3.『恋の五十音』
「違うよ~。ここの答えは3xだよ~」
「うーん……」
中間テストまで残り1週間に迫った今日放課後、俺はハルに勉強を教わっている。
こいつは何故か(と言うのも失礼だが)勉強が出来る。授業中ちゃんとノートをとっているところなんて見たこと無いのにだ。
俺はというと、まあ……あれだ。皆まで言わせるな。
「あ~、こっちはこうじゃなくてΣ《シグマ》を使うんだよ~」
「なる……ほど?」
そんな感じで、いつもとちょっと違う1日の始まりだ。
あれから30分後。
「だ~か~ら、違うの~!」
テスト勉強はなかなか前には進まず、ハルも教えるのに疲れたようで、机に突っ伏してしまった。
まあ、教えているのにこんだけ間違えてればそれも無理ないか。俺でもキレてる。
でも悪いのは数学のほうだ。何で数学なのにアルファベットや象形文字のような記号が出てくる!?
「も~う、ABCから勉強し直した方がいいんじゃな~い?」
俺の頭の中を読んだようにハルがそう呟いた。
その意見に反論こそ出来ないが、少しムカついた俺は少し意地悪な質問をしてみた。
「じゃあお前、恋のABCって知ってるか?」
別にハルに怒ってるわけじゃない。ただ単に八つ当たりだ。
「えぇゎ? わゎゎわたししぃにぃにはああ!? ちぃちょっっとまままだああは、はやゃいゐかなああ!?」
翻訳すると『ええ? わたしにはちょっとまだ早いかな』となる。
予想通りの反応にスッキリした俺。だが、ハルはまた俺の予想の斜め上をいった。
「だ、だって、まだ五十音も終わってないもん」
そう言いながら、顔は未だに真っ赤で、恥ずかしそうに頬に手を当てながら体をくねらせている。
そんなことより――。
「五十音!? なんだそれ!?」
「小学校からやり直してこ~い」
「違う! 俺が聞いてんのは『恋の五十音』の事だ!」
「気になる? 気になるんだ? 気になっちゃうんだ?」
「気になる! 気になるんだよ! 気になっちゃうんだよ!」 俺はハルの勝ち誇った嘲笑など気にならないほど、この事が気になってしょうがなかった。
「しょうがないな~。じゃあ課外授業ってことで教えてあげるよ~」
課外授業という響きにドキッとしてしまったのはひとまず置いておこう。
「まず『あ』はあいさつをする~」
「おお」
どんな奇抜な答えが返ってくるか身構えていた俺は、なんとも真面目な答えに思わず拍子抜けた声を出してしまった。
「『い』は?」
案外どっかから仕入れた情報で、マトモなものなのかもしれない。そう思った。
――俺が馬鹿だった。
「井上くん」
「井上くん!?」
「も~う、こういうのはテンポが大事なんだから~」
「ああ、ゴメン」
予想の斜め560°東をいく展開に頭がついていかない俺は、そのまま流されるようにハルにしたがっていた。
「……『う』」
「浮かない顔で今日も登校」
「? 『え』」
「遠藤さんが転校するまで残すところもう3日を切ったというのに、僕はまだこの想いを伝えられずにいた。
ふと辺りを見渡すと、桜の蕾が今にも花開こうとしているのが目についた。
思えば遠藤さんと出会ったときも、こうして何気なく桜の木を見上げていたんだっけ……。
桜を見ていた僕は、前を歩いていた1人の小さな女の子に気付かず、そのままぶつかって転ばせてしまったんだ。
慌てて謝る僕にその女の子は無邪気に笑って、気がつけば僕も笑って、気がつけば好きになって、気がつけば別れが近づいていて……。
『おはよう』
後ろから、聞き慣れた声が聞こえる。
『何を見てるの?』
『桜だよ。もうすぐ咲きそうなんだ』
『わ~、本当だね』
『でも皮肉だ』
『何が?』
僕の言うことが分からなくて、困った顔を見せるキミ。
『だって雨や風に耐えて、やっと咲いたって花はすぐに散ってしまうから』
『……だからそれまでの苦労が報われないから、皮肉だって言うの?』
『うん』
