第13話 愚者の来訪
氷の城の午後はおそろしく静かだ。
窓の外では相変わらず猛吹雪が吹き荒れているが、何重もの結界に守られた最上階のサロンは、春の日差しのような暖かさに満ちていた。
「あーん、して。レア」
豪奢な長椅子に腰掛けたシルヴィアが、フォークに刺した果実を差し出してくる。
南方の国から魔法で取り寄せたという希少な桃だ。甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「⋯⋯魔女様。自分で食べられます」
「だめよ。お前の手は私に触れるためにあるの。フォークなんて無粋なものを持たせて、肌が荒れたらどうするの」
「それぐらいでは荒れませんが⋯⋯」
シルヴィアは真顔で言っていた。冗談ではなく彼女は本気でレアを「何もさせてはならない至高の宝物」として扱っているのだ。
もう何度目かのやり取りにレアは小さく溜息をつく、諦めて小さな口を開くとシルヴィアが楽しそうに果実を舌へ運び――その瞬間、甘い果汁が口いっぱいに広がった。
思わずほっぺたを抑えたくなるほどの美味、そんなレアを満足そうに眺め、シルヴィアはフォークについた果汁を艶めかしく舐め取った。
その光景は側から見れば狂気的な溺愛かもしれない。
けれどこの歪な箱庭の中では、それが唯一の「正解」として機能していた――少なくとも、あの凍えるような孤独に比べれば。
その穏やかな時間を引き裂くように重苦しい足音が廊下に響いた。
氷のゴーレムが入室し、感情のない声で告げる。
『主様。王国の使者が向かってきております』
シルヴィアの眉がピクリと跳ねた。
瞬時に部屋の温度が下がる。春の暖かさは消え失せ、本来の極寒が顔を覗かせる。
「またか。レアを愛でている最中だというのに⋯⋯懲りない連中ね」
シルヴィアは不愉快そうに立ち上がった。
その瞳に宿るのは先ほどまでの慈愛ではなく、絶対零度の軽蔑だった。
「レア、お前はここにいなさい。汚らわしいものを見せるわけにはいかないわ」
「いいえ、魔女様」
レアは反射的に立ち上がり、主の背後に控えた。
従者としての本能、そして何よりシルヴィアが不快な思いをする場に一人で行かせるわけにはいかないという保護欲求。
「お供させてください。⋯⋯私でも、なにかお役に立てるかもしれません」
「⋯⋯」
シルヴィアは少しだけ逡巡したが、レアの揺るがない瞳を見て、ふっと息を吐いた。
「いいわ。ただし、私の背中から離れないこと。いいわね?」
* * *
謁見の間には一人の男とその後ろに護衛が立っていた。豪奢な、しかしどこか古びた貴族服を纏った中年に差し掛かろうかという風体の男、バルダー子爵。
レアには見覚えがあった。十五年前、シルヴィアを断罪した卒業パーティーで、王太子に媚びへつらい、シルヴィアを嘲笑っていた取り巻きの一人だ。
かつては恰幅の良かった体型も今は見る影もなく痩せ、頬がこけているように見え、その瞳には焦燥と苛立ち、そして隠しきれない恐怖が滲んでいた。
「⋯⋯何の用だ、バルダー」
玉座についたシルヴィアが、虫でも見るような目で見下ろす。
バルダー子爵はその圧倒的な美貌と魔圧に一瞬気圧されたが、すぐに顔を紅潮させて声を張り上げた。
「な、何の用だと!? とぼけるな、魔女シルヴィア! 我が国は約束通り、生贄を差し出したはずだ!」
「⋯⋯生贄? ああ、あの途中で引き返した薄汚れた馬車のことか?」
「何を言っている! 貴様の要望通り、貴重な労働力をくれてやったのだぞ! だというのに、なぜ冬が終わらん!? なぜ作物が育たん!? 王都では餓死者が道端に転がっているのを知らぬのか!」
男の叫び声が氷の壁に反響する。
それは悲痛な訴えというよりは、自分たちの無能を棚に上げた逆ギレに近かった。
