ep10.『聖母と道化、その支配人』紙の上に留まる蝶
女は暫く無言のまま、煙草の煙を燻らせている。
なんだ?
元ご当地アイドル?
じゃあ水森の母ちゃんと歳は同じくらいか?
それにしては少し年齢は上に見える。30代半ばくらいだろうか。
女の巻き髪───────────少し根元が黒くなった────────をぼんやりと眺めながら俺達は身動き出来ずにいた。
あの、と水森唯が声を発しかけた瞬間だった。
「……あのさあ!」
不意に女が苛立った様子で口を開いた。
「……アンタのさ、母親に連絡くれるように言っといてくんない?」
はい、と水森唯は反射的に小さく返す。
「連絡先は知ってると思うけど」
まあ念の為に渡しとくわ、と小さくくぐもった声で女は水森唯に名刺を押し付けた。
俺は横目でそれをチラリと覗いた。
蝶のデザインが施されたゴテゴテとした色合いの名刺。
名刺という割には電話番号は記載されていない。
苗字も無い。“綾華”という下の名前と住所だけが印刷されている。
あれ、この人綾華って名前だったっけ?
「………?」
裏返すと、インク漏れしかけたボールペンで殴り書きされた番号が雨に滲んでいた。
「………」
水森唯は名刺を胸ポケットに仕舞うと女の方をまっすぐに見た。
「……はい。必ず母に伝えます」
水森唯はいつになく力強い口調でそう言った。
女は二本目の煙草に火を着けた後、少し目を逸らすと手に煙草を持ったままふん、と鼻を鳴らした。
女はくるりと踵を返すとコツコツと安っぽいヒールの音を響かせながらその場を後にした。
少し強くなった雨足と地面を眺めながら────────俺達は暫く無言のまま立ち尽くす。
「……“必ず”」
水森唯が小さくそう呟く。
──────────────その意味を俺が知るのは数日後のことだった。




