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【短編小説】乾涸びた熱帯魚

掲載日:2025/12/21

 ジョーは知っていた。


 全く馬鹿げていると思うが、ピアスと言う肉体的な傷の他に何かを遺したいと思うなら、その精神を深く傷つける他に無い。

 傷はいずれ塞がるからだ。

 だから容易に忘れてしまう。

 イカ焼きは要らない。それはビーナス像の欠けた腕にはならないからだ。


 だからジョーはピアスを開けた。シェリーの耳に。彼の記憶が確かなら、だけど。



 ジョーは、保冷剤で冷やしたシェリーの耳に「行くよ」と声をかけて針を徹した。

 ジョーは肉体の鮮明さに驚いた。

 その瞬間まで、皮膚は曖昧だと思っていた。肌を何度重ねたところで何もわからないのは当たり前だった。

 それは肉じゃないからだ。

 いまそこにあるのは、薄い、肉だった。


 皮膚。

 存在を包む曖昧な皮膚。

 ジョーには薬で眠らせたシェリーの皮膚に女郎蜘蛛を彫る趣味がない。それは何の小説だったか、もしかしたら映画かも知れない。

 でも今日、に穴を開ける事を覚えた。


 耳に穴の空いたシェリーは笑っている。

 耳の穴が嬉しいのか、ジョーが開けたことが嬉しいのか、痛みが嬉しいのか、ジョーには分からなかった。

 シェリーの耳には幾つも穴が空いていた。

 でもジョーが開けた穴はひとつだけだ。

「ありがとう」

 シェリーの声は軽やかに弾んでいた。

「うん」

 ジョーはどういたしましてと言うのは変な気がして、曖昧な返事をした。

 

 


 穴だらけのシェリー?

 いや、違う。穴が空いているのは俺の方だ。食い千切られたのは俺の方だ。

 ジョーはそう思った。


 カラフルな頭蓋骨の絵に貼られた売約済の札が揺れている。

 それはジョーの穴だった。

 でもジョーには自分の穴の形が分からなかった。

 覆水は返らないし、胡蝶は飛ばない。

 取り返しが付かないし、ジョーは明晰夢を見ない。

 たらればも、眠りも不愉快だった。

 それならいっそ痛みを手放さないシェリーと死んだ方がマシだと考えていた。

 死に方は、決めかねていたけれど。



「俺を置いていくな」

 ジョーは声に出した。いよいよ狂ってしまうのかも知れないと思った。

「俺に飽いたり醒めたり愛想を尽かして離れるのは構わないが、そうでないのなら俺を置いて行かないでくれ」

 ジョーは自分が喋るのを止められなかったし、自分がどうかしているのを識るしかなかった。

 部屋にはジョーしかいなかった。

 シェリーはジョーが見た夢だし、それはジョーにとって見ない方が良い夢だった。


 ジョーがひとしきり喋り終わると、部屋からはシェリーの影が消えた。

 するとジョーはまた、自分が狂っているのかどうか分からなくなってしまった。



 ジョーはいつだって言い訳を探していた。

 ジョーは数字が嫌いだった。数学は言い訳ができないからだし、曖昧さがないからだ。

 人生は現代国語みたいに曖昧なのに、社会はその曖昧さが許されない。

 だからジョーは、自分が狂っていないことを確かめたかったけれど、それはどうにも難しかった。


 接触の悪い蛍光灯が瞬いて、影が揺れた。

 ジョーはさっきより大きな声で言った。

「俺はいつだって言い訳を探している。数字は嫌いだ、言い訳ができない。曖昧さがない」

 影が解けて言った。

「愛しています」

 それは実際にあった出来事なのか、それともジョーがそうあって欲しいと願った過去なのか分からなかった。


「月が見えない」

 そう、月は見えない。

 雷が光る。短い希望みたいに。

「助けてくれ」

 ジョーが手を伸ばす。

「その手はなんですか?」

 シェリーが訊く。

「月が見えない」

 ジョーが呟く。

「この手は」

 シェリーが訊く。

 この手は?何だっただろう

 

 ジョーは暗い部屋に座っている。

 ずっとだ。

 影が床に張り付いている。まるで縫われたみたいに。

 だからジョーはひとりで喋るしか無かった。

「もう言い訳を探す必要が無い。数字を嫌う必要もない。曖昧さを求めることもない」

 シェリーの声は耳ではなく脳みそに直線響いていた。

「あなたの丁寧な話し方は、孤独を知っている優しい人のそれです。だから、この手は」

 だからジョーはそれが悲しくて仕方なかった。

「ここは寒いし暑い。シーツの上で眠りが死んでいるんだよ」


 シェリーは何も言わなかった。

 そんな話をした事が無かったからだ。

「月が」

「見えない」

 その話はしたから、大丈夫だ。


 ジョーは頷いた。

 俺にも月が見えない。

 俺はひとりだし、雷は聴こえても光らない。だから何も見えない。

 ジョーは思い出した。

 捨てる書が無いならスマホを捨てたのだ。

 そして街に出た。月が見えるか?太陽はどうだ?相変わらず眠りは不愉快で、それもそろそろ終わりだった。

 何故ならジョーはバイクに乗って転んだからだ。

 何故ならジョーは、胸を強く打ったからだ。

 ジョーの胸には、大きな穴が空いていた。

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