第15話 氷解の庭と名前のない関係
目覚めると、視界がいっぱいのプラチナブロンドと白で埋め尽くされていた。
プラチナブロンドは目の前にある美しい髪の色。
白は肌の色。
そして身体を包み込む甘い香り。
「⋯⋯ん⋯⋯」
レアは身じろぎをして自分が置かれている状況を再確認した。
柔らかすぎるベッドに天蓋から透ける朝の光、そして自分の体を抱き枕のようにして眠るシルヴィアの姿。
彼女の腕はレアの腰にしっかりと回され、脚まで絡められている。まるで蜘蛛が捕らえた蝶を繭の中に閉じ込めているかのようだ。
(⋯⋯また、この体勢)
レアは小さく苦笑した。
あの一件以来――王国の使者を撃退し、レアが「道具」であることをやめてから――日常は劇的に変化した。
物理的な距離が、完全に消滅したのだ。
以前は「監視のため」という名目で同じ部屋に寝ていたが、今はもう隠そうともしない。
シルヴィアは毎晩レアをベッドに引きずり込み、こうして体温を共有して眠る。
一五年前、主従という壁に阻まれて決して触れ合えなかった距離が、嘘のようにゼロになっている。
レアはそっと手を伸ばし、シルヴィアの頬にかかった髪を払った。
整った寝顔。かつてのように眉間にしわを寄せ、うなされることはもうない。
今の彼女は心から安らいでいる。
「⋯⋯おはよう、シルヴィア様」
小声で囁くとシルヴィアの長い睫毛が震えた。
ゆっくりとアイスブルーの瞳が開かれ、とろりとした甘い光を宿してレアを見つめる。
「⋯⋯おはよう、私のレア」
シルヴィアは起き抜けの掠れた声でそう言うと、挨拶代わりにレアの首筋に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「んぅ⋯⋯いい匂い。今日もちゃんと、ここにいるわね」
「はい。どこへも行きません」
「ええ。行かせないわ」
シルヴィアはレアをさらに強く抱きしめ、満足げに喉を鳴らした。
その拘束は少し苦しいけれど、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、この重みが心地よいとさえ感じてしまう自分に、レアは少しだけ戸惑っていた。
* * *
午後のサンルームは、今日も春のような陽気に満ちていた。
窓の外では相変わらず吹雪が荒れ狂っているが、この空間だけは別世界だ。
「さあ、レア。口を開けて」
シルヴィアが、指先につまんだ焼き菓子を差し出してくる。
一口サイズのフィナンシェだ。バターと蜂蜜の香りが漂う。
「魔女様⋯⋯さすがにそれは、せめてフォークにして頂けませんか?」
「だめ。私が食べさせたいの」
「ですが⋯⋯」
「お前の仕事は『愛されること』でしょう? 主人の奉仕を拒むなんて、悪い子ね」
シルヴィアは悪戯っぽく微笑み、フィナンシェをレアの唇に押し当てた。
レアは観念して、小さく口を開ける。
甘い菓子が口の中に広がるのと同時に、シルヴィアの指先がレアの唇をなぞり、怪しく揺らめいた。
意図的な接触にレアの顔がカッと熱くなる。
「⋯⋯美味しい?」
「は、はい。とても」
「ふふ。可愛い顔」
シルヴィアは楽しそうに目を細め、レアの頭を撫でた。
最近の彼女は一日中こうなのだ。
執務をする時もレアを膝の上に乗せ、読書をする時も肩を寄せ合い、片時も離れようとしない。
城の使い魔たちも最初こそ驚いていたが、今では「またか」という顔でスルーしている。
過剰な溺愛。異常な独占欲。
客観的に見れば、これは歪んだ共依存関係だろう。
けれどレアの中で拒絶する気持ちは完全に消え失せていた。
(前世の私は、これを望んでいなかったと言えば嘘になる)
従者としての立場、身分差、年齢差。そして「自分は道具だ」という自己暗示。
それらで蓋をしていた感情が、今の「レア」という立場になって溢れ出しているのだ。
彼女に触れられると嬉しい。
