こうもり傘のバッドエンド
都心から少し外れたエリアにある10階建てのマンション。その5階に住むのは小説家志望の大学生、永篠京平。
今日も今日とて湿気に満ちた部屋で京平はただ独り、パソコンの画面に向かって物語を吐き出す。
”その時、少女は嗤った。その皮肉な笑みは一体誰に|”
「駄目だ。つまらない。これもボツ」
京平は少しの躊躇いも見せず、ほとんど書き終えた小説をBackSpaceキーで白紙に戻した。
そして、机の傍らに置かれたコップの麦茶を飲み干し、そのままベランダに出る。
風が生ぬるい。麦茶を流し込んだばかりの口も生ぬるい。すべて、生ぬるい。
ケフッ、と京平は静かに喉を鳴らし、何を意識するわけでもなくただ空を仰いだ。
「確か昔見たアニメ映画じゃ、こうやって空を眺めてたら上から少女が降ってくるんだったか。たとえば、あんなふ」
京平は言いかけた言葉を、不意に、無意識的に飲み込んだ。
降ってくる、否。降りてくる。
洋傘、あるいはこうもり傘というべきか。兎に角にも、黒い傘を差した少女がゆっくりとベランダに降り立つ。
そして、呆然と立ち尽くす京平に微笑みかけた。だが、目は笑っていない。
「私は、くろり。川堀くろり。あなたの名前は?」
少女は、透き通るように玲瓏な声で訊いた。
年齢は10代ほどか、実に美しい容姿をした少女である。
その端整な顔から伸びる黒髪は日の光を反射して艶めいており、身に纏ったモノトーンカラーのワンピースの先から覗く肌は陶器のように白い。
「永篠京平だ。何の用だ」
「あら、韻を踏んでる」
「関係ない」
京平はくろりの冗談を受け流し、淡々とした口調で返す。
二人の間に沈黙が下りる。その間、およそ15分。
風に吹かれた観葉植物の葉がざざめく音だけが、ただ響いていた。
ねえ、と。この沈黙を先に破ったのは、くろりの方であった。
「ねえ、京平は何も訊かないの?空から降りてきた謎の少女について」
「興味がない」
「ねえ、皆んな口を揃えて言うのよ。私に関わると忽ち不幸になるって。京平はどう思う?」
「どうも思わない」
「なぜ?」
「今でも十分不幸だから。これ以上どうなろうと構わない」
不思議なことに、京平の表情は言葉を発する毎に淀んでゆく。
そして、よく晴れた空模様とは正反対に、完全に曇り切った瞳でくろりの目を見つめた。
「用がないなら帰ってくれ。執筆の邪魔だ」
「京平は作家さんだったのね。凄い」
「作家志望だ。目下途中だ」
「また韻を踏んだ。今度のはわざとね」
「……関係ない」
京平は頭をボリボリと掻きむしりながら、網戸を開ける。
その背中を追って、くろりも靴を脱ぎ、京平の部屋へ足を踏み入れた。
「なんだ。なぜ入ってくる」
「京平の書いた小説を読ませて?」
「駄目だ。見せるほどの作品はまだ無い」
「あら、そう。ならお隣さんに聞こえるくらいの、大きな悲鳴を上げてしまおうかしら」
「……言っとくが、素人の書いたくだらない小説だぞ。期待はするな」
「結構です」
くろりは差していたこうもり傘を綺麗に閉じ、それを大事そうに抱えたまま辺りを見渡した。
広さ6畳ほどの洋室。部屋の隅には大きめの机と、その上にはパソコンのディスプレイやキーボード、マウスなどが置かれていた。
何となく小説家というと、万年筆を持って紙の原稿に書いているイメージがあったくろりは、この光景に少し驚いた。
京平が机の引き出しからタブレット端末を取り出す。
その画面には、所謂ビューアアプリが起動されており、「不幸探しは蜜の味」というタイトルの小説が表示されていた。
著者名は「ナナシの権平」。
「これが俺の書いた小説だ。短編だが、まともに最後まで書き上げたのはこれしかない」
「なるほど。拝見」
くろりは目にも止まらぬ速さでページをスクロールし、50ページほどの小説を1分足らずで読み終えた。
その速読っぷりに京平は驚くことはなかれど、くろりに問う。
「今のでちゃんと内容を理解できたのか」
「ええ。私、文字の早読みには少々覚えがあるの。何なら小説の内容を一語一句、諳んじてみせましょうか」
「結構だ」
