これクマですか?私ですか?
奥の壁に説明文の大きな文字でこう書かれていた。
『ヒグマはクマ科に属する哺乳類である。ホッキョクグマと並びクマ科では最大の体長を誇る。また、日本に生息する陸棲哺乳類でも最大の種である。』
これが信じがたい事に今の私らしい。嘘じゃないよ。本当だよ!
今、何が起こっているかよく分からないが、現状を簡単に説明すると、『死んだはずが転生?してクマになっている』………らしい。
なんでクマ?
私は、自慢では無いが全くクマを知らない。自分がヒグマって分かったのだって偶然だ。死ぬ前の前日にテレビで出てたからだ。ドキュメントとかでは無く。面白映像系の番組で。コロコロ転がっていた。可愛かった。
もしかしてそれが理由? それならせめて犬とかじゃない?犬も昨日見たし、なんなら、家で犬飼ってるし。その方が、もし物語だったとしても感動しない?死んでしまったけど、実は飼っていたペットになってました。とかの方が良くない?
なんでクマなの?なんで現実の熊なの?異世界の能力持ったベアーじゃ無いの?なんで動物園の熊なの?誰が得をするの?こんな所で第二の人生開始するの?
はぁ嫌だ。まぁここには他の熊がいない様だし、それは良かった。本当に良かった。
「やっぱり暴力こそ、どの生物にも通用する。最強のコミュニケーションだな。ふふん♪暴力♪最強♪暴力♪さ…………」
そう言いながら、飼育員の男は倒れた私を無視して、聴いた事が無い意味不明な脳筋な歌を口ずさみながら、嬉しそうに掃除を続けていた。
その男の見た目は背が低く茶髪で、体付きは、とても熊を殴ってダウンさせたとは思えない程細い。長袖で見えないが、多分細マッチョ系なのだろう。歳は三十年手前って、ぐらいで、四捨五入すれば、おじさんって呼ばれてても可笑しくないと思う。
自分の事で精一杯で、忘れていたがこの男。現在熊である私を倒したよね?しかも素手で!一撃で!有り得るのかそんな事?
テレビとかで熊を素手で撃退したとかは、聞いた事があるが、実際に見た事は無い。
………いや、有り得ないだろ。冷静に考えて。熊だよ。
それとも私が弱いのか?、中身が私だから負けたのか?
でもこの男、まるで勝つのが当然とばかりに襲い掛かってきたよな。先に手を出したのはコイツだよね(嘘)
「ん、どうしたんだ熊谷さん、こっちをじっと見て、反省してるのか?」
こちらに向かってそう言うので、後ろに誰か居るのかと思い振り返ると誰も居なかった。多分熊谷さんって言うのがクマである私の名前だ。大分変わっている。かなり変だ。
どうやら私が、寝転び長良も、視線を向けているのに気付いたらしい。
今回はあっちが悪い。反省するのはお前だ。私では無い。まだお腹痛いし。いきなり女性に向かって発情期って………ほんっと頭おかしいんじゃないのか。
思い出しただけで腹が立ってきた。
…………いや、でもあちらからすれば、いきなり襲ってきたのは私側って事になるのか。普段は言葉通じないだろうし。複雑だ。
「良し、終わりっと。熊谷さんも運が良かったな。もし襲い掛かってきたのが、俺じゃなくて、昨日辞めた佐藤さんだったら、殺してても殺してなくても、殺処分だったぞ」
ゾクッ
そう言われて体になんともいえない衝撃が奔る。
(そうだ、その通りだ。私は今熊なんだ)
軽く暴力を振るうだけで、人を殺せるんだ。
考えるだけで自分が恐い。
もし、あの時、振り下ろした右手が当たっていれば、倒れていたのはこの男だ。しかも血まみれで。
(よし、もう二度と暴力は振るわない)
私は熊になった右手を眺め、そう心に誓った。
「まぁ、もう喧嘩は売るなよ」
その言い放ちその男は、バケツとブラシを持って、出て行った。
(喧嘩売ったのは、貴方でしょ)
「わぁこっち見た。おーい。手を振ってるよ。お兄ちゃん、ほら見て」
「うわ。マジだ」
私は格子の向こう側で、こちらを覗く子供の兄弟に、手を振っていた。何やら興奮した様子である。
私は動物園というものに、小学生以来行った事が無い。しかも確か低学年の時だ。全くと良いほど覚えていない。覚えているのは、ゾウが大きかったのとゴリラが怖かった印象だけだ。
熊を見た思い出は一切無い。多分熊は見ていないと思う。熊といえば、あのテレビで見た転がるクマしか印象に無い。
つまり、動物園で熊は何をすれば良いのか分からない。
なので、取り敢えず、檻の前に来る人には手を振っている。立ったままだと怖がられるので、座ったままで。
裸なのは、もう慣れた毛もあるし。大事なとこは見えないようにするけど。
一応中身が人間だという事をアピールしようとは考えたが、リスクが大きい気がする。よくある謎の研究所とかに行かされるのは、まだ怖い。まだ、ただのクマのフリをして振る舞うのが、無難だろう。
私は自然の熊ではなく、動物園のクマなのだ。これが無難で普通だろう。一応飼ってもらってるんだし、最低でも手ぐらい振るだろ。
そう考え、無心で手を振っていると。
「こっちにも振ってくれ!」「本当だ、手を振ってくれるわね」「わー クーちゃん こっちにも!」「あれなんか内股じゃね」「僕にも僕にも」「賢いな、あの熊まるで言葉が分かってるみたいだ」
どんどん人が集まってきた。まるでテレビで見るパンダのような人気ぶりだ。
(えっどういうなの?)
