第11話 過保護な魔女と無自覚な元従者
贅沢とは時として拷問になり得る。
レアはそのことを身を持って痛感していた。
与えられた貴賓室は快適そのものだった。
最高級の羽毛布団に肌触りの良いシルクのドレス。食事は三食、見たこともないようなご馳走が運ばれてくる。
そして何より「何もするな」という魔女からの絶対命令。
(⋯⋯落ち着かない)
レアは餌を探す熊のように部屋の中をうろうろと歩き回っていた。
前世のレン・アシュトンとして公爵家に使えた年月、そして今世での孤児院暮らし。
レアの魂には筋金入りの「労働者気質」が染み付いている。
朝起きたら掃除をし、水を汲み、誰かのために働く。それが彼女のアイデンティティであり、生の実感として根付いていた。
それがどうだ。ここ数日、彼女がしたことといえばシルヴィアに髪を梳かされるか、与えられた甘い菓子をモグモグと頬張るか、着せ替え人形になるかだけだ。
指先は白く滑らかになり、ささくれ一つない。だが、その綺麗な手がレアには自分の無価値さを証明しているようで居心地が悪かった。
「⋯⋯雪が」
窓の外を見下ろしたレアが呟く。
魔法で維持された中庭は美しいが城の裏手にある通路には、昨夜からの猛吹雪で雪がうず高く積もっていた。
使い魔たちは大雑把だ。命令されなければ主要な通路しか除雪せず、裏道など放置しているに違いない。
あそこは厨房への搬入路だ。雪が凍結すれば食料を運ぶゴーレムが足を滑らせるかもしれない。
(放っておけない)
レアの中でくすぶっていた従者魂が火を噴いた。
幸い、今の時刻は午後三時。
この時間帯、シルヴィアは遠隔魔法通信を行う部屋にこもっていて、あと一時間は部屋から出てこないはずだ。
少しくらい体を動かしても、バレやしないだろう。
レアはクローゼットの奥から、できるだけ動きやすそうな厚手のショールを引っ張り出すと、そそくさと部屋を抜け出した。
まるで悪戯を見つかるのを恐れる子供のように、足音を忍ばせて。
* * *
城の裏手に出ると冷気が物理的な圧力を持って襲いかかってきた。
吐く息が瞬時に凍りつくほどの極寒にも負けず、レアは身震い一つせずにスコップを握りしめた。
「よし」
ザクッ、ザクッ。
雪を掻く音が静寂な北の大地にリズムを刻む。
楽しい。
単純作業に没頭することで思考がクリアになっていく。
自分は今、役に立っている。ただ愛でられるだけのペットではなく、この城の機能を維持する歯車の一つとして動いている。その事実がレアの乾いた心を潤した。
(身体強化を使えば、これくらい三十分で終わる)
レアは薄く魔力を纏い、少女の細腕とは思えない速度で雪山を切り崩していく。
しかし彼女は一つ致命的な誤算をしていた。
彼女の精神はタフな元従者のままだが、その肉体は栄養失調気味の未成熟な少女だということだ。
一〇分も経つ頃には指先の感覚がなくなっていた。
手袋をしていない手は真っ赤に腫れ上がり、冷たさを通り越して熱を持っているように感じる。
それでもレアは手を止めなかった。
今までもこれくらいの霜焼けは日常茶飯事だった。むしろ指が動かなくなってからが本番だとさえ思っていた。
「あと少しで、通り道が開く⋯⋯」
最後の雪塊を持ち上げようとした、その時だった。
ドォォォォォンッ!!
突如、空間が歪むほどの衝撃音が響き渡った。
レアのすぐ横の雪山が、爆発したかのように弾け飛ぶ。
「――ッ!?」
何事かと顔を上げたレアの視界に、漆黒の影が飛び込んできた。
転移魔法だ。それも城内での短距離転移という、極めて魔力消費の激しい荒技。
舞い上がる雪煙の中から現れたのは顔を青ざめたシルヴィアだった。
部屋に籠もっているはずの彼女がドレスの裾を乱し、髪を振り乱してそこに立っていた。
「レ、ア⋯⋯っ!?」
その声は悲鳴のように掠れていた。
彼女は血走った目で周囲を見回し、スコップを持ったレアの姿を確認すると脱力したようにその場に膝をつきそうになった――のを踏みとどまり、即座に憤怒と恐怖の形相で駆け寄ってくる。
「何を⋯⋯何をしているの、お前はッ!!」
シルヴィアがレアの手首をひったくった。
スコップが雪の上に落ちる。
彼女の視線が、レアの真っ赤に腫れ上がった手に釘付けになる。
「あぁ手が⋯⋯! こんなに冷たくなって⋯⋯赤くなって⋯⋯!」
「あ、あの、魔女様? これはただの雪かきで、大したことでは⋯⋯」
「黙りなさい!」
金切り声だった。
普段の冷徹な魔女の威厳など欠片もない。ただパニックに陥った女性がそこにいた。
「なぜ自分を傷つけるの!? なぜ、私から離れるの!? 会議が終わって部屋に行ったらお前がいなくて⋯⋯城の探知魔法にも引っかからなくて⋯⋯私がどれだけ⋯⋯ッ!」
