9.分析
横浜に住むにあたり、横浜ボールパークにも行き易い場所が良いと思っていたので、中学一年まで横浜に住んでいた水野に相談してみた。
彼が住んでいたのは港南区の上茶谷という町で、横浜市の中心より南部に位置している。
最寄りの駅は市営地下鉄の上茶谷駅だったと教えてもらった。
横浜情報工芸大学は横浜市の南西部、藤沢に近い場所にある。
市営地下鉄の終点、湘南林間から路線バスに乗り換えて通える場所にあった。
横浜ボールパークの最寄り駅は関内駅だ。
上茶谷駅は丁度中間あたりの駅で、周辺は住宅地で住み易そうだ。
水野にも縁がある場所だったので、上茶谷駅の近所で住む部屋を決めた。
祖父との約束通り、大学でも野球部に入部した。
自己紹介で、長野県大会の準々決勝で、甲子園でも活躍した佐久穂の青木から二回出塁したことを話したら、一目置かれる存在になった。
まぁその程度のレベルの野球部ということだ。
「横浜の大学」というだけで、港町横浜をイメージしていたのだが、横浜市の南西部は港の雰囲気は全く無く、住宅と畑が混在している感じの場所だ。
大学の敷地は広大で、野球部にも専用グラウンドがある。
地元の野球場を借り上げたらしく、両翼90メートル、センター120メートルの広さを誇る天然芝の球場だ。
まぁ天然芝とは名前ばかりで、半分雑草のようにも見えるが……
外野にスタンドは無く、高さ三メートルほどのネットの向こうは公園だ。
内野には申し訳ない程度の観客席があるが、席と言っても長いベンチシートで、木製だから半分腐っていると思われる。
もっともここで公式戦は行われないので、観客が来ることも無いだろうが……
一塁側と三塁側のベンチも、観客席同様の粗末な木製ベンチだが、屋根があるので腐ってはいないことがせめてもの救いだ。
更衣室とシャワールームだけは、大学が新設してくれたもので清潔感のある立派な建物だ。
球場が多少老朽化しているが、恵まれた環境だと言えよう。
監督は大学の野球部出身の先輩がやっているが、本職は普通の会社員のようだ。
監督はボランティアでやっている様子である。
本格的な監督を雇ってまで野球部を強くする気は無さそうだ。
入学して暫くの間、慣れない一人暮らしや、都会の雰囲気に気圧されて、部屋と大学を往復するだけで毎日疲れてしまっていたが、野球部の仲間と横浜ボールパークに観戦に行くようになって、精神的には少し余裕を持てるようになってきた。
球場に通うにはお金も必要だ。
この頃から生まれて初めてのアルバイトも経験した。
少しだけ大人になった気分だ。
自分で稼いだ金で多城選手のレプリカユニフォームを買った時は嬉しかった。
その後も球場に行く度に、多城選手に関連するグッズを購入して、僕の部屋はドルフィンズのチームカラーの青で埋め尽くされるようになった。
そして、梅雨明けした夏の始まりのある朝、例の不思議な体験をすることになった……
あの朝から何週間かが経過して、前期試験も無事に終了し夏休みになった。
母校・上田染川高校の県大会の予選や、祖父の一周忌は、試験の日程と重なっていたので、帰省することができなかったのだが、とりあえず四ヶ月振りに実家に帰ることにした。
祖父の墓参りをして、大学でも野球部に入部したことを墓前に報告した。
とは言え、環境に慣れることに精一杯で、この四ヶ月間は野球どころではなく、無名の大学野球部なのに、公式戦に出場することもできていない体たらくなのだが……
その足で染川高校の野球部の練習を見に行った。
今年は二回戦で敗退したらしい。
まぁ去年が出来すぎだったのだが、水野が居るのだから二回戦敗退は物足りない感じがした。
激励も兼ねて訪問してみたのだが、意外なコンバートが実施されていた。
新チームのキャプテンに指名されていた水野は、キャッチャーに転向していたのだ。
セカンド一本で勝負する。
と宣言して、僕の提案を受け入れなかったのに、一体何があったのだろうか?
