吹雪が視界を白く塗りつぶしている。
一五年前、レンがあの雪の中で死んだ時、この北の地は彼女にとって「最果ての地獄」だっただろう。
寒く寂しく命を拒絶する、シルヴィアをそんな場所に一人残してしまったことを死の間際まで悔やんでいた。
でも今は違う。
(⋯⋯静かだ)
レアは心の中で呟いた。
ここには王都のような薄汚い政治劇はないし、悪意に満ちた噂話も理不尽な断罪もない。
自分たちを害そうとする者は、あの吹雪がすべて拒絶してくれる。
かつて地獄のように思っていたこの場所は、今や何者にも侵されない「聖域」となっていた。
そして、その中心にいるのは孤独な魔女ではなく、自分を愛してやまない一人の女性だ。
レアの中で、静かな変化が起こっていた。
かつてレンだった頃の行動原理は「主人のために」という、どこか俯瞰的で自己犠牲的なものだった。
自分が傷ついても、主人が助かり世界が丸く収まるならそれでいい。そう思っていた。
今、この温かな腕の中にいて、思うことはまるで違う。
『この城は世界から切り離されている。けれど寂しくはない』
むしろ、世界の方がノイズに思えた。
外の世界がどうなろうと、この平穏が続くならそれでいい。
王国の民が飢えようと冬が終わらなかろうと、シルヴィアが笑顔でいてくれるなら他には何もいらない。
(私は⋯⋯ここから、彼女の腕からずっと出たくないと思ってしまっている)
それは従者としては失格の思考かもしれない。
「道具」としての役割を完全に放棄し、一人の「女」としての幸福を優先するエゴイズム。
だが、そのエゴがたまらなく愛おしく思えてしまう。
レアは自分に菓子を差し出してくるシルヴィアの手を、そっと両手で包み込んだ。
シルヴィアが驚いたように目を丸くする。
「レア?」
「⋯⋯シルヴィア様は、手が温かいですね」
「⋯⋯ええ。お前の手が冷たくならないように、ずっと温めてあげるわ」
シルヴィアは嬉しそうに微笑み、レアの手を握り返した。
その指が絡み合い、離れがたい結び目を作る。
レアは確信した。
自分はもう「道具」には戻れない。
戻りたくない。
私は彼女だけのものになりたい。
この金の檻の中で一個人として彼女に愛され、彼女を愛し、共に堕ちていくことを望んでいるのだ。
「⋯⋯ずっと、こうしていたいと思う、自分がいます」
レアがぽつりと呟くと、シルヴィアはとろけるような甘い声で答えた。
「いられるわ。永遠に。⋯⋯誰にも邪魔はさせない。もし邪魔する者が現れたら、世界ごと凍らせてしまいましょう」
その物騒な言葉さえ、今のレアには愛の囁きのように聞こえた。
レアはシルヴィアの肩に頭をもたせかけ、目を閉じた。
外の世界の喧騒など、もう遠い国の出来事のようだ。
ここにあるのは、二人だけの体温と狂気的なまでに純粋な幸福だけ。
氷の城は、あまりにも静かだった。
そしてその静寂こそが、二人が選び取った「答え」そのものだった。




