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Azure Blue―オフィスの窓から

 時計の針が、二十時を少し過ぎた頃だった。

「…すみません、俺の確認ミスです」

 同僚の影山の声が、会議室に低く響いた。緊急対応で巻き込まれたのは、修司を含むチーム全体だった。クライアントからのデータ納品を翌朝一番に控え、訂正作業はゼロからやり直しだ。

「大丈夫だ。急いでみんなで修正をかけよう」

 課長の片山がみんなに語り掛けて、それぞれが動き出す。

 ── まぁ、怒ったところで仕方ない。

 そう自分に言い聞かせながらも、内心は渦巻いていた。今日こそ、早く帰ってギターに触れるつもりだったのに。頭の中で、新しく浮かびかけていたメロディも、どこかへ消えてしまった。

 休憩室の窓際に立ち、缶コーヒーを片手に空を見上げる。夜の都会は静かだ。地上では車が流れ、オフィスビルの明かりが、まばらに瞬いている。


 ── こんな時、あかりならなんて言うだろう。

 ふと浮かんだ彼女の顔。柔らかく、でもはっきりした眼差しで、彼女はきっとこう言うのだろう。

「でも、やるんでしょ?だったら、笑いながらやろうよ」

 決して感情を否定しない。でも、甘やかさない。そんなあかりの声が、今でも胸に残っている。

 ため息を一つついて、残ったコーヒーを飲み干した。

 デスクに戻ると、誰もが文句を言わずにキーボードを叩いていた。背中に、諦めと意地が同居している。

 ── 仕事って、人生って、そういうものかもしれないな。

 ギターのように自由じゃない。でも、不器用でも支え合って、なんとか形にしていく。そんな泥臭さは、きっと音楽と同じだ。

「よし…やるか」

 再びモニターに向かい、軽く背筋を伸ばした後、修司は静かに作業を始めた。少しだけ、気持ちは前を向いていた。

 パソコンの画面を見つめながら、指先だけが慣れたようにキーボードを叩いている。集中しながら、無数の数字を追いながら、ふと胸の奥に懐かしい景色が滲んできた。

 ── それ、ちゃんと“自分の音”になってる?

 どこからか聞こえた気がした。あの声。あかりの、真っ直ぐで少しだけ寂しげな声。

 あの頃、自分はただギターを鳴らすことだけに夢中だった。他人にどう聴こえているかなんて、二の次で。けれども、あかりは違った。彼女の音は、フレーズは、誰かの心をそっと包むようだった。

「…あかりは、わかってたんだな」

 自分が何のために音を鳴らすのか、何を届けたいのか。それを見失っている

 今、彼女の言葉だけがまっすぐ胸に刺さる。

 ── 誰かのせいにしてちゃ、届くもんも届かない。

 それは、確かにあかりが言っていた言葉だった。

 その瞬間、もう一つの記憶が甦る。大学時代、薄暗いスタジオの中。リハーサル後の午後、誰かがコンビニで買ってきたパンを分け合いながら、だらだらと話していた。

 ドラムのカズが言った。

「結局さ、俺らは“好き”だけでここまで来たんだよな。技術も金もなかったけど、楽しかったもんな」

 それを受けて、ベースの村上が静かに笑いながら、

「いや、好きすぎて逆にしんどかったけどな。どっかで逃げたくなってたのは俺だけ?」

「俺もだよ」

 そう言ったのは自分だった。あのときの自分は、自信も不安も混ざっていた。それでも音にしがみついていた。

 でも、あかりだけは、最後まで逃げなかった。

 ── 逃げてたのは、俺のほうだったんだな。

 もう一度ギターを弾きたい。そう思ったのは、きっと今日が初めてじゃない。でも、今日ほどその気持ちが強くなったことはなかった。

 時計の針が、静かに二十二時を回る。

 修司は画面を閉じて、深く息を吐いた。

「…今度、あのスタジオに行ってみようかな」

 かすかに笑みが漏れる。何かが終わったわけじゃない。いや、まだ始まってすらいないのかもしれない。

 ――青い風が、また始まりの音を運んでくる。

 ――僕たちはきっと、もう一度響かせられる。

 ――この音が、君に届く限り。

 修司は心の中でそう呟いた。


 それから数週間、修司は仕事の合間を縫ってギターに触れ、歌詞を書き、アレンジを練った。

 そしてOB 会前のある日、思い切って仲間たちに声をかけた。

「一回だけでもいい。あの曲を完成させて、ライブで演りたいんだ。」

 仲間との大切な再会の場所を単なる懐かしい曲のコピーセッションだけで終わらせたくなかった。

 最初は驚いた面々も、次第にうなずいた。

「やってみようか。俺も、もう一度音を出したくなったよ。」

 その声に、彼は確信した。

 夢は過去のものじゃない。形を変えた今でも、繋がっている。形は変わってもいいんだ。見失わなければ。


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