「”ああ、ヒトの不幸は十人十色。わたしは知っている。あなたの不幸はまだ苦い。その実が熟すまで、わたしは何十年何百年何億年でも待っていよう。いつの日にか、あなたの不幸の実から蠱惑の蜜がしたたり落ちるまで。故に、わたしは”……」
「もういい。十分だ。お前に読ませたのは明らかな間違いだった」
京平はくろりの手からタブレットを回収し、元の位置へ戻す。
そして、布張りの椅子に腰を下ろすと、パソコンの電源を入れ、静かにキーボードを叩き始めた。
静寂の中に京平の奏でるタイピング音だけがこだますること、実に15分。
執筆に集中する京平の背中を見守っていたくろりが、囁くように述べる。
「……素敵な物語だった。特に主人公の”わたし”が、”あなた”の不幸をその身に引き受けて死にゆくラストは、儚くも美しかった」
「お世辞は受け付けない」
「京平がそう思うのなら、きっと今の私の読書感想文はお世辞ね。忘れて」
ふたたび、京平とくろりの間に沈黙の境界線が引かれる。
二人の間を隔てるそれは、ベルリンの壁よりも高く、万里の長城よりも長いものであった。
それから、京平の部屋の壁に掛けられた時計の針は、引っ切り無しに時を刻んでゆき、やがては窓の外の景色も完全に暗転した。
19時45分。突如、若き小説家は執筆の手を止め、椅子から立ち上がった。
京平は洗面所で手を洗い、キッチンへ移動した。
横に視線をやると、相変わらず黒いこうもり傘を抱えたくろりが、ピッタリと後を付いてきている。
「なんだ。俺はこれから料理をする。見ていてもつまらないぞ」
「料理は好き?」
「別に。ウチは両親が共働きで夜遅いから、俺が三人分の夕飯を作ることになってる。だが料理は嫌いだ」
「嫌いなのに無理してやる必要はないんじゃない?」
「そうもいかない。俺みたいなパラサイトはこれくらい義務みたいなもんだ」
「私は料理、けっこう得意なんだ。なんだったら代わってあげようか」
「……助かる」
ジューッ、と。フライパンで何かを炒める音と焦がしバターの香り。
新たな物語の構想を練る京平の元に、食欲を誘うような音と香りが届く。
だが。それでも京平は脇目も振らず、ただひたすら創作に没頭していた。
「簡単なものだけど、どうぞ。ナナシの権平先生」
そう言ってくろりが京平の部屋に持ってきたのは、この短時間と冷蔵庫にある余り物で作ったものとは思えぬクオリティの品々だった。
濃厚なバターのコクと檸檬のサッパリとした風味のバランスが絶妙な、鮭のムニエル。
コンソメベースの味付けの中にベーコンの塩気と玉ねぎの甘味が見事に調和した、オニオンスープ。
くろり特製のフレンチドレッシングが素材本来の旨味を引き出している、レタスとトマトのサラダ。
「美味い。どれも俺じゃ作れないような料理ばかりだ」
「お世辞は受け付けない、よ」
「……美味い」
京平はくろりの料理を夢中で食べ続け、10分足らずで平らげてみせた。
自分と京平が食べ終えた食器を持って部屋から出ようとした、その時。
パタパタ、と。
スリッパを履き、こちらへ迫りくる足音が一つ。
「京平?部屋にいるのーー?」
その声の主は、京平の母親である。
食卓に用意された彩とりどりの料理に異変を感じ、我が子の様子を見に来たようだ。
そして、部屋の前に立つとノックもせず、いきなりドアを開けた。
「今日のメニューはやけに手が込んでるわね。誰か来てるの?……あ、もしかして彼女!」
「違う。たまたまレシピ見て作っただけだ」
「ふーん。……でも、確かに誰もいないみたいねぇ。いよいよ京平にもイイ子が見つかったのかと思ったのに」
母は部屋を見渡すと、至極残念そうに肩を落とした。
「早く夕飯を食べてきなよ。せっかくのご馳走が冷める」
「はいはい。それじゃ、京平が腕によりをかけて作ってくれた夜ご飯。いただいてきます♪」
そのまま上機嫌で踵を返した母の足音は、程なくして遠ざかっていった。
すると、部屋の天井を仰いだ京平の視線の先には。
漆黒のこうもり傘を開いたくろりが、天井を床に、床を天井に。天地逆さまの状態で佇んでいた。
「もういいだろう。降りてこい」
