第六十三話:夜明け前の車内
【注意事項】
本作品には自殺や精神的に重いテーマが含まれています。
読む際にはご自身の心身の状態を十分にご考慮ください。
心の不調を感じた場合は、無理に読み進めず、専門機関や信頼できる人に相談されることをおすすめします。
※この作品はフィクションです。登場人物・団体・事件はすべて架空であり、現実の自殺や暴力を肯定・助長する意図はありません。
夜明け前、
車内は、エンジン音だけが規則正しく響いていた。外はまだ朝の光に包まれていない街路で、昨夜の雨がわずかに残した水たまりが路面に光る。街灯の光が濡れたアスファルトを反射し、まるで無数の小さな星が地上に散らばったようだった。窓越しに流れる景色は、普段と何も変わらない。人々は眠りから目覚め、コンビニの看板がわずかに灯るだけの静かな朝。けれど、俺の心はまるで別世界に取り残され、どこにも戻れない感覚に支配されていた。
「……菜穂の件、まだ頭から離れません」
思わず呟いた声は、車内の静寂に吸い込まれ、請負人には届かなかったのか、彼は無言のまま前方を見つめ続けていた。助手席に座る俺の視線は、濡れた路面に反射する街灯の光を追いながら、心の内を整理しようとしたが、思考はもつれ、出口の見えない迷路の中にいた。
あの笑顔——静かで、痛みもなく、消えたはずの笑顔——が、何度も脳裏に蘇る。
「生きていればよかった」と思うのか、
「死んだほうが楽だったのか」と考えるのか、
どちらも正しく、どちらも間違っているように感じた。答えは出ず、胸の奥にぽっかりと穴が空いたままだった。
請負人はしばらく間を置き、低く静かな声で口を開いた。
「心の整理は、仕事の前に済ませなくても構いません」
その声は冷たくもあり、しかしなぜか重みを帯びていた。
「目の前の現実に集中する。それが、私たちのやるべきことです」
俺はうなずくだけで答えた。深く息を吸い込み、ハンドル越しに両手を握りしめる。外の景色は変わらない。濡れたアスファルトに街灯の光が揺れるだけ。しかし、心の中では何かがずっと引っかかっていた。菜穂の死、その無言の微笑み、そして自分の無力さ——それらが波紋のように広がり、決して消えることはない。
「……次の依頼、詳細は?」つい、口に出してしまった。声が震えていたかもしれない。請負人はゆっくりと頷き、手元のタブレットを操作する。
「今回の依頼人は、高齢者の男性です。名前は住所から確認済み、久保田 達也」
その声には淡々とした冷静さの中にも、何か覚悟めいた響きがあった。
俺は思わず問いかける。
「亡くしたのは……孫ですか?」
先日、菜穂の死で抱えた胸の痛みが、そのまま蘇るようだった。請負人は目線を逸らさず、答える。
「ええ、お孫さんもですが……」
車内に再び沈黙が広がる。エンジンの規則正しい振動だけが、時間の経過を知らせる。窓の外の景色は変わらないのに、心の中では静かに嵐が渦巻いていた。
「……どうするつもりです、俺たちは」
思わず口をついた声には、重みがあった。自分でも答えが分からない問いを投げかけるように。
請負人は低くつぶやいた。
「依頼を完了しに行くだけです」
その言葉は冷静で淡々としているが、どこか揺るがない決意を感じさせた。
車は静かに街路を抜け、次の現場へ向かう。俺は助手席で視線を遠くに向けたまま、静かに自分を整えようとした。濡れた街路の光はやがて曇天に溶け込み、薄明かりに溶け込む。だが、俺たちの世界は、その日常の中に深く隔たった場所にあり、誰も気づかない悲劇や痛みを抱えている。
俺は深く息を吸い込み、胸の奥にまだ残る菜穂の笑顔をそっと思い浮かべた。それは消えていない。これから向かう老人の孤独の中に、同じような痛みを目にするかもしれない。だが、俺はそれを見届けるしかない——現実を、そして死と向き合う人々を。
車のエンジン音だけが、静かな夜に規則正しく響き続けていた。
久保田さんは…
いつもご愛読賜りまして、誠にありがとうございます。
重く深いテーマに向き合いながらも、登場人物たちの物語はなお続いております。
彼らの心の揺れや選択の行く末を、これからも温かく見守っていただけますと幸いに存じます。
一歩ずつ前へ進む姿を、読者の皆様と共に感じられますことを心より願っております。
次回も変わらぬご厚情を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
次回もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
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次回更新日:11月16日 18時,22時(社会情勢によって変動。)
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