「グマグマグオ」
何か知らないが人気が出てきた。少し嬉しい。次は両手で振ろうかな。
「やけに愛想がいいわね。クーちゃん。………貴方また何かした?」
「イ、イヤ、ナニモシテナイヨ」
後ろ側から声が聞こえ、振り返ると、そこにはさっきの暴力男と同じ飼育員の格好した女性がいた。
男の方は長袖を肘上まで捲り、先ほどとは違うバケツを持っていた。
女性の方は男性と違い、帽子を被っていたが、長い黒髪が鎖骨程まで伸びていた。顔を見る感じでは可愛いってより、美しい系の女性だ。歳は分からないが多分若い方だと思う。二十四、五歳位だろう。スタイルはスレンダー系で、学年に2.3人はいる綺麗な人だ。
「知ってると思うけど、ここって監視カメラもあるのよ。ここで嘘付くのと、嘘付かないのどっちが良いかわかるよね」
「うぐぐ」
話しを聞いている感じでは、あの黒い女の方が偉いみたいだ。
「どうなの。誠一、何かしたのでしょ」
(そうだ、そうだ、言ってやれ)
「違うんだよ。アレは、せ、正当防衛だ。機嫌が悪かったから、ちょっと躾としてだな、一発だけ、一発だけ」
「でも誠一全く怪我してないじゃない」
「それは、躱したから…………」
「言ってたわよね、昨日競馬で負けたって」
「あ、愛華、俺が八つ当たりで殴ったと思ってるのか?」
「うん、だっていつもそうでしょ」
(あの男が、強いのは公認なのね。しかも、信用もなさそう。しめしめ、良い事思い付いたわ)
「そんな訳ないだろ。ほら熊谷さん、エサ持ってきたぞ」
そう言って話しをすり替えるように、その男は、バケツからリンゴを取り出し、こちらに向かって差し出した。
「前から思っていたけど、何で名字のあだ名を勝手に付けるのよ。貴方のせいで何匹かは、名前を呼んでも反応しなくなったのよ。しかもこの子クーちゃんって名前なの。ちゃんとそう呼んで」
「何でも良いだろ。俺は横文字は覚えにくいんだよ。なぁ?熊谷さん…………ん、いつもだったら、飛びつくように向かって来る筈だけど、………あれ?」
「絶対にそっちの方が覚えにくいけど、…………あれ?何か怯えてない」
「クゥゥゥ」
私はあの男から離れるように格子の方に寄り、頭を抱え体育座りをして怯えるよう背をむけた。
「クマさん怖がってるー」「可哀想!」「これは明らか怯えてるな」
(ナイスフォロー!!)
私は腕の隙間からチラッと飼育員の方を伺うと。
(ひぃぃぃぃぃぃ)
綺麗な飼育員さんは、顔は笑顔だが、雰囲気が明らか狂気な物へと変化していた。
「誠一、これは駄目だよ。本当に駄目だよ。分かるよね。事務所行こうね」
「い、いや、これは違う。さっき熊谷さんは普通だった。急にだ。きっと俺を嵌める為にわざと…………」
その黒髪女性は話しを遮り、男の肩を掴んだ。
「良いから早く来て。そんな転人動物でもあるまいし。貴方と違って動物は正直なの。行くわよ」
「し、信じ……………」
そう言って、リンゴのバケツを残して、その二人は檻から出て行った。
(お気の毒さまです)
私は心の中で手を合わせて、暴力男を見送った。
そして私はあの黒髪の女性は怒らせてはいけないと、また一つ心に誓った。あともう一つ気になる事が。
(『てんじんどうぶつ』って、何?)