Azure Blue―― 灰色の日々のなかで
朝の通勤電車。
吊り革を握りながら、修司は窓の外をぼんやり眺めていた。
すれ違う電車の中にも、同じような顔が並んでいる。皆、黙って時間に運ばれていく。出版社での仕事は嫌いではなかった。
入社以来ずっと編集部にいて、地味なノンフィクション書籍の編集を主に担当している。部内ではそこそこの信頼もあり、若手から相談を受けることも増えた。
だが、心の奥でいつも思ってしまう―― 「こんなはずじゃなかった」
昼休み、ビルの屋上で缶コーヒーを飲む。
自販機の前で立ち止まり、つい音楽雑誌の広告に目が行く。
「新世代のシンガーソングライター、衝撃のメジャーデビュー」
そんな見出しに、胸がざわつく。
何年も前に買ったままもう旧型になったデジタルのMTR (マルチトラックレコーダー)、埃をかぶったエフェクター。
書きかけの歌詞ノート。
思い出の残骸は、部屋の片隅で時間に押し流されながらも、まだそこにある。音楽は、もう自分にとって“やらない理由”ばかりが先に立つ存在になっていた。
若いころは勢いだけで、ライブも深夜のスタジオ練習も当たり前だった。
でも今は、休みの日は体を休めるだけで終わり、作業は頭では浮かんでも、体や指が動かない。
「今さらやってどうするんだよ」
「この歳で音楽って、誰が求めているんだ?」自問自答する。
でも、それでも。
帰り道、イヤフォンの中で鳴る昔のデモ音源。
ギターと重ねた自分の声。そして、あかりのコーラス。
あの日の空気が、一気に胸を締め付ける。
諦めた夢なのに、まだどこかで燃えている。
ある日、若手の社員から企画会議の後で声をかけられる。
「田口さん、音楽好きでしたよね。実は僕バンド組んでいるんですよ。来月ライブやるんです。もしよかったら来てください」
そう言われて、スケジュール帳を確認するふりをして、心を落ち着ける。
「… ああ、うん。空いていたら行くよ」
なんでもないふりをしても、心の中ではざわつきが止まらない。
羨ましさ、悔しさ、そして、かすかな希望。
帰ってからもなぜか眠れなかった。修司はその夜、久しぶりに押し入れの奥からギターケースを引っ張り出した。
埃を払って、そっと弦を鳴らす。
“ジャラ… ”
音は思ったよりも鳴った。
鳴った音に、鳴ったマイナーコードに少し泣きたくなった。
しばらくして、修司はパソコンを開いて、古い書きかけのファイルを探した。
『Azure Blue 』
未完成の、でも心から作りたいと思える初めての曲。
彼女の残した断片。
そして、自分の人生そのもの。
過ぎていく日々に意味を持たせるために、何かを“始める”のは、決して遅くない。
そう信じたいと思った。