始まりの夏
二塁ベース上で一塁側応援席を見上げると、スタンド後方の三才山方面上空に、大きな入道雲が膨らんでいた。
夏の高校野球長野県大会決勝、我々松本中央高校は、創部以来初めての決勝戦を戦っていた。
対戦相手は甲子園常連の名門・松翔学院だ。試合は八回裏終了時点で、5対8で負けている。
九回表最後の攻撃は二アウトまで追い込まれたが、満塁のチャンスを作っている。バッターは一年生ながら四番を打つ、巻秀道だ。
僕は二塁から心の中で巻に無言の声援を送った。
「ヒデミチ、頼んだぞっ! なんとか打ってくれっ! 皆で甲子園に行こうぜっ!」
すると、聞こえるはずのない巻の声が聞こえた気がした。
「任せて下さい大気さんっ! 俺、絶対に打ちますよっ!」
すると全ての動きが何故かスローモーションになった感じがした。ピッチャーの手を離れたボールが、真ん中の甘いコースに吸い込まれて行く。
巻のバットが始動してボールを捉える。カキィーンと綺麗な金属音がした瞬間に、スローモーションは終了し元の空気に戻った。
打球はレフト方向に高々と上がり、場外に消えて行った。
逆転満塁ホームランだっ! 九回裏を凌げば甲子園に行けるっ! そう思ったら足元がフワフワして普通に走れない。何とかホームまで戻って巻を待つ。
もっと嬉しそうな顔をしてベース一周すればいいのに、何か納得行かない顔をしながら巻が戻って来た。
とりあえず僕を含めた塁上に居た三人が、ポカポカ頭を叩きながら祝福して、一塁側のベンチに戻る。巻にもようやく笑顔が溢れた。
しかしその裏、ガチガチに緊張した僕たちは、エラーと四球二つで無死満塁のピンチを招き、次の打者に逆転サヨナラヒットを打たれ、あっさり甲子園への道を絶たれてしまった。
経験豊富な松翔と、初めての甲子園まであと一歩の僕たちとの差が出た結末となった。
僕と巻の出会いは、今から五年前のことになる。
万年最下位球団・横浜ドルフィンズが松本で公式戦を行うことになり、僕は観戦しに行っていたのだ。
その試合で、横浜では唯一の人気選手である多城がホームランを打ったのだ。
その打球が僕に向かって飛んで来た。と思ったのも束の間、落下点に入ったのは小学生だった。
ありゃぁ…… 捕りたかったのに残念。と諦めた瞬間、小学生はグラブの土手に打球を当ててしまい、ボールをはじいてしまった。
その球が偶然僕の方に飛んできて、僕がキャッチすることになった。
捕った瞬間、反射的にボールを高々とかざして、ガッツポーズを作っていた。
周囲のお客さんも拍手で祝福してくれたのだが、ボールをはじいてしまった小学生だけは泣きそうな顔をしていた。
僕もホームランボールは欲しかったのだが、これ以上の悲しみは無い……
って顔をしている小学生が気の毒になり、ボールを譲ってあげることにしたのだった。
程なくして、球場の係員と思われるお兄さんがやってきて小学生に話し掛けた。
「実は、今のホームランが多城選手の通算300号だったんで、ボールを貰いに来たんだ。
代わりに記念品を持ってくるから、そのボールを貰って行くよ」
あぁ…… そうだったんだ。
そんな記念のホームランだったら、譲ってあげないほうが良かったかなぁ……
などと内心後悔の念が湧いてきた。
係員のお兄さんは、小学生からボールを受け取りながら質問を始めた。
「君、名前はなんて言うの?」
「マキヒデミチです」
「将来は何になりたい?」
「プロ野球選手ですっ!」
「そっか。じゃぁ練習頑張らないとなっ。それじゃぁ記念品持って来るから、ここで待っててね」
そう言って内野の方に歩き始めた時、意を決したように小学生が言葉を発した。
「待って下さい。本当はこのお兄さんがキャッチして僕に譲ってくれたんですっ!」
「えっ? あっ、そうなんだ。分かった分かった、二人共ここで待っててね」
しばらくして、係員のお兄さんが戻ってくると、サインボールを二つ持っていた。
小学生のボールには「ヒデミチ君 プロ野球選手になれるよう 頑張れ!」と書かれていた。