シルヴィアの体はガタガタと震えていた。
レアがいない。その事実だけで彼女の世界は崩壊の危機に瀕していたのだ。
一五年前、レンが雪の中で消えたあの日の絶望が、フラッシュバックしていたのかもしれない。
「ごめんなさい⋯⋯お願いよ許して⋯⋯もう痛い思いはさせないから⋯⋯」
シルヴィアはうわ言のように呟きながらレアの手を両手で包み込み、それを自分の頬に押し当てた。
彼女の頬は熱いほどに温かかった。
氷の魔女と呼ばれる彼女の肌の温もりが、レアの凍えた皮膚に染み渡っていく。
「冷たい⋯⋯ああ、こんなに冷たい⋯⋯」
シルヴィアの瞳から大粒の涙が溢れ出した。
その涙はレアの手の甲に落ち熱い雫となって流れる。
彼女はレアの手を頬擦りし息を吹きかけ、必死になって温めようとしていた。
まるで少しでも油断すれば、この手が永遠に冷たくなってしまうと信じ込んでいるかのように。
(⋯⋯ああ)
レアはその姿を見て息を呑んだ。
異常だ。
たかが手が冷えただけだ。少しお湯につければ治る程度のものだ。
それなのに彼女はこの世の終わりのように嘆き怯えている。
彼女の中の傷は癒えるどころか化膿していたのだ。
レンという存在を喪失したトラウマが、レアへの過剰な保護欲として暴走している。
彼女が見ているのは「現在のレア」ではない。「二度と失いたくない幻影」だ。
そのことがレアには痛ましく、そして申し訳なかった。
自分の軽率な行動が彼女をここまで追い詰めてしまった。
レアは泣きじゃくる主を慰めようとした。
かつてレンだった頃、そうして彼女を励ましてきたように。
一番安心できる言葉を。もっとも合理的で彼女の負担にならない事実を。
「魔女様、どうか泣かないでください」
レアは静かに微笑み、彼女の涙を冷たい指先で拭った。
「私の手など、いくらでも替えが利きます。所詮は道具の手です。もし凍傷で壊れてしまったとしても、魔女様が悲しむような価値のあるものでは⋯⋯」
――ピタリ。
シルヴィアの動きが止まった。
頬に押し当てられていたレアの手を、彼女が強く握り締める。
骨がきしむほどの力で。
「⋯⋯え?」
レアが顔を覗き込むとシルヴィアはうつむいたまま、わなわなと震えていた。
先ほどまでの恐怖の震えではない。
煮えたぎるような、どす黒い怒りの震えだ。
「⋯⋯道具、ですって?」
低く、地を這うような声。
周囲の雪が一瞬にして蒸発し、かと思えば次の瞬間にはダイヤモンドダストとなって凍りついた。
魔力の暴走。
シルヴィアが顔を上げた。
その瞳は涙で濡れているにもかかわらず、激情の炎で燃え上がっていた。
「お前は⋯⋯まだ、そう言うのね」
「ま、魔女様⋯⋯?」
「一五年前もそうだった! 『私は道具です』『代わりはいます』⋯⋯そうやって自分を軽んじて、私の気持ちなど考えもせずに、勝手に命を投げ出して!」
シルヴィアがレアの肩を掴み、激しく揺さぶる。
「壊れてもいい? 替えが利く? ふざけないで! 私の世界にはお前しかいないの! お前が壊れたら、私の心も壊れるの! それとも何か、お前は私を狂わせて楽しんでいるの!?」
悲痛な叫びが雪原に木霊した。
レアは呆然としていた。
慰めるつもりだった言葉が、まさか彼女を最も深く傷つける刃になるとは思わなかったからだ。
違う。
私はただ、あなたが自分のために心を痛める必要はないと伝えたかっただけで⋯⋯。
「⋯⋯部屋に戻すわ」
シルヴィアの声が急激に冷たく沈んだ。
彼女はレアを横抱きに抱え上げると、虚ろな瞳で虚空を見つめた。
「もう二度と外には出さない。部屋からも出さない。私の目の届く範囲で、呼吸だけしていればいい」
「ま、待ってください! それは⋯⋯」
「黙って。⋯⋯お前がご主人様の言うことを聞かない『悪い道具』だと言うのなら、持ち主として相応の管理をするまでよ」
シルヴィアの瞳から、理性の光が消えていた。
そこにあるのは歪んだ愛と絶対的な支配欲だけ。
転移魔法の光が二人を包む。
一瞬の浮遊感の後、レアは再びあの豪華絢爛な貴賓室へと連れ戻された。
今度は扉に魔法の鎖が何重にもかけられる音とともに。
レアはベッドの上に降ろされ、閉ざされた扉を呆然として見つめた。
窓の外では吹雪がさらに激しさを増している。
――失敗した。
レアは自分の手を見つめた。
シルヴィアの体温が残るその手は、もう赤くはなかった。
だけど心臓はずっと冷たいままだった。
彼女の傷の深さを読み違えていた。
彼女が求めているのは「役に立つ道具」ではない。
その正体に気づくには、レアの自己評価はあまりにも低すぎた。
そしてそのすれ違いが金の檻の鍵を、より強固に閉ざしてしまったのだった。




