第二十二話: 事前準備
【注意事項】
本作品には自殺や精神的に重いテーマが含まれています。
読む際にはご自身の心身の状態を十分にご考慮ください。
心の不調を感じた場合は、無理に読み進めず、専門機関や信頼できる人に相談されることをおすすめします。
※この作品はフィクションです。登場人物・団体・事件はすべて架空であり、現実の自殺や暴力を肯定・助長する意図はありません。
私の名前は、林 康夫。
今はただの、惨めなホームレスに過ぎない。それでもかつては“英雄”と呼ばれた。
だが、かつては違った。5年前、私は海上自衛隊に所属し、数々の任務を遂行してきた。
遠洋での救助作戦では荒れ狂う嵐の中、沈没寸前の民間船から十数名を生還させた。海外派遣では、アリマソ沖の海賊対処行動に参加し、商船を護衛した。武装した小型船団に囲まれた状況でも、実弾を撃つことなく拿捕を阻止し、被害を出さずに脅威を退けた。
大規模な地震災害では、冷たい瓦礫の海に飛び込み、濁流の中から子どもを抱えて救い出した。航空機の緊急降下では冷静に対応し、仲間を全員生還させた。
その功績から「英雄」と呼ばれ、新聞に小さくではあるが載ったこともある。昇進の話も何度もあったが、私はすべて断ってきた。現場の仕事に誇りを持っていたし、自分には組織を背負う器がないと知っていたからだ。だが今にして思えば、どの選択をしても同じだったのだろう。
――だが、その栄光は、電車の中のたった一言で粉々に砕け散った。
あの日、私はいつも通り電車に揺られていた。吊革を握り、次の停車駅のことを考えていただけだ。突然、前にいた若い女が甲高い声を上げた。一瞬で車内の視線が私に突き刺さった。手を離してもいない。触れてすらいない。それでも、群衆は私を犯人と決めつけた。
制服を着ていた頃なら信じてもらえたかもしれない。だがその時の私は、ただの中年男にしか見えなかった。
「この人です! 痴漢です!」
吊革を握っていた私を指差し、女が叫んだ。触れてもいない。それでも周囲の視線は一瞬で私を犯人に仕立てあげた。駅員室に連れ込まれ、警察に引き渡され、取り調べは地獄のように続いた。
「正直に認めろ」
否認すればするほど、調書には私の言葉が歪められ、私はますます“加害者”として形作られていった。
裁判は茶番だった。証拠はなくとも、女の涙と検察の言葉がすべてだった。
「英雄の裏の顔」――それが彼らの筋書きだった。判決は有罪。木槌の音が、私の人生を終わらせた。
翌日には新聞に私の名が載った。
「海自英雄、痴漢で失墜」
ネットでは瞬く間に炎上し、知らぬ者たちが「最低の裏切り者」「救った命が泣いてる」などと好き勝手に書き散らした。匿名の言葉が刃物のように私を切り刻んだ。
組織からは即日「懲戒免職」の通達が届いた。
「君の過去の功績には敬意を払う。しかし、組織の信頼を守るためには処分せざるを得ない」
冷たく形式的な文言。私が何を訴えても、聞き入れられる余地はなかった。
すべてが去った。
かつて「英雄」と讃えた人々は、今や私の名を口にすることすらしない。残ったのは、冤罪という烙印と、社会からの冷笑だけだ。
しばらく貯金があった私は、なんとか休息を取った。しかし過去の記憶は刃物のように心を切り裂き続ける。入隊していたころは一滴も酒を飲まなかった私が、今はストレスを押し殺すために酒に浸るようになった。
鏡に映る自分の姿は日に日に変わっていく。やつれ、濁り、かつての自分とは別人のように。
その変化に比例するように、未来への絶望感も重くのしかかっていった。
そして今、私は路上で空き缶を拾い、寒さに震えながら過去を思い出す。
あの日救った子どもも、護った仲間も、もはや私のことなど知らぬ顔だろう。
――結局、救いなど存在しなかった。
読んでくださり、ありがとうございます。
重いテーマに向き合いながらも、登場人物たちの物語はまだ続いていきます。
彼らの心の揺れ動きや選択を、これからも見守っていただけたら嬉しいです。
一歩ずつ前に進む姿を一緒に感じていただければ幸いです。
次回もまた、どうぞよろしくお願いいたします。
次回更新日:9月7日(日)14時 (社会情勢によって変更)
次回予告:・・・