彼女が自分を見て笑ってくれると、胸が温かくなる。
彼女の重たい愛が、空っぽだった自分の心を満たしていく。
「⋯⋯魔女様は、甘やかしすぎです」
「あら。一五年分の不足を埋めるには、まだまだ足りないわ」
「一五年分⋯⋯ですか」
「ええ。一生かけても返しきれないくらいの愛を注ぐわ。覚悟しておきなさい」
シルヴィアの瞳は真剣だった。
それは冗談ではなく、彼女の生きる指針なのだ。
「⋯⋯そうだわ。レア、少し外へ出ましょうか」
「外へ? 吹雪ですよ?」
「大丈夫。お前に見せたいものがあるの」
シルヴィアは立ち上がり、レアの手を引いた。
* * *
連れて行かれたのは、城の中庭だった。
以前、レアが裏庭の通路を雪かきをしようとしてシルヴィアを激怒させた場所にほど近い、そこは以前とは全く違う景色になっていた。
「これ⋯⋯」
レアは息を呑んだ。
あんなに荒れ狂っていた吹雪が、中庭の上空だけぽっかりと穴が空いたように止んでいる。
そして一面の雪景色の中に、一箇所だけ土が露出している場所があった。
そこに一輪の花が咲いていた。
透き通るような青い花弁を持つ薔薇。
氷細工ではなく生命の脈動を感じる、本物の花だった。
極寒の北の地で魔法の加護を受けて健気に咲き誇る一輪の青薔薇。
「『奇跡』という花言葉を持つ薔薇よ」
シルヴィアが、レアの隣で静かに言った。
「この城に来てから、私はずっと心を凍らせていた。庭には氷の花しか咲かせなかった。⋯⋯生きた花なんて、すぐに枯れてしまうと思っていたから」
「⋯⋯」
「でも、咲いたわ。お前が来てから」
シルヴィアはレアの方を向き、その両手を包み込んだ。
彼女の手は温かい。
かつて「氷の魔女」と呼ばれ、全てを拒絶していた冷たさはもうない。
「お前が私の凍った時間を溶かしてくれた。枯れ果てていた私の心に、水をくれた」
シルヴィアの瞳に、レアの姿が映っている。
そこにはもう、過去の幻影である「レン」の姿は重なっていないように見えた。
彼女が見ているのは、今ここにいる「レア」だ。
過去の記憶を抱きながらも、新しい生を生きる少女。
「ねえ、レア」
シルヴィアが一歩、距離を詰める。
吐息がかかるほどの距離。
世界から音が消える。
「ずっと傍にいて。私が死ぬまで⋯⋯いいえ」
彼女は妖艶に微笑んだ。
その笑みは、天使のようであり、同時に獲物を逃さない悪魔のようでもあった。
「死んでも、離さないけれど」
重たく、昏く、そして限りなく甘い誓い。
それは普通の人間なら恐怖して逃げ出すような執着だ。
けれど、レアにはそれが何よりも心地よい「居場所」だと感じられた。
誰にも必要とされないと思っていた道具が、ようやく見つけた鞘。
あるいは、鳥籠。
どちらでもいい。彼女がそれを望むなら。
レアの頬が、朱に染まる。
恥ずかしさと、喜びと、そして覚悟。
レアはゆっくりと頷いた。
「はい⋯⋯。私も、離れません。たとえ死が二人を分かつとしても、魂はずっとあなたのものです」
その言葉を聞いた瞬間、シルヴィアの表情が崩れた。
泣きそうな、それでいて幸福に満ち足りた顔で、彼女はレアをきつく抱きしめた。
青い薔薇が、風に揺れる。
二人の影が雪の上で一つに重なる。
これは「恋」ではないのかもしれない。
主従という枠組みは壊れたが、恋人というにはあまりにも歪で、重たい。
名前のない関係。
互いの傷を舐め合い、埋め合い、世界から隔絶された場所で二人だけで完結する幸福。
だけど、それでいい。
レアはシルヴィアの背中に腕を回し、その鼓動を感じながら目を閉じた。
王国のことなど、もうどうでもよかった。
外の世界がどうなろうと知ったことではない。
ここにある温もりだけが、今のレアにとっての「世界」の全てなのだから。
氷の城に春が来ることはないかもしれない。
でも、二人の間にだけは永遠に枯れない花が咲き続けるだろう。




