Azure Blue (リハーサル)―― また音を鳴らせるという奇跡
三月の終わり。
風がまだ冷たい午後、都内の古びたスタジオに、おなじみの足音が集まりはじめた。
あの日以降、本格的にメンバーは練習を再開して、ライブに向けて練習を重ねてきていた。
「おーい、まだ入っていい時間か?」
「修司ー!ピック忘れたから貸してくれ」
「… お前、本当に変わらねえな」
ドラムの中村カズは営業職で声がやたらでかくなっていた。
村上タケシは今や2児の父で、少し髪が薄くなったが、教師であるが、相変わらずの職人肌だった。
ギターの坂田ユウスケは地方勤務を終えて東京に戻ってきたばかりで、バンドとして音を合わせるのは実に10年ぶり。
奇跡的に4人がそろった。
もう一人、バンド再開を聞きつけて、大学時代サークルの別バンドでボーカルをしていた小沢コウタも遊びに来ていた。
「いいなぁ。俺も仲間に入れてくれよ」
「お前楽器弾けないだろ」
みんなが笑っていた。
宴会部長の小沢は楽器こそ弾けないが、とにかく盛り上げるのがうまい。そこにいるだけで場が盛り上がる。
「せっかくだから一曲コーラスやってくれ」
と言って、カバー曲を一緒に歌うことにした。
スタジオにアンプの音が広がる。
修司はギターを構えながら、心臓の鼓動が早くなるのを感じていた。
(... 本当にできるのか?まだ俺は歌えるのか?)
いつもセッションの最初の曲は、懐かしいピロウズのカバーだった。
出だしはぎこちなく、テンポも揃わない。
けれど、2曲目、3曲目と続けるうちに―― 空気が変わっていった。今日は未完成のあの曲を完成させる日だった。
“音が、会話を始めた。”
タケシのベースが前に出る。
カズのドラムがそのリズムに呼応する。
ユウスケのギターが、かつての鋭さを取り戻す。
そして、修司が歌い出す。
「このままいられないんだろ... 」
スタジオの空気が一瞬、止まったように感じた。
仲間たちの視線が、音が、彼に集まる。
歌詞の原型は変わっていない。
でも、10年前と違っていた。
“時間”が、歌に厚みを与えていた。
サビを終えたあと、カズが小さく手を挙げた。
「ちょっと止めて… さ、最高じゃん」
「… 俺、鳥肌立ったわ」
村上が言い、ユウスケが静かに頷く。
修司は、小さく息を吐いた。
泣きそうになっていたのをごまかすために。
「… まだ、本番じゃないけどな」
「いや、すごいよ!」
小沢も大げさにはしゃいでいる。
「いや、もう一回最初からやろう。今の空気、ちゃんと掴みたい」
カズの提案に、全員が笑顔でうなずく。
4人で向き合って音を鳴らす。
かつての日々には戻れないけれど、
“今”の自分たちが、確かにここにいる。
休憩中、缶コーヒーを片手に、ユウスケがふと口にした。
「… なあ、あいつ。あかりのことだけど」
修司は振り向いた。
「あかり、今どうしてるのかな」
タケシも加わる。
修司は少し間を置いてから、口を開いた。
「… まだわからない。連絡は取れてない。でも、あの曲は、あいつの詞で、俺のメロディだ。それだけはずっと残っているよ」
静かな沈黙。
けれど、それは“あたたかい間”だった。
「よし!終わったら飲みに行こうな」
「おまえ、またそれかよ」
小沢の茶化しで、笑いが起こる。
そして、再び始まるリハーサル。
本番まで、カウントダウンすることにしよう―― その日のうちに、メンバーでライブをすること決めた。4月にはやろう。何かを誓うように。
音楽は、過去と未来をつなぎはじめていた。
「お疲れー! 久々にいい音出せたな!」
カズがグラスを掲げ、ジョッキをカチンと合わせた。焼き鳥の煙とビールの泡。休日の夜に、懐かしい匂いが混ざってゆく。
「もうさ、あの頃のテンションには戻れないと思ってたんだけど。今日のリズム、案外ハマってたよな?」
「歳取った分、力が抜けてるのかもな。昔みたいにがむしゃらじゃないぶん、音が馴染んでたのかも。」
ギターのユウスケが苦笑しながら、ネギマをかじった。店内には他にも学生らしきグループの笑い声が響いている。なんとなく、あの頃の自分たちを見ているような気がした。
「でさ、最近どうよ? 仕事とか、家庭とか。」
話題を振ったのはカズだった。酔いの回った顔に、少しだけ探るような表情が混じっている。
「……まあ、なんとか。淡々とこなしてる感じかな。」
修司はビールをひと口飲んだ。言葉を選びながらも、どこか正直になりたくなっていた。
「でも、たまに思うんだよね。このまま、ちゃんと老けていけるのかなって。何かを諦めたまま、大人になった気になってないかって。」
カズもユウスケも、黙って頷いた。その沈黙は、若さを捨てきれないまま過ぎた時間を、それぞれが思い出していた証のようだった。
「今日みたいにさ、音を鳴らしてると、時間が巻き戻る気がするんだよな。全部、あのときのままっていうか……」
「いや、巻き戻ってないよ。」
ぽつりと村上が言った。
「それぞれ、いろんなもん失くしたり、手に入れたりしてる。それが音に出てる。今日のセッションがいい感じだったのは、昔に戻ったからじゃなくて、今の俺らだからだろ。」
その言葉に、修司は少しだけ胸が軽くなるのを感じた。
「まあ、とにかく飲もうぜ!」
場がしらけてはいけないと、小沢が一生懸命身振り手振りを交えながら盛り上げていた。それは彼のやさしさだろう。
それをみながら全員が爆笑する。
このままじゃいけない、って思っていた。でも――このままでも、少しずつでも、前には進んでいるのかもしれない。そう思えた夜だった。