王子と家令
──コンコン。
まだ肌寒い春先のパリッと乾いた朝の空気を、高く軽快なノック音が遮った。
「ルーファス様。ハロルドです」
「入れ」
一連の流れをこなして、一人の翼人がこの国の第一王子──ルーファスの部屋に入る。
ガチャリと開けられた扉の奥には、光を浴びて透き通る青髪の王子が、程よく整頓された重厚な執務机を前に羽付きの細い筆を走らせていた。
この屋敷で家令を務めるハロルドは一直線に王子に近づくと、何列にも積み上げられた書類の壁越しに声をかけた。
「……今朝はお早いですね。昨晩はお休みになられなかったのですか?」
そう言った彼の背中にある銀色の翼は小窓から差し込む朝日に照らされて、それぞれの羽根がまるで真珠のような輝きを放っている。
「ああ。少し立て込んでいて」
ルーファスは昨夜からろくに眠ることもせず、各地域から送られてきた大量の報告書に目を通していたらしく、彼はそう返しながら羊皮紙に影を落としていた前髪を片耳にかけると、覗かせた紫苑色の穏やかな瞳を少しだけ細めた。
「お身体にはお気をつけください。来週には新しい従者の任命式もありますし」
次にハロルドは執務机と少し離れた卓子へ向かうと、慣れた手つきで白いティーカップに紅茶を注ぎ始める。
「……そうだな」
王子の曖昧な返事にハロルドは一度手を止めた。
「やはり、納得されておりませんか?」
その会話の内容は、明日ルーファスが迎え入れる予定の新しい従者についてだった。
「いいや。俺は納得せずに式に出たりはしない。ただ、少し……陛下のお考えは相も変わらず読めぬままだからな」
考えるのに疲れたとでも言うように首を軽く振ったルーファスは、長く深い息をつきながら座っていた椅子の背もたれに寄りかかると、笠木に頭を預けるように自室の高い天井を見上げた。
「ハロルド。お前はどう思う?」
尋ねられた銀翼の家令は、注ぎ終わった紅茶にそっと白い薔薇の花弁を添えてからルーファスの机上に置いてみせる。その手際の良さはさすがこの国の王宮が認める家令と言ったところだった。
「新しい従者の彼、そうですね……国王陛下のお考えまでは私にも図りかねますが、、、現在、この国の他の王子は多くの従者を抱えておりますし、この先直轄地を安定して統治していく上でもやはり傍に置いておく者が私一人では何かと心配に思います」
その言葉にルーファスの表情は更に曇りを増し、顔の向きはそのままに紫苑色の瞳だけが天井から外される。
「はぁ。お前も父上に賛成ということか。……だが、もはや俺を狙う者などいないだろう?護衛など何の意味がある」
胸に手のひらを当てて強く握りしめた彼の、着ている糊の効いた黒いシャツがくしゃっと乱れた。
「……」
「いや、すまない。実力を世に示した翼人が非力な王族に仕える。それこそこの国の古くからの伝統であることは俺自身が一番よく分かっているさ」
張り詰めた空気の中、「王子は決して非力などでは──」ハロルドは反射的にそんな言葉を返そうとしたが、主君が眉をひそめながら放ったその言葉には否定しようにも確かな重みがあって、彼は口を閉ざし目を伏せるしか無い様子。
「まあいい。その者はちゃんと強いんだろうな?」
しばしの沈黙を経てようやくルーファスの表情が少し和らいで、緊迫した空気を抜けたのが分かる。
いつもの通り本日使う予定の資料を、と壁を覆い尽くす本棚のひとつに手を伸ばしかけていたハロルドは、その質問にまた一度動きを止めて振り返った。
「当然でしょう。なにしろ、王族に仕えることを許された『紅翼』ですし、そのなかでも軍事学校をトップの成績で卒業し、十五にして官僚試験に一発で合格した者ですよ。本人の強い意向さえなければ、他の王子同士で取り合いになってもおかしくないほどの逸材です」
ハロルドはルーファスを安心させる為にというよりも、どこか自分に言い聞かせるように強い口調でそう答える。
「……そうか。ならいい。
明日会えるのを楽しみにしているよ」
ルーファスは何かを言いたげに一瞬険しい表情を浮かべたが、すぐにそれを隠すように柔らかく視線を書類に戻すと、それ以上新しい従者について何かを語ることはなかった。
◆
「おい、ハロルド。
ルーファス様のご反応はどうだった?」
ハロルドが第一王子の部屋から立ち去った後、廊下ですれ違った一人の翼人が彼にそう尋ねた。
「ああ、いいや、微妙だな。まだ従者を持つこと自体を渋っていらっしゃるようだった」
言いながらハロルドは、整髪料で後ろに固めた黒髪を徐ろにかきあげる。
「やはりそうなのか。でも、今回ルーファス様の所へ来る紅翼はとんでもないエリートだって聞いたぞ?」
滅多に従者を採らないルーファスの元へ仕えるという、新しい『紅翼』の話題はすぐさま王宮中に広まっていた。
「ああ、それは間違いない。だが、おまえも知っているだろう。ルーファス様はあれ以来大切なものを作りたがらない」
その言葉を耳にした相手の翼人は目の色を変えて口元に嘲笑を浮かべた。と同時に突然声色が冷ややかさを帯びる。
「ふっ、またか。気に入らんな。前のあれも所詮人間が死んだだけの事だろう?あれはルーファス様が心を痛められるような存在ではない」
ハロルドはゆっくり頷いた。
「ああ、その通りだ。あんなこと二度とあってはならん。今回だってそう。また紅翼という存在を持つことでルーファス様が心を乱されたらと、考えただけで虫唾が走る」
同僚の言葉を皮切りに、ルーファスの前では押し殺していたハロルドの感情が解き放たれ、彼もだんだんと口調が強まっていく。
「だな。紅の翼など飾りも同然。問題なのは今、そんな薄汚れた人間の血を引く者が王族の元を出入りするのを許されているということだ」
二人から湧き上がるある特定の憤怒と嫌悪は、留まることを知らなかった。
「人間など信用出来ん。今回は国王陛下のご命令だから逆らうような真似はしなかったが、万が一ルーファス様の身にまた何かあったら俺はそいつを──殺す覚悟だ」
シャノンが、父の墓に背を向けて飛び立ったのと同じ夜。
薄暗く、奥が見えぬほど長く続くこの邸の廊下には、ハロルドのそんな低く凍てついた声だけが木霊するように響き渡っていた。




