第五十二話:小さな瞳に映る父
【注意事項】
本作品には自殺や精神的に重いテーマが含まれています。
読む際にはご自身の心身の状態を十分にご考慮ください。
心の不調を感じた場合は、無理に読み進めず、専門機関や信頼できる人に相談されることをおすすめします。
※この作品はフィクションです。登場人物・団体・事件はすべて架空であり、現実の自殺や暴力を肯定・助長する意図はありません。
「菜穂、昨日ちゃんと食べれた?」
「…食べれた。」
「食う事は生きる事はだからね。ちゃんと食べなよ。お母さん今日も帰れそうにないから。お金はあれで足りるでしょ?」
「うん。」
彼の胸は、一定のリズムで上下していた。
だがそれは、機械の規則正しい音に合わせて動いているだけだった。
「……三浦さん、今日も変化なしです」
看護師がカルテに記録をつける。
ベッドサイドには人工呼吸器、点滴の管、心拍モニター。
電子音が小さく、しかし絶え間なく響いている。
“ピッ、ピッ”というその音だけが、この病室に生命の存在を知らせていた。
窓から射し込む光が、三浦の頬を照らす。
「お父さん……」
少女の声が静かな病室に落ちる。
菜穂は、服の袖を少し引き上げ、消毒液の匂いを吸い込んだ。
白い花を花瓶に入れる。
三浦の瞳は閉じたまま。
まつげの先が、わずかに震えることもない。
呼吸音と機械の電子音だけが、菜穂の声をかき消していく。
菜穂は白い花を花瓶に挿し、ふと父の手を見つめた。
少し荒れた指先。細い傷のあと。
それは、菜穂が幼いころに「パパ、手がかたいね」と言って笑った時のままだった。
“ピッ、ピッ”
人工呼吸器の音が、静かに病室を満たしている。
その規則的な音を聞いていると、不思議と昔の声が蘇る。
夜中の2時に、玄関のドアがゆっくり開く音。
「ただいま……」
寝ぼけながら聞こえるその声に、母がため息をつく。
「また終電? 体壊すよ」
父は苦笑して、「大丈夫だよ」とだけ言って、冷めた味噌汁をレンジで温めていた。
台所の明かりの下、湯気が小さく立ちのぼる。
菜穂は、布団の中からその光をぼんやり見つめていた。
次の日、食卓の上にコンビニのシュークリームが置かれていた。
「昨日、買ってきたやつ。菜穂の好きなやつだぞ」
眠そうな顔でそう言った父に、
「ありがとう」と言いながらも、菜穂は心のどこかで寂しかった。
その日も父は朝早く出ていき、夜遅く帰る。
そんな日々が、ずっと続いた。
――でも。
運動会の日だけは違った。
父は、無理をして会社を早退してきてくれた。
グラウンドの向こうで、スーツのままカメラを構えている姿が見えた。
「パパ、ほんとに来てくれた!」
菜穂が走り寄ると、父は照れくさそうに笑って頭をかいた。
「当たり前だろ。菜穂のリレー、見なきゃ一週間落ち着かねぇ。」
その日の夜、家に帰って3人で食べたカレーの味を、菜穂はいまでも覚えている。
少し焦げたルウ。父が作ったから、いつもより塩辛かった。
でも、どんな高い店の料理よりもおいしかった。
――それが、最後の「一緒の夕食」だった。
その後、父はさらに忙しくなり、帰ってこない日が増えた。
電話をしても、
「今、会議中なんだ。また話そうな」
そう言って切れる声の向こうに、
誰かの怒鳴り声が小さく混じっていたのを覚えている。
病室の父を見つめながら、菜穂は唇を噛んだ。
「ねえ、パパ。あの時のカレー、また作ってよ。」
そう呟いても、返事はない。
人工呼吸器の音だけが、淡々と鳴り続けていた。
“ピッ、ピッ、ピッ……”
病室の時計が、静かに針を進めていた。
菜穂は席を立てなかった。
あの日、運動会のあとに手を繋いで帰ったときの体温を思い出す。
「ねえ、パパ。生きてるって、どういうこと?」
声は小さく、空気の中で溶けて消えた。
返事はもちろん、ない。
“ピッ、ピッ”という電子音が、まるで返答の代わりのように響く。
ふと、隣のベッドから声がした。
年配の男性が看護師に話しかけている。
「俺はもう、いいんだよ……十分生きた。若い子たちに金かけてやれ。」
看護師が困ったように笑い、「そんなこと言わないでください」と答える。
そのやりとりを聞きながら、菜穂は胸の奥がざわついた。
――生きることは、いつから「義務」になったんだろう。
父も、会社のため、家族のために働き続けた。
帰れなくても、笑えなくても。
それでも「頑張ること」が正しいと信じていた。
でも、その結果が、これなの?
菜穂の目から、涙が一滴落ちた。
手の甲に、静かに滲んで消えていく。
窓の外では、雨が降り始めていた。
病室のガラスを打つ音が、一定のリズムで響く。
まるで、父の呼吸音と重なっているようだった。
いつもご愛読賜りまして、誠にありがとうございます。
重く深いテーマに向き合いながらも、登場人物たちの物語はなお続いております。
彼らの心の揺れや選択の行く末を、これからも温かく見守っていただけますと幸いに存じます。
一歩ずつ前へ進む姿を、読者の皆様と共に感じられますことを心より願っております。
次回も変わらぬご厚情を賜りますよう、何卒よろしくお願い申し上げます。
次回もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
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次回更新日:10月26日 22時(社会情勢によって変動。)