僕のボールには「300号を捕ってくれて ありがとう」と書かれていた。
ちぇっ。本当は名前入りのサインボールが良かったなぁ……
などと少し残念な気持ちになっていたが、この日から多城と横浜ドルフィンズを応援することに決めたのだった。
そんな出来事も忘れかけていた高校三年の春、野球部の主将として新入部員を迎え入れていた時に、一際大きな一年生が話し掛けてきた。
「先輩…… 一之瀬先輩って、多城の300号のホームランボールを僕に譲ってくれたお兄さんじゃないですか?」
えっ? こいつがあの時の泣きそうな顔をしていた小学生? と言うか、正直なところ顔はあまり覚えていない。
それよりも、一年生なのに凄くデカい。僕よりも逞しく、既に大人の体格になっているように見えた。
「おっ、おぉ。思い出したよ。あの時の小学生か。名前は何て言うんだっけ?」
「巻秀道です。よろしくお願いしますっ!」
それからすぐに春季大会が始まったのだが、巻の実力は凄まじく、早くも四番打者として定着していた。
巻の打棒で、春季大会をベスト8まで勝ち進み、夏のシード権を得ることができた。
夏の大会では、高校生活に慣れたこともあり、巻の打棒は更に進化して、打率6割、ホームラン5本の活躍でチームを決勝戦まで導くことになったのだ。
主将の僕も一番バッターとして、出塁率7割、盗塁7個を決めてチームに貢献した。
セカンドの巻とショートの僕は、今夏の長野大会では最高の二遊間との評判になった。
決勝戦は残念な結果になったが、僕の高校野球生活に悔い無しっ! さて進路はどうするかなぁ……
長野大会では準優勝だったけれど、巻の活躍によるものだし、僕は全国的には無名の選手だから、ドラフトで指名される可能性なんて無いだろう。
大学に進学して野球を続けてみたいけれど、名の有る大学で通用するのか自信も無いしなぁ……
中堅クラスの大学に野球推薦で入学できたらラッキーかなぁ…… でもその前にダメ元で、プロ志望届けは提出してみようかなぁ。
プロ志望届けを提出すると、大学のスポーツ推薦は時期的に難しくなる。
推薦の締切りはドラフト会議の後なのだが、それは形式的なもので、実際には先にセレクションが行われていて、合格者は九月には決まっているようなものなのだ。
ドラフトされる可能性は限りなく低いので、最初から進学を希望して、スポーツ推薦を狙うほうが現実的なんだろうけど、大学を卒業する時に、プロ野球選手になる為にプロ志望届けを提出するか?
と言われると、それは無理なんじゃないか? と想像できる。
大学を卒業する年齢になって、なれもしないプロ野球選手を夢見ていられるのか?
例えば社会人野球のチームに就職が内定していれば、ドラフトに指名された場合は内定辞退。って約束もできる可能性はあると思う。
でも、そもそも社会人になって野球を続けられるレベルになれるのだろうか?
野球は諦めて一般企業に内定している状態で、記念のためにプロ志望届けを提出する、なんていうのは恥ずかしいだろう。
でも今ならできる。「プロ野球選手になりたいんだっ!」って意思表示をして、ドラフトに指名されなくても、その後に一般入試で大学に進学して野球を続けることも可能なのだ。
そんな思いで、僕はプロ志望届けを提出することにしたのだった。
松本中央高校は県内ではそこそこ上位に進出することもあったが、全国的には無名だと思われる。
今夏は初めて決勝まで進出したのだが、それは巻の活躍によるもので、僕は脇役に過ぎない。
プロのスカウトが僕のことを知ってるとは思えないよなぁ……
と、現実的な考えも持ち合わせているので、夏休みが終わってから、受験勉強も頑張るつもりでいた。
そんな九月のある日、ドルフィンズの野口さんと言うスカウトが学校に来ることになった。
ん~と…… まだ一年生だけど、巻を見にくるんだろう。
などと思ったのだが、どうやら僕と話しをしたいらしいのだっ!
