第六十一話: 慈愛
【注意事項】
本作品には自殺や精神的に重いテーマが含まれています。
読む際にはご自身の心身の状態を十分にご考慮ください。
心の不調を感じた場合は、無理に読み進めず、専門機関や信頼できる人に相談されることをおすすめします。
※この作品はフィクションです。登場人物・団体・事件はすべて架空であり、現実の自殺や暴力を肯定・助長する意図はありません。
夜空は、驚くほど静かだった。
身体が落ちていく感覚は、不思議と怖くなかった。
痛みも、苦しさもなかった。
ただ、重さが消えていくような、ふわりとした浮遊感だけがあった。
ああ、終わるんだ。
やっと、終われるんだ。
そう思った瞬間——
視界が、暗闇の中に溶けた。
完全な闇。
音もなく、温度もなく、世界が止まったような空間。
「——痛くないでしょう?」
声がした。
姿は見えない。
「死は、痛みを消し去ります。
苦しみも、孤独も、思い出も、何もかも。」
菜穂は、かすかにうなずいた。
そのうなずきさえ、空気に触れない、夢の中のような動作だった。
「でも、あなたが消える前に、ひとつだけ。」
闇の中に、ひとつ光が滲んだ。
小さな光。
それは、あの日の家。
母の笑顔。
父と三人で食卓を囲んだ記憶。
夕飯はカレーだった日曜日。
テレビが少しうるさくて、
母が笑って「ちょっと静かにしなさい」って言った声。
「……」
胸が、締め付けられるように痛んだ。
それは、いちばん大切だったもの。
「あなたは、愛されていましたよ。」
その声は、優しいのに残酷だった。
菜穂は、震えた声で言った。
「……でも、もういない。
誰もいない。
全部、なくなったの。」
その声は淡々と告げる。
「失う前に、確かにそこにあったのです。」
闇の中の光が、ひとつ、ふたつ、消えていく。
笑顔
声
手の温度
食卓の灯り
湯気
家の匂い
すべてが、霧のように薄れていく。
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屋上にて、
「気は済みましたか?」
「ああ、悪いな。なんか、気を使わせてしまって」
「いや、別に大丈夫ですよ。」
彼は真っ直ぐに菜穂を見た。
大人でも子供でもない、壊れた心を抱えた人間の目で。
「彼女なりに、これが前に進めたのか・・・俺わかんないです。
今まで恩人から生きてればそれで良いと教わりました。でも…誠さんや他の患者さんの病室での様子、菜穂さん、歩美さんを観てると、わかんないです。」
「この方は死ねなかった。でも、それが“生きる”こととは限らない。」
「さて、処理しますよ。我々の痕跡を消すとしましょう。」
「あ、あ。分かった。菜穂さんのためにも。」
冷たい空気に包まれた街路に、警察のサイレンと人々のざわめきが響いた。
匿名の通報で、菜穂さんが病院から落下して亡くなったことが発覚した。
病院職員は沈痛な面持ちで、警察官に事情を説明していた。
病院では、職員たちが互いに顔を伏せ、ため息をつく。
誰もが、「なぜ防げなかったのか」という後悔に苛まれていた。
警察はすぐに現場検証を始める。
非常階段の扉は施錠はされていなかった。
菜穂が一人で外に出た可能性が高いことが示唆された。
「遺書などは?」
「今のところ、確認できていません」
報告を受けた警察官は、事件性よりも、悲劇の連鎖として捉えるしかなかった。
菜穂の遺体は慎重に運ばれ、病院の霊安室に安置される。
その小さな体は、昨夜まで抱えていた痛みも恐怖もなく、静かに眠るようだった。
しかし、その顔は笑っていた。
いつもご愛読賜りまして、誠にありがとうございます。
重く深いテーマに向き合いながらも、登場人物たちの物語はなお続いております。
彼らの心の揺れや選択の行く末を、これからも温かく見守っていただけますと幸いに存じます。
一歩ずつ前へ進む姿を、読者の皆様と共に感じられますことを心より願っております。
次回も変わらぬご厚情を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
次回もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
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次回更新日:11月16日 10時,14時,18時,22時(社会情勢によって変動。)




