Azure Blue (回想)―― ふたりで紡いだ音
「そこ、A じゃなくてA ♭なんじゃない?」
あかりの声が、練習室の空気に溶ける。
古びたアップライトピアノの前に腰かけた彼女が、修司の譜面を覗き込んで
いた。
「… あ、ほんとだ」
修司は苦笑いしながら、アコギのネックを見つめ直す。
「でもさ、A ♭にしちゃうとサビが弱くなる気がして」
「うーん、わかる。じゃあ、ここだけ変える?それとも全部下げる?」
あかりは立ち上がり、手のひらでリズムを刻みながら口ずさむ。
「“明日はアジュール、アジュールブルー”… って、ここで転調するのもありかもね」
夕方、大学の音楽棟の防音になっている地下。ドラムを使うバンドだけ使用を許可される部屋だ。
窓もない小さなスタジオに、修司とあかりの声と楽器の音が、まるで生き物のように行き交う。そのやり取りが日課になっていた。
他のメンバーはまだ来ておらず、2人きりの時間だった。
当時の修司は、作曲の才能に少しだけ自信があった。
けれど、詞を書くのは苦手だった。感情を言葉にすることが、どうしても恥ずかしかった。
代わりにあかりは、誰よりも自然に詩を書けた。
メロディが浮かぶと、迷いなく紙に言葉を綴っていく。
「これさ、“Azure Blue ”ってタイトル、どう?」
あかりがそう言ったとき、修司はドキッとした。
「アジュール?」
「そう。空の青。海の青。だけどただの青じゃないんだよ。時間の色なの。」
「時間の色…?」
「夕暮れでも、夜明けでもない… その間の、切ない一瞬の青。」
「… あぁ、わかるかも。いいね。」
「でしょ。だからさ、この曲、終わりじゃなくて“続いていく感じ”にしたいなって思ったの。」
2人で作った音。
2人で削った言葉。
意見がぶつかって、黙り込むこともあった。
でも、音楽だけは、常に二人の真ん中にあった。
アレンジを一緒にするバンドの仲間たちも、それぞれに個性があって面白かった。
だけど、曲の芯を作っていたのは、やっぱりあかりと修司だった。
演奏よりも先に、ふたりの静かな時間が、すべてのはじまりだった。
ある夜、練習の帰り道。
大学の坂を下りながら、あかりがぽつりとつぶやいた。
「修司さ、将来も音楽やると思う?」
「そうだな・・うん、やる。絶対、プロになる」
修司は迷いなく言った。そう、あの頃は信じ切っていた。
すると、あかりは少しだけ黙ってから、笑った。
「… じゃあ、私もやるかな。どこまでいけるか、やってみたいな」
その笑顔は、彼女らしくなく少し不安げで、でも、どこか決意に満ちていた。
「できれば、修司と一緒に」
「ん・・?ごめん何?」
修司は曲の構想を考えて、最後まで話を聞いていなかった。
「ううん。何でもない」
あかりは笑って、おどけたように足早に修司の前を通り過ぎて行く。
その時は、彼女がこの先いなくなることなんて想像もしていなかった。
そして「Azure Blue 」の制作が止まることになることも。
それから10年―― 。
修司はあの日の記憶を、ギターを抱えたまま反芻していた。
完成できなかったあの曲。
続けられなかったあの夢。
でも、まだ終わっていない気がするのは、きっと彼女の“あの時の顔”が、今もずっと、自分の中に焼きついているからだ。
時間の色。あの日と今日を繋ぐ、青の記憶。すべてを思い出せる。
朝の通勤ラッシュに揺られながら、修司は目を閉じた。耳に差し込んだイヤフォンの中からは、ただ無音が流れていた。
いつからだろう。音楽を聴かなくなったのは。かつてはあれほど夢中になっていたのに。
「今さら音楽なんて、やっている場合じゃない」
誰に言い訳しているのかもわからなかった。
仕事が忙しい。納期が迫っている。会議が詰まっている。
それらを理由に、ギターはケースの中に仕舞われたまま、押し入れの奥に置かれている。触れたくないわけじゃない。ただ、触れたときに胸の奥からこぼれ落ちてきそうな何かが怖かった。それでも、仕舞い込んでいた思いを捨てきれず、夜中に誰に言い訳する訳でもなく「暇つぶし」とうそぶいて奏でることはあった。
会社に着くと、すぐにチームミーティングが始まった。次の案件、前期の実績、来週の取引先訪問──
どれも生活にとって大事なはずなのに、心には何ひとつ引っかからない。
ランチタイム。社食でスマホを開くと、SNSのタイムラインに誰かのライブ写真が流れてきた。
ギターを抱えて、仲間たちとステージに立つ笑顔。
思わず画面を閉じる。
「もう、いいんだ。あれは、過去のことだ」
心の中で、そう言い聞かせるたびに胸の奥が軋んだ。
目の前の現実が正しいはずなのに、どこかで空虚さだけが積もっていく。
このまま歳を重ねていけば、音楽なんて自然に忘れていく。
──そう信じようとしていた。