それって、もしかしてドラフトしてくれるってことなんだろうかっ?
そうだよなぁ…… プロ志望届けも出してるし、その上で僕に会いに来るってことは、そう言うことなんだろう。
否が応でも期待は膨らんでしまう。
数日後、その日はやってきた。
「初めまして、横浜ドルフィンズのスカウトをやっている野口です」
そう言って野口さんから名刺を渡された。
「松本中央高校、野球部前主将の一之瀬大気です。宜しくお願いいたします!」
僕は練習した通りに、はきはきと挨拶した。
その後、野口さんは校長先生と部長と監督に挨拶して、本日の本題について話し始めた。
「今年の松本中央高校は素晴らしい結果を出しましたが、最後はちょっと残念でしたね。
その中でもショートを守っていた一之瀬君の活躍は光るものがありました」
「ありがとうございます。でも今年決勝まで進めたのは、巻が打ちまくってくれたからこそで、僕は試合を決めるような活躍はできませんでしたが……」
「いやいや、謙遜しなくていいよ。高校生のスカウトはね、三年生が抜けてからすぐに始まるんだよ。
だから君のことは去年の今頃からマークしていたんだ」
「えっ、そんなに早くから」
「そう。巻君が入学する前から君の事は見ていたんだ。巻君が入学して、チームは大躍進したけれど、それとは関係無しで君個人の能力を高く評価しているんですよ」
「本当ですかっ? ありがとうございます! 凄く嬉しいですっ!」
マジで嬉しかった。その場で踊りだしたいくらい嬉しかった。
「我々ドルフィンズとしては、ショートが補強ポイントになりますので、ご縁があれば指名する可能性があります。 と言うことをお伝えしたかったのが、今日お時間を頂いた趣旨になります。
しかし他球団の指名の動向で、当日にならないとどうなるか分からないのがドラフトですので、必ず指名します。 とは言い切れません。そこのところはご了承願います」
とは言われたものの、スカウトの人と直接こうやって話しをしているだけで、天にも舞い上がるような気持ちになってしまっている。
指名されなかった場合は、大学受験が待っているので、受験勉強もやらなければならないのだが、元々勉強は好きではないし、どうにも集中できそうもないよなぁ……
何とも落ち着かない日々をどうにかやり過ごして、十月下旬のドラフト会議の日がやってきた。
もし指名されれば、松本中央高校から初めてのプロ野球選手の誕生ということになる。
学校の配慮で、視聴覚室でテレビ中継を観られるように準備してくれた。
野球部関係者が固唾を呑んでテレビ画面に注目している中、ドラフト会議は淡々と進行して行く。
まぁ上位指名されるはずはないので、一巡目から三巡目は他人事のように傍観することができた。
四巡目…… もしかしたら呼ばれるかもしれない。そう思うと何か息が苦しくなってきたが、呼ばれることはなかった。
五巡目…… そろそろ呼ばれないとヤバい。僕とは関係なく指名自体を終わらせる可能性もある……
息が苦しいだけではなく、何やら吐き気すら感じるようになってきた……
しかしこの回も僕の名前は呼ばれることはなかった。
「大気さん、そろそろ呼ばれるんじゃないですか?」
授業を終え、視聴覚室にやってきた巻が呑気なことを言っている……
人の気も知らないで! と珍しく腹が立ったその時。
「第六巡目選択希望選手、横浜、一之瀬大気、内野手、18歳、松本中央高等学校」
「ウォォォォ!」その瞬間室内だけではなく、廊下からも大歓声が巻き起こった。
僕は巻に肩車されてグラウンドに連れ出された。待ち構えていた野球部の仲間達に胴上げされた。
無名のドラフト下位指名の僕には、それほど多くのチャンスは無いだろう。
本当の勝負はこれからだ。今はスタート地点に立ったに過ぎない。
同世代の選手が大学を卒業してドラフトの対象になるまでに、ある程度の実績を残せなければ簡単にクビになってもおかしくない。
それがプロ野球の世界だろう。
宙に舞いながら、顔は笑っていたと思うが、頭の中は妙に冷めていて、これから始まる戦いの日々を想像しながら、期待と不安がグルグル渦巻いていた。