【短編小説】乾涸びた熱帯魚
ジョーは知っていた。
全く馬鹿げていると思うが、ピアスと言う肉体的な傷の他に何かを遺したいと思うなら、その精神を深く傷つける他に無い。
傷はいずれ塞がるからだ。
だから容易に忘れてしまう。
イカ焼きは要らない。それはビーナス像の欠けた腕にはならないからだ。
だからジョーはピアスを開けた。シェリーの耳に。彼の記憶が確かなら、だけど。
ジョーは、保冷剤で冷やしたシェリーの耳に「行くよ」と声をかけて針を徹した。
ジョーは肉体の鮮明さに驚いた。
その瞬間まで、皮膚は曖昧だと思っていた。肌を何度重ねたところで何もわからないのは当たり前だった。
それは肉じゃないからだ。
いまそこにあるのは、薄い、肉だった。
皮膚。
存在を包む曖昧な皮膚。
ジョーには薬で眠らせたシェリーの皮膚に女郎蜘蛛を彫る趣味がない。それは何の小説だったか、もしかしたら映画かも知れない。
でも今日、に穴を開ける事を覚えた。
耳に穴の空いたシェリーは笑っている。
耳の穴が嬉しいのか、ジョーが開けたことが嬉しいのか、痛みが嬉しいのか、ジョーには分からなかった。
シェリーの耳には幾つも穴が空いていた。
でもジョーが開けた穴はひとつだけだ。
「ありがとう」
シェリーの声は軽やかに弾んでいた。
「うん」
ジョーはどういたしましてと言うのは変な気がして、曖昧な返事をした。
穴だらけのシェリー?
いや、違う。穴が空いているのは俺の方だ。食い千切られたのは俺の方だ。
ジョーはそう思った。
カラフルな頭蓋骨の絵に貼られた売約済の札が揺れている。
それはジョーの穴だった。
でもジョーには自分の穴の形が分からなかった。
覆水は返らないし、胡蝶は飛ばない。
取り返しが付かないし、ジョーは明晰夢を見ない。
たらればも、眠りも不愉快だった。
それならいっそ痛みを手放さないシェリーと死んだ方がマシだと考えていた。
死に方は、決めかねていたけれど。
「俺を置いていくな」
ジョーは声に出した。いよいよ狂ってしまうのかも知れないと思った。
「俺に飽いたり醒めたり愛想を尽かして離れるのは構わないが、そうでないのなら俺を置いて行かないでくれ」
ジョーは自分が喋るのを止められなかったし、自分がどうかしているのを識るしかなかった。
部屋にはジョーしかいなかった。
シェリーはジョーが見た夢だし、それはジョーにとって見ない方が良い夢だった。
ジョーがひとしきり喋り終わると、部屋からはシェリーの影が消えた。
するとジョーはまた、自分が狂っているのかどうか分からなくなってしまった。
ジョーはいつだって言い訳を探していた。
ジョーは数字が嫌いだった。数学は言い訳ができないからだし、曖昧さがないからだ。
人生は現代国語みたいに曖昧なのに、社会はその曖昧さが許されない。
だからジョーは、自分が狂っていないことを確かめたかったけれど、それはどうにも難しかった。
接触の悪い蛍光灯が瞬いて、影が揺れた。
ジョーはさっきより大きな声で言った。
「俺はいつだって言い訳を探している。数字は嫌いだ、言い訳ができない。曖昧さがない」
影が解けて言った。
「愛しています」
それは実際にあった出来事なのか、それともジョーがそうあって欲しいと願った過去なのか分からなかった。
「月が見えない」
そう、月は見えない。
雷が光る。短い希望みたいに。
「助けてくれ」
ジョーが手を伸ばす。
「その手はなんですか?」
シェリーが訊く。
「月が見えない」
ジョーが呟く。
「この手は」
シェリーが訊く。
この手は?何だっただろう
ジョーは暗い部屋に座っている。
ずっとだ。
影が床に張り付いている。まるで縫われたみたいに。
だからジョーはひとりで喋るしか無かった。
「もう言い訳を探す必要が無い。数字を嫌う必要もない。曖昧さを求めることもない」
シェリーの声は耳ではなく脳みそに直線響いていた。
「あなたの丁寧な話し方は、孤独を知っている優しい人のそれです。だから、この手は」
だからジョーはそれが悲しくて仕方なかった。
「ここは寒いし暑い。シーツの上で眠りが死んでいるんだよ」
シェリーは何も言わなかった。
そんな話をした事が無かったからだ。
「月が」
「見えない」
その話はしたから、大丈夫だ。
ジョーは頷いた。
俺にも月が見えない。
俺はひとりだし、雷は聴こえても光らない。だから何も見えない。
ジョーは思い出した。
捨てる書が無いならスマホを捨てたのだ。
そして街に出た。月が見えるか?太陽はどうだ?相変わらず眠りは不愉快で、それもそろそろ終わりだった。
何故ならジョーはバイクに乗って転んだからだ。
何故ならジョーは、胸を強く打ったからだ。
ジョーの胸には、大きな穴が空いていた。