すると、キミはくすっと微笑んでこう言った。『それは違うよ』
『えっ?』
『だって……雨風に耐えて、咲いたこの子たちは自分の生きた形を残せたんだから……それは無駄に時間を貪りながら延々と生きる人の一生なんかより、遥かに美しいものだとは思わない?』
無駄に時間を貪る。その言葉が僕の胸に突き刺さった。
『……わからないよ』
違う。分かりたくないだけなんだ。
『私も分からないわ。だから私は、私という命が散るまでにたくさん後悔をしたいの』
『後悔?』
『そう。私は後悔のない人生なんてつまらないと思うの。だってそれは逃げるって事でしょ? 楽な道を選ぶってことでしょ? それはとてもとてもとてもつまらないことだと思うの』
『おもしろいともかぎらないよ』
『いいえ、おもしろいわ!』
どこからそんな自信がくるのか。キミは胸を張ってそう答えた。
『どうして?』
答えなんかあるはずがない。僕はそう思いつつも、心のどこかで何かを期待していたのかもしれない。
『だって<つまらない>の反対は<おもしろい>なのよ。その間なんて存在しないの。あるとしたらそれは<普通>という言葉で逃げている自分自身なの』
『暴論だ』
『そうかもね。いろんな人から批判されちゃうかもね』
『怖くないの?』
『怖くないわ。だって私は今、自分の道を逃げずに選んだのよ。それはとてもとてもとてもおもしろい事なの。自分の花を残せたの。すぐ雨風に飛ばされてしまうような小さく儚い花でもね』
自信満々なキミに、僕は思わず笑ってしまった。
『何だか、おもしろければ何でもいいって感じだね』
『ええ、そうよ! 一度しかない人生をおもしろく生きなくてどうするの!』
そう言いながら、口を尖らせるキミ。
『世の中にはつまらないことだっていっぱいあるよ。おもしろい事だけで生きるっていうのは逃げるって事じゃないの?』
『違うわ。選ぶの! だけどね、おもしろいってことは楽だとはかぎらないわ。むしろつらい事の方が多いかもしれない。だけどそれはつまらなくないわ。つまらないって言葉はその事柄を否定しているのよ。あなたは自分の人生を否定するの?』
『…………』
できるわけがない。だってそれはこの想いまでも否定するという事なのだから。
『じゃあ、1つ訊いてもいいかな?』
『何かな?』
『僕といておもしろい?』
『え?』
『僕も逃げるのはやめようと思う。後悔してもおもしろく生きようと思うんだ。だからキミに伝えたいことがある』
『……うん』
僕という花を残すためにも」
「『お』」
何だかいきなり始まった話に、俺はツッコむことも忘れて聞き入ってしまった。
否。ツッコむコトなど出来なかった。この瞬間も俺は2人の行く末だけを考えている。
そんな俺を――。
「おしまい」 ハルの言葉が切り裂いた。
「おしまい!? 何だよそれ! 続きは!? 続きはないのかよ!」
「大丈夫だよ~」
すると、ハルはピースサインを向けながらこう言った。
「もうすぐか行が始まるから」
「本当か!? 早く見てー!」
「サブタイトルは『木村くんの憂鬱』だよ」
「井上くんは!?」
帰り道。
結局、第2シーズンがいつ始まるかは分からずじまいで、俺の心はモヤモヤが渦巻いていた。
「ね~ね~」
後ろを歩くハルが俺の肩を叩きながら呼んでいる。
「何だよ」
振り向くと、決して柔らかくはない人差し指が俺の頬に突き刺さった。
「はずれ~、や~い、引っかかった~」
嘲笑を浮かべるハル。顔を引きつらせる俺。イチャついてると勘違いをして目くじらを立てるジジイ。
俺はすぐさま前を向き歩き出す。
すると、またもや肩にハルの手が伸びた。
2度も同じ手は食らうまいと、手が伸びた方とは反対の方を振り向く。
すると、とてつもなく柔らかく、気持ちのいい何かが唇に当たった。
「正解。……でもまだAまで。これから先はもう少しだけ待ってね」
更新遅れてすみませんでした。