第七十六話 それが、最後の確かな記憶だった。
【注意事項】
本作品には自殺や精神的に重いテーマが含まれています。
読む際にはご自身の心身の状態を十分にご考慮ください。
心の不調を感じた場合は、無理に読み進めず、専門機関や信頼できる人に相談されることをおすすめします。
※この作品はフィクションです。登場人物・団体・事件はすべて架空であり、現実の自殺や暴力を肯定・助長する意図はありません。
三月下旬。
校庭にはやわらかな春の光が降り注ぎ、まだ冷たさを残した風が、桜の枝をわずかに揺らしていた。つぼみは固く閉じているが、その先にある季節を予感させるには十分だった。
体育館の扉が開き、卒業式を終えた生徒たちが次々と外へ出てくる。
式の間、張り詰めていた空気は一気にほどけ、歓声や笑い声、名前を呼び合う声が校庭に広がっていった。制服姿の生徒たちは、それぞれの思いを抱えながら、写真を撮ったり、担任の先生に最後の挨拶をしたりしている。
久保田は人の流れから少し離れた場所で立ち止まり、胸に残る余韻を静かに噛みしめていた。
壇上で聞いた校長の言葉も、式辞の定型文すら、今日は不思議と心に残っている。
――もう、この体育館に座ることはない。
その事実が、今になってじわりと効いてきた。
腰山と長谷川が背後から合流する。
久保田:「……ついに、卒業か。」
ぽつりとこぼれた言葉は、独り言のようでいて、確かな実感を伴っていた。
腰山:「ああ。でも、終わりって感じはしないな。」
腰山は卒業証書の筒を肩に担ぎ、少し照れたように笑う。
腰山:「俺たち、まだこれからだろ。」
長谷川:「それぞれの道だけどね。でも、不思議と不安は少ない。」
彼は眼鏡の奥で、穏やかに目を細めた。
長谷川:「この三年間、ちゃんと無駄じゃなかったって思えるから。」
そこへ、深見が静かに歩み寄ってくる。
手にした卒業証書を大切そうに抱え、その動きはいつもより少し慎重だった。
深見は校舎を一度振り返り、柔らかな笑みを浮かべる。
深見:「久保田君。……図書館で過ごした日々、本当に楽しかったわ。」
久保田は一瞬、言葉を探してから、素直に答えた。
久保田:「俺もだよ、紗世」
久保田:「あの時間がなかったら、今の自分はいなかったと思う。」
図書館の静けさ。
本のページをめくる音。
試験前に交わした何気ない会話。
思い出が、次々と胸の内をよぎった。
腰山と長谷川も、同じ記憶を共有しているらしく、小さくうなずく。
腰山:「久保田、次に会う時はさ、俺は警察官として立ってるからな。」
少し気恥ずかしそうに言い切る。
久保田:「うん。じゃあ俺は、学芸員として胸張れるように頑張る。」
長谷川:「僕は……国信で、できることを精一杯やるよ。」
その声は静かだが、揺るぎなかった。
四人は並んで校庭を歩き始める。
足元の砂利を踏む音が、不思議と心地よい。
廊下ですれ違った時の短い会話。
図書館での参考書の受け渡し。
放課後、理由もなく同じ方向に歩いた帰り道。
どれもが小さな時間だったが、どれ一つ欠けても、この日には繋がらなかった気がした。
久保田はふと足を止め、深見の方を向く。
久保田:「ねえ、紗世。」
一瞬、緊張が喉を通る。
久保田:「これからも……時々でいいから、一緒に本を読んだり、話したりしてくれる?」
深見は驚いたように目を瞬かせ、少しだけ頬を赤らめたあと、ゆっくりとうなずいた。
深見:「もちろんよ。」
深見:「当たり前でしょ。」
腰山と長谷川は、二人から少し距離を取りながら、その様子を見守っている。
腰山:「……さて、そろそろ置いていかれる前に行こうか。」
長谷川:「ああ。でも、また集まれるさ。」
夕方の光が校庭を黄金色に染め、四人の影は長く、静かに伸びていた。
進む道はそれぞれ違う。けれど、友情と、名前のつかない確かな想いが、この日を境に消えることはない。
久保田は胸の奥で、そっと誓う。
(どんな道を選んでも――
あの図書館の時間と、この人たちとの思い出を、大切にしていこう。)
歩き出す足は少し重い。
それでも、その重さは、確かな希望の重みだった。
夕方の光が校庭を黄金色に染め、四人は校門の前で足を止めた。
それぞれが、別々の方向へ向かう分かれ道だった。
腰山:「じゃあな。次は……制服じゃない姿だな。」
長谷川:「ああ。体に気をつけて。」
短い言葉を交わし、それぞれが歩き出す。
一歩、また一歩と距離が伸びていく。
そのとき――
深見が、ふと立ち止まった。
まだ数歩先を歩いていた久保田は、足音が止んだことに気づき、振り返る。
春の風に、深見の髪が揺れていた。
彼女は少し躊躇うように視線を揺らし、それから静かに久保田を見る。
言葉はなかった。
けれど、そのまなざしには、
「また会おう」と、
「忘れないで」という気持ちが、確かに込められていた。
久保田は小さく息を吸い、ぎこちなく、けれど精一杯に微笑む。
深見も、それに応えるように、ほんの少しだけ笑った。
次の瞬間、彼女は何事もなかったように前を向き、歩き出す。
振り返ることは、もうなかった。
久保田は、その背中が人混みに溶けていくまで、しばらく立ち尽くしていた。
(――ああ、大丈夫だ。)
胸の奥に残った温かさが、そう教えてくれる。
別れは終わりじゃない。
この瞬間もまた、未来へ繋がる一部なのだと。
久保田はゆっくりと前を向き、自分の道を歩き出した。
春風が髪を揺らし、新しい日々の始まりを優しく告げていた。
いつもご愛読賜りまして、誠にありがとうございます。
重く深いテーマに向き合いながらも、登場人物たちの物語はなお続いております。
彼らの心の揺れや選択の行く末を、これからも温かく見守っていただけますと幸いに存じます。
一歩ずつ前へ進む姿を、読者の皆様と共に感じられますことを心より願っております。
次回も変わらぬご厚情を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
次回もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
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次回更新日:12月06日 22時(社会情勢によって変動。)