「京平も逆さになってみる?なにか新しいアイデアが閃くかも」
「遠慮しておく。頭に血が上るのは勘弁だ」
天井(くろりから見ると下側)に向けて傘をひっくり返すと、くろりの体は緩やかに下降を始めた。
程なくして、くろりは京平が立っているのと同じ床面に着地した。
普通の人間なら、この人知を超えた少女の振る舞いに開いた口が塞がらないところだが、京平は”普通の人間”ではなかった。
相変わらずの涼し気な面持ちで、くろりの天井からの帰還を迎える。
「便利な傘だな」
「それだけ?……やっぱり、京平は不思議な人だね」
「興味がないだけだ。得体の知れないものを理解するのは不可能だし、そうしようとも思わない」
「私は、”得体の知れないもの”ってこと?」
「そうだ」
現在時刻は午前零時手前。くろりは眠たそうに両目を擦る。
この少女はまるで蝙蝠のような特性を持っていながら、決して夜行性ということではないらしい。
「私はどこで寝ればいい?やっぱり天井?」
「泊っていくつもりか」
「だってもう外は真っ暗じゃない。それともこんな夜中に少女を一人、追い出すつもりかしら」
「分かった。それならベッドを使え。俺は床に布団を敷く」
京平はクローゼットの中から幼い頃、保育園で使用していた昼寝用の布団を取り出した。
ややサイズが小さいものの、何とか横になれる程度の面積は確保できる。
「本当に私がベッドで寝ていいの?」
「構わない。別に俺はどこでも寝れる」
「ふうん。どこでも寝れるなんて羨ましいな」
「……」
「あれ?京平?……もしかして、もう寝ちゃったの?」
「……」
すぐ近くに年頃の少女が寝ていても、普段と何ら変わらず底座に眠りにつける。
それが感情のない小説家、ナナシの権平こと永篠京平であった。
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…………。
「どこだ、ここ」
京平が目を覚ますと、そこは廃墟のような場所。いや、実際そこは廃墟であった。
すっかり錆びついて半壊した椅子や机。至る箇所に亀裂が入ったボロボロの壁。
上に目線をやれば、そこには壁面と同じく亀裂が走り、今にも崩れ落ちてきそうな天井があった。
そんな天井から、こうもり傘を開いて、逆さまの状態でぶら下がっていたのは。
「おはよう、京平。よく眠れた?」
「くろり。ここはどこだ」
「あれ?憶えていないの。京平にとって、すごく思い出深い場所だよ」
そう言われ、京平は今一度、廃墟の中を見渡した。
金属製の事務机の上に置かれた革張りの分厚い名簿帳。
木製の床に散乱したウサギのぬいぐるみや特撮ヒーローのソフビ人形。
子供の落書きが描かれた四つ切サイズの画用紙。
すべて。すべて。すべてに見覚えがある。
「ここは大窟保育園……。俺がガキの頃に通ってた所だ」
京平の脳裏に蘇ってきたのは、幼い頃の古くも鮮明な記憶。
決して忘れはしない、忘れることのできない暗鬱な記憶だった。
「お前か。俺をこんな場所へ連れてきたのは」
「おやおや、珍しく怒ってる?」
「……別に。お前なら寝ている俺をこっそり運ぶくらい、造作もないことなのは分かっている。それより聞きたいのは、何故ここへ連れてきたのか、ということだ」
「京平に過去を乗り越えてほしいからだよ」
くろりは迷いなく、キッパリと言い切ってみせる。
そして、傘を片手に天井から降りてきたくろりは、京平と対峙した。
「お前は俺の過去を知っているのか」
「ええ。昨日京平が寝た後、お母さんに聞いたの」
「母さんに」
「あ、お父さんにも会ったんだ。二人ともすごくいい人だった。京平のこと、心の底から愛してるんだね」
「……今は関係ない」
「それもそうね。今は京平の過去についての話をしなくちゃ。17年前、当時5歳だったあなたが経験した壮絶な過去について」
「やめろ」
「なぜ?」
「思い出したくないからだ」
「それは無理。私があなたの前に現れた時点で、こうなることはすでに決まっていたもの」
「なるほど。お前と出会った人たちが皆口を揃えて、”出会うと忽ち不幸になる”と言った意味がようやく今分かった」
