Azure Blue―エピソード:仕事とあかり
週明けのオフィスには、セッションの熱が嘘のような冷たい空気が漂っていた。
月曜の朝の定例会議。案件のプレゼンを任されていたが、うまく話せなかった。頭の中では言葉が並んでいたはずなのに、いざとなると、資料の数字ばかりを読み上げていた。
「正直、方向性がぼやけているよね」
「結局、何をやりたいのかが見えないかな」
上司と若手の間で交わされる会話が、自分を素通りしていく。かつては自分も、そうやって前に出る側だった。意見をぶつけ、空気を揺らし、自分の存在を示そうとしていた。
今はどうだ?何も響かない。響かせられない。結局その日は無気力のまま、残りの雑務を淡々とこなして終わった。まともな会話すらないままに。
定時間際、修司は午前からの失敗続きのプレゼン資料の修正に追われていた。要望が後から後から出てきて、まとめていた提案書はまた白紙に戻る。若手の勢いに圧され、自分がいる意味を見失いかけていた。
夕方。薄い水色のワイシャツの袖をたくし上げ、自席でため息をついた瞬間、背後から声がかかった。
「田口くん、ちょっと時間あるか?」
見ると、片山課長だった。五十代半ば、いつも穏やかで部下の話をよく聞く上司だ。
「……はい、大丈夫です」
連れていかれたのはオフィスの片隅にある給湯室。紙コップのコーヒーを二つ取り、片山が一つを差し出してくれた。
「ちょっと顔に疲れが出てるな。大丈夫かい?」
「……すみません。プレゼンやら何やらと、色々、思うようにいかなくて」
修司は、何故か片山に話したくて,頭を掻きながらぼそりと答えた。
「俺、昔バンドやってたんですよ。今もたまに、昔の仲間と集まって演奏してて。でも……仕事に戻ると、途端に自信がなくなるんです。若い子の勢いにも押されて、自分には何も残ってないんじゃないかって」
片山は少し驚いたように目を見開いた後、にやりと笑った。
「……なんだ、君も音楽やってたのか」
「えっ?…と言うと課長も?」
「実は私も若い頃、ギターでジャズのバンドやっててね。今もたまに週末、仲間とセッションしてる。もう指は動かないけど、音に触れてると、いろんなことがどうでもよくなる」
そう言って、片山は一口コーヒーをすすった。
「…確かに、仕事ってうまくいかないことも多い。でもさ、音楽だって一緒じゃないか? 一度のセッションで全てが決まるわけじゃない。何度も合わせて、ズレを感じて、修正して…それでも、また音を重ねようとする。そこに価値があるんじゃないか?」
修司は何も言えず、黙ってコーヒーを見つめた。
「君が音楽を続けてるってことは、まだ”響かせたい何か”が残ってるってことだろ? 仕事も同じさ。若い連中が速く走ってるように見えても、君にしか出せない”音”があるんだよ。焦らなくていい」
その言葉が、心の奥にじんわりと染みた。
「…ありがとうございます」
短く答えた修司の声は、少しだけ前を向いていた。
片山のさりげない一言が、修司にとって音楽と向き合う勇気や、仕事でも自分を信じるきっかけとなった。
夜になり、ビルのエントランスを出ると、まだ残っていた熱気が一気に冷めた。
ビジネス街を抜ける細い裏道を歩きながら、ふと、肩にかけた通勤バッグではなく、クローゼットの奥に眠るギターケースの感触を思い出す。
── 俺は、あの頃から何か変われたのか?
路地裏のコンビニに入って、缶ビールを一本だけ買った。飲むつもりもなかったけれど、何かを流したかった。セッションで手応えを感じたはずなのに、
現実の自分は何一つ変わっていないような気がしていた。
だけど、耳の奥であの日の音が鳴っている。
カズのドラム、ユウスケのギター、そして自分の指先が奏でたセブンスのコードの重なり。
── まだ、終わってない。終わらせたくない。
そんな思いだけが、心の奥でかすかに灯っていた。
帰宅後、溜まり続けたデータの整理でもしようと、久しぶりにパソコンを立ち上げた。
フォルダの奥の奥。昔の動画データのひとつに、ふと目が止まる。
「2014 年サークルライブ_ 2月」
クリックすると、ザラついた映像が再生された。
ライブハウスの小さなステージ。MC の声。照明の中でキーボードを弾きながら歌うあかりの姿。
『じゃあ、次の曲行きます。私と修司が作った、大事な曲です』
『circle change 』
画面の中で、自分がギターを構えている。緊張していた。だけど、その隣で、あかりがこっちを向いて笑っている。
── そうだ、あの日は本当に、楽しかった。
ソファに身を沈めながら、生ぬるい缶ビールの残りを口に含む。
もう一度、あの頃みたいに笑い合えたら。そう思った。
だけど今の自分に、それができるだろうか?
気がつくと、スマホを手に、無意識にあかりの名前を打ちかけていた。けれど、途中で止めて、画面を閉じた。
それでも、何かが変わった気がした。
翌朝。曇った空を見上げながら、スタジオの予約ページを開いた。
次の練習日程を決め、仲間に連絡を送る。その一つ一つが面倒でありつつも心地よかった。 ── 俺、もう一回、本気でやるよ。
その一言に、自分の中の体温が徐々にチューニングされるように上がり、リズムが、また静かに鳴りはじめていた。