Azure Blue (友情)―― あの音があった日々
修司は今日も仕事に追われていた。
夜のオフィスに、蛍光灯の白い光だけが残っている。
時計の針はすでに午後九時を回っていた。
資料の山に埋もれた修司は、締め切りに追われる案件を一人で処理していた。
キーボードを打つ指は重く、目は乾ききっている。
隣の席では若手社員が、楽しそうに明日の飲み会の話をしながら先に帰っていった。
気づけば、自分だけが残された静かな無機質な空間。
ふと、窓の外の夜景に視線を向ける。
ガラスに映る自分の顔は、疲れた三十代の男のものだった。
そのとき、不意に思い出す。
大学の屋上、夕暮れの空の下で、あかりと缶コーヒーを飲みながら話したあの時間を。
『今は、こうして音を出していられるだけで幸せだなって思うの』
耳の奥で、あかりの声が蘇る。
胸の奥で、何かがきゅっと締め付けられた。
─あの頃、俺は何を夢見てたんだっけ。
音楽で生きて、仲間と笑い合って……
でも今は、こんな深夜のオフィスで、ため息をつく大人になっている。
修司はゆっくりと深呼吸をして、背もたれに体を預けた。
そして、自分に問いかける。
「……あかりは、今の俺を見て、なんて言うんだろうな」
小さく笑い、再び机に向き直る。
やらなければいけない仕事は、まだ山ほどある。
それでも、心の奥底であの日の音楽が微かに響き、彼を支えていた。
深夜、アパートのドアを静かに開け、帰宅する。
部屋は冷え切っていて、暗闇の中に自分だけが取り残されたような気がした。
スーツを脱ぎ捨て、シャワーを浴びると、少しだけ心が軽くなる。
何となく机の上に置いたノートパソコンを開くと、外付けのハードディスクが目に入った。
「……懐かしいな」
久しぶりにフォルダを開くと、大学時代の写真や動画がぎっしり詰まっている。
再生ボタンを押すと、画面いっぱいに映し出されたのは、夏の青空の下、湖畔の合宿所で笑う自分と仲間たちの姿だった。
ビール片手に騒ぐカズ、ドラムのマコトが水鉄砲でふざけている。
そして、キーボードの前で微笑むあかり──
修司は息をのんだ。
モニター越しに、あのときの風の匂いや、夕暮れに染まった湖面のきらめきまでもがよみがえる。
その映像の中で、あかりがふとカメラの方を向き、手を振った。
『修司、ちゃんと撮れてる?』
『大丈夫…なはず』
2人は笑い合っていた。
その声が部屋の静けさに溶けると、胸の奥がきゅうっと締め付けられた。
─俺、あの頃から何か変われたのか?
音楽で生きていく夢を手放して、こんな夜中に仕事の疲れを引きずって……。
机に置かれた缶ビールを開け、ひと口だけ口に含む。
すると、不思議と胸の奥から熱がこみあげてきた。
映像の中で、若い自分が笑っている。
あかりが隣で、楽しそうに鍵盤を叩いている。
─まだ終わっちゃいない。
あの頃の俺は、確かにここにいる。
修司はモニターを見つめながら、静かに決意を固める。
次のバンド練習では、もっと本気で音を鳴らそう。
仕事に追われるだけの日々に、このまま埋もれるわけにはいかない。
大学4年の夏。この夏は特別だった。
音楽サークルの夏合宿は、湖畔のペンションを貸し切って行われた。
昼はバーベキュー、夜はひたすら練習。合間に湖に行き、誰かが持ってきた
花火をして、酒に酔っては恋バナで騒いだ。
その年、修司たちのバンド“film ”は、1か月後に控えた学祭でのトリを任されていた。
誰もが手ごたえを感じ、プロを夢見ていた。
未来は、まだ“これから選べるもの”だった。
「よーし、次、新曲ね!」
ドラムのカズが声を上げる。
あかりはピアノの前に座り、ベースの村上はヘッドフォンを外して立ち上がった。
「テンポ、前より少し遅めにしようか」
「B メロ、ハモりつけたいな」
「じゃあ俺もコーラスいくよ!」
みんなが真剣な顔をしながらも、笑っていた。
“この曲が、バンドの代表曲になる”
そんな予感が、全員の胸にあった。
修司はギターを構えながら、ふと視線を感じた。
あかりが、静かにこちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼女は微笑んだ。
“この時間は、永遠じゃない”
その微笑みに、どこかそんな影が混ざっていたのを、修司は今になって思い出す。
⸻9月。
学祭まであと1週間。合宿以降、あかりがふと、練習に来なくなった。
理由は言わなかった。
みんな忙しい時期だったし、卒業も控え,進路の話もちらほら出始めていた。実際に学祭が終わったら卒論と内定をもらっていないやつは最後の就職活動で追われることになる。メンバーも多くは言わないが、内定をもらっているものもいた。
「…最近、あかりどうしたんだろうな。ライブも近いのに」
「なんか、就職活動はしないって言っていたけど」
「またふらっと戻ってくるだろ。あいつ、そういうとこあるしな」
笑いながらも、どこか誰もが不安だった。
そして、彼女は消えた。
LINE は既読にならず、大学にも来ていなかった。
しばらくしてアパートを訪ねたが、引き払った後だった。卒業は卒論を残すだけといっていたからおそらく卒業はできるのだろう。
学祭まであと二日。その日、スタジオに残った四人は、しばらく何も言えなかった。
修司がギターを抱えて口を開いた。
「… “Azure Blue ”、やめようか」
「… 」
「いや、やろうよ」
最初に口を開いたのは、ベースの村上だった。
「お前が作った曲だろ。それに… あいつの書いた詞だ。少しでもできているなら残したい」
「… わかった」
学校祭当日、“Azure Blue ”はワンフレーズだけの歌詞と残りはインストゥルメンタルとして学祭で演奏された。
歌詞のないその旋律は、切なく、眩しく、そしてどこか“失った何か”の欠片を、聴く者に残した。