きっかけは堀内監督からの指示だったそうだが、水野自身にも手応えがあったようで、新チームになってから、公式戦は一試合もやっていないのに、かなり自信を持っている様子だった。
あの監督、何も考えていないように見えて、適格な采配をするところがあるので、このコンバートにも深い意味があるに違いない。
水野の自信の根拠として、二人の一年生投手を紹介された。
この二人が抜群に良い投手だと言うのだ。
先ずはエースとして指名された綿田投手の球を受けてみた。
スピードは大したことない。
変化球はカーブが良い。
コントロールは良く、構えたところにしっかり投げてくる。
でも松村と比べるとスケールは小さい。特別凄い投手だとは思えない。
次に控え投手の後藤投手の球を受けてみた。
スピードは大したことない。
変化球はカーブが良い。
コントロールは良く、構えたところにしっかり投げてくる。
って最初に投げた綿田投手とそっくりじゃん。
特別凄い球を投げる訳ではない、似たタイプの二人の投手で何が自信の根拠なのか?
「カズさん、こいつらと一緒にカズさん達の残した成績を超えてみせますよっ」
「お、おぉそうだな。頑張れよ」
とは言ったものの、僕には手応えみたいなものは何も感じられなかった。
それが顔に出ていたのか?
「まぁ見てて下さいよっ」
と、水野は朗らかに練習の輪に戻って行った。
大学の野球部にも夏休みの練習はある。
とは言え高校の頃と違って、自主練習みたいな感じなので、帰省している部員も多く、参加人数は多くはない。
先の春季リーグは六チーム中で四位、入部直後ということもありスタンドから応援していたが、四年生が引退した秋季リーグは、僕もベンチ入りできように頑張らなければ、祖父に顔向けできないし、水野だって頑張っているのに、負ける訳には行かない。
今日もグラウンドを何周かしてヘロヘロになってベンチに戻ってきた。
倒れ込むようにベンチに座ろうとしたところ、何かに反発されるかのようにベンチから転がり落ちた。
あっ、あの時と同じだ!
僕はそ~っと手を伸ばしてベンチに触ろうとしたが、ある距離まで近づくとベンチから反発されてしまい触ることができない。
しかし地面には立っていられるし、この前みたくシャワーを浴びれば治るだろうか?
すぐにシャワーを浴びに行き、再びベンチに戻ってきた。
そっと手を伸ばすと、問題なく触ることができた。
これで二回目なので気のせいではない。
どうするとこうなるのか?
次に同じことが起きたら、もう少し冷静に考えてみよう……
練習を終え、部屋に戻って洗濯物を洗濯機に投げ入れた時、靴下が外れてしまい床に落ちた。
いや、落ちてない!
床に反発されて宙を漂っているではないかっ!
落ち着けっ、今は僕自身は大丈夫だ。
どうしてこうなっているか、冷静に分析するのだっ!
宙に浮いている靴下を掴み、シャワールームの床に置いてみると、反発されることなく床に着いている。
ベッドにも置ける。
床にだけ反発される。
材質だ! 床はフローリングだから木製だ。
大学の球場のベンチも木製だ。
木に反発されるのか?
思い付くまま、キッチンから割り箸とスプーンを持ってきた。
割り箸で靴下を摘まんでみようとしても、蛙が飛ぶように靴下が跳ねる。
スプーンで持ち上げてみると、普通にスプーンに乗っかる。
やはり木材が関係ありそうだ。
そうは言っても今は僕は大丈夫だ。
さっきまで僕が履いていた靴下に何かあるのか?
僕は靴下を顔に近付けてじっくりと観察してみた。
すぐに鼻が曲がるほどの悪臭で顔を歪めた。
分かった! 匂いだっ!
グラウンドを何周も走って汗まみれになった靴下は臭い。
初めてこの体験をした時も、悪夢を見たので汗だくになっていて臭かったに違いないっ。
僕の体臭が木材と反発するのだ。
早速近所のドラッグストアにボディローションなるモノを買いに行った。
ミントの香りだ。
これさえあれば、謎の現象が起きることも無いだろう……
夏休みの間、練習に出掛ける前と、練習後にシャワーを浴びた後にローションを使用した結果、木材に反発される現象は起きなくなった。