シルヴィアは冷ややかに鼻で笑った。
「勘違いも甚だしいな。冬を終わらせてくれと頼まれた覚えはないし、生贄を寄越せと言った覚えもない。お前のような愚かな使者が居丈高に要求を告げ、勝手に送りつけてきただけだろう。私は何一つ約束していない」
「な、なんだと⋯⋯!?」
「そもそも、天候がおかしいのは私のせいではない。お前たちが崇める『聖女様』の祈りが足りないのではないか? あるいは、為政者たちの心が腐っているから、大地も枯れ果てたのかもしれないな」
正論だった。
魔女の影響があるにせよ、王国の衰退の主因は内政の失敗にあることは明らかだった。
聖女リナは愛想を振りまくばかりで実務を行わず、王太子シリルは彼女のご機嫌取りと豪遊で国庫を浪費し、何一つ有効な手立てを打てていない。
そのツケが回り回って十五年、もはや限界を迎えているに過ぎない。
図星を突かれたバルダー子爵はさらに顔を真っ赤にして激昂し、口を開こうとして――シルヴィアに睨まれ――その視線がシルヴィアの背後に控えるレアに向けられた。
「そ、その小娘か! 先日差し出された生贄というのは!」
子爵がツカツカと階段を上り、レアを指差した。
「なんだその貧相な体は! 魔力も大して感じられん、ただの孤児ではないか! こんな出来損ないを送りつけおって、ガキの使いも出来んのか田舎の役人共は!」
男の唾が飛ぶ。
レアは眉一つ動かさずにそれを受け流したが、シルヴィアの眉間には深い皺が刻まれた。
「⋯⋯言葉を慎め」
「ええい! おい小娘、役立たずめ! 貴様がもっとマシな器量なら、我が国は救われていたかもしれんのだぞ! この穀潰しが! 薄汚いドブネズミが! 恥ずかしいと思わんのか!」
子爵はシルヴィアに直接、言えない分を八つ当たりのように罵詈雑言を並べ立てる。
自分の無力さを弱い立場の少女に転嫁することでしか自我を保てないのだろう。
彼は興奮のあまり、さらに一歩踏み込んでレアの胸倉を掴もうと手を伸ばした。
「貴様のような不良品は、私がここで処分して――」
その瞬間。
空間が、軋んだ。
パリパリパリッ、と空気が凍結する音が響く。
シルヴィアの全身から、どす黒い殺気が膨れ上がった。
彼女の宝物に汚い手を伸ばした。
その事実は魔女の逆鱗に触れるには十分すぎた。
「――死ね」
シルヴィアが腕を上げる。
絶対的な死の宣告。子爵が一瞬にして氷像に変えられる未来が確定した、その刹那。
スッ、と。
シルヴィアの魔法が発動するよりも速く、銀色の影が動いた。
「⋯⋯ぐ、あっ!?」
短い悲鳴とともに、バルダー子爵の体が宙を舞った。
いいや、違う。
伸ばした腕を掴まれ、捻り上げられ、そのまま氷の床に押さえつけられたのだ。
制圧したのは、レアだった。
彼女は一五歳の華奢な体とは思えない動きで大の男の関節を極め、完璧に封じ込めていた。
その身には薄く、しかし研ぎ澄まされた身体強化の魔力が纏われている。
前世で培った護衛術。
主人の前に立つ不届き者を排除する、条件反射的な行動だった。
「⋯⋯っ、き、貴様、なにを⋯⋯!」
「お下がりください」
レアの声は、氷よりも冷たく鋼のように硬かった。
普段のシルヴィアに従う子猫のような弱々しさはない。
そこには、たしかに「公爵家令嬢の専属従者」としての片鱗があった。
「魔女様の御前です。その汚れた手を、みだりに主の視界に入れないでいただきたい」
ギリリ、と腕を捻り上げる。
子爵が脂汗を流して呻く。
「魔女様は、あなたのような愚物がお目にかかっていい存在では本来ありません。言葉を選び、態度を改めなさい。さもなくば――」
レアの琥珀色の瞳が、冷酷な光を帯びて子爵を見下ろした。
「この腕、二度と使い物にならなくして差し上げます」