「そう。もう手遅れなの」
くろりは一体どこから取り出したのか、一冊の雑誌を京平の眼前に突き付けた。
「週刊春々、2006年10月号。この大窟保育園で起こった虐待事件についての記事が掲載されてる」
「お前、それ一体どこから持ってきた」
「どこからって……。京平の部屋からに決まってるじゃない。エッチな本の間に挟んであったよ?」
「適当を言うな。俺はそういった類の本は好かない」
京平は思わず、くろりの冗談に反応してしまう。
それを聞いたくろりは、悪戯っぽく目尻を細めてみせた。
「実はまだ読んでないの。では、拝見」
くろりは週刊誌の1ページ目を開くと、抜く手も見せず次々とページを捲っていった。
あっという間に最終ページまで読み終えたくろりは、あらためて京平の方へ向き直った。
そして……。
『今からおよそ二年前、2004年の秋頃から、大窟洋子元園長の園児Aに対する虐待行為は始まった。』
突如として、京平の頭の中に不快な音が響く。
それは、記事の内容を滔々と読み上げるくろりの声だった。
それは、耳から入ってくるのではなく、まるで直接脳内に流れ込んできているようだった。
『同保育園に勤務する、保育士Bさんの話によれば、』
「やめてくれ」
『園児Aは何度も”助けて”と叫んだが、』
「やめろ、やめろ、」
『大窟園長は構わずAの体に冷水を浴びせ続けていたという。』
「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、」
『そして、2006年4月15日。大窟園長は園児Aの腹部を』
「やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめろ………やめろーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!」
刹那。
京平とくろりの間に流れる刻は、たしかに静止した。
じわりじわり、と。
くろりの腹部に真っ赤な血潮の海が広がっていく。
どくどくどくどくどくどくどく、と。
京平の心音は激しく姦しく。
「あ、ああ……」
『……くだもの……ないふ……で……さっしょうし……た』
カラン、と。
血の滴る果物ナイフが京平の手から抜け落ちた。
「俺は、なにを……?」
紅く染まった自分の手に震えが止まらない。
「これで……よかっ……た……んだよ……」
穏やかな微笑を浮かべたくろりの、冷たい手が京平の手をそっと包んだ。
ずっと忘れたいと願っていた過去の記憶。
その全てがハッキリくっきりと思い出されていく。
大窟園長に”矯正”と称して与えられた、体罰の数々。
食事を残したが故に真冬の凍てつく体にかけられた水の冷たさと、”園長お気に入りの子”を傷つけたが故に刺された腹部の痛み。
忘れたいと願い続けても、永遠に消えることはない。
苦しみの記憶。
が、故に。
「なぜ…?どうして俺の過去を再生した!このままじゃ、俺ばかりかお前まで苦しむことになるんだぞ!それも、永遠に!」
相変わらず微笑みの表情を崩さないくろり。
京平は無性に腹が立って、でも哀しくて。あるいは、愛おしくて。
「良かった…京平の”心”が見れて…」
「…なんだよ、それ」
「私みたいに……この傘をさして…きょう…へい…」
やはり最後まで微笑を湛えながら、くろりは虚空へと消えていった。
気がつけば、足元に飛び散っていた紅色も跡形もなく消えていた。
残ったのは、”かつて園児たちの遊び場だった場所”だけ。
「どう使えってんだ、こんな傘」
大窟保育園の正門前。
くろりから託されたこうもり傘を手に、京平は天を仰いだ。
生ぬるい風が吹く。
幾重にも雲が重なり、天道さまなど微塵も見えない曇天。
軽く足踏みをしてから、勢いよくこうもり傘を開く。
すると、京平の体は風に吹かれた綿毛のように、静かに天高く舞い上がった。
「…なんだよ、これ」
いま、京平の目にはすべてのものが天地逆さまに映っていた。
どうすれば向きを操れるのかもわからない。
ただ、風に流されるがままに。
「やはり…頭に血がのぼるのは勘弁してほしい、な」