広間が静まり返った。
バルダー子爵は腕の痛み以上に、この少女から発せられる異様な威圧感に恐怖し、言葉を失っていた。
ただの孤児ではない。この目は人を殺し慣れた騎士の目だ。
そして。
呆然としていたのはシルヴィアも同じだった。
彼女は振り上げた手を空中で止めたまま、目の前の光景を凝視していた。
自分のために怒り、自分を守るために敵をねじ伏せる、小さな背中。
それは一五年前の舞踏会で見た背中と、あまりにも重なっていた。
(⋯⋯ああ)
シルヴィアの胸の奥から熱いものがこみ上げてくる。
それは怒りではない。
圧倒的な歓喜だ。
彼女は、くつくつと喉を鳴らした。
やがてそれは、広間に響き渡る高らかな笑い声へと変わった。
「あはははは! 傑作ね! 本当に傑作だわ!」
シルヴィアは腹を抱えて笑った。
涙が出るほど愉快だった。
「見なさい、バルダー。これが今の王国の実力よ」
「な、なにがおかしい⋯⋯!」
「おかしいでしょう? 仮にも貴族であるお前が、たった一人の『薄汚い孤児』に手も足も出ずにねじ伏せられているのよ? これほど滑稽な喜劇があるかしら!」
シルヴィアは玉座から立ち上がり、床に這いつくばる子爵を見下ろした。
「お前たちが『役立たず』と罵って捨てた少女は、お前たちよりも遥かに優秀で、強く、気高い。⋯⋯そんな宝石をドブに捨てておきながら、今さら何を喚くの」
シルヴィアはレアの肩に手を置き、誇らしげに引き寄せた。
「この子は私のものよ。お前たちには過ぎた宝だったの。⋯⋯さあ、失せなさい。私の庭が汚れる」
シルヴィアが軽く手を振ると突風が巻き起こり、子爵は枯れ葉のように吹き飛ばされ、広間の扉の向こうへと転がっていった。
「お、覚えていろ!」という三流の捨て台詞を残して、彼は護衛とともに逃げ帰るしかなかった。
扉が閉まり、再び静寂が戻る。
レアは身体強化を解き、慌ててその場に跪いた。
「も、申し訳ありません! 出すぎた真似をいたしました。魔女様の獲物を勝手に⋯⋯」
「いいのよ、レア」
シルヴィアの声は弾んでいた。
彼女は跪くレアの手を取り、強引に立たせるとそのままきつく抱きしめた。
「ありがとう。⋯⋯嬉しかったわ」
「え⋯⋯?」
「お前が私を守ってくれた。昔みたいに⋯⋯いいえ、昔よりもずっと素敵だったわ」
シルヴィアはうっとりとした表情で、レアの髪を撫でた。
自分のために傷つくことは許さないが、自分のために牙を剥く姿は彼女の独占欲を強烈に刺激したのだ。
「王国はもうおしまいね。あんな愚か者しか残っていないなんて」
シルヴィアは窓の方へと歩き出し、外の吹雪を見つめた。
その瞳には、かつてのような復讐の炎は見当たらなかった。
あるのは哀れみと、冷ややかな達観だけ。
「私が手を下すまでもない。彼らは勝手に腐り、勝手に滅びるわ。⋯⋯私たちはただ、高みからそれを眺めていればいい」
シルヴィアは振り返り、レアに手を差し伸べた。
共犯者への手招き。
「おいでレア。お茶にしましょう。⋯⋯もう、あの国にお前を返してやることもないもの」
そう。彼らは自ら捨てたのだ。
この国を守り得たかもしれない、最後の希望を。
レアは迷わずその手を取った。
子爵を制圧した時の緊張は、シルヴィアの体温に触れた瞬間に消え去った。
「はい、シルヴィア様」
外の世界では王国の黄昏が加速し始めていた。
聖女の祈りが届かぬ冬の時代。
だが、この閉ざされた氷の城の中だけは二人の狂気と愛情によって、永遠に安らかな時間が流れ続けるのだろう。
レアはシルヴィアに寄り添いながら、窓の外の白い闇を見つめた。
不思議と、もう寒さは感じなかった。
自分が守るべき場所は、この人の隣だけなのだと改めて心に刻んだからかもしれない。




