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ep0. 5 「真夏と昼の夢」(四百年後のジュリエット)

The Birthdayの「さよなら最終兵器」を聴きながら書いた。

「ごめんなさい先生」

泣き腫らした真っ赤な目でマコトは佇んでいた。

何か困ったことがあったらいつでも連絡しなさい、と教えられた番号に連絡した。

困惑した表情でその場に現れたのは少年の副担任の小泉だった。

小泉はどうして、と言いかけてその言葉を飲んだ。

夏の日の午前。

マコトの家の近くの無人の小さな公園。

小泉の手には調剤薬局の紙袋が握られていた。

確かに私は教師ではあるが、と前置きして小泉はこう続けた。

「これが本当に正しいことなのかはわからない」

真剣な表情の中には苦悩が見て取れた。

本来なら保護者に委ねるべき案件である事は明白だった。

緊急性が高い案件だからこそ判断を間違う訳にはいかない。

大変な事をお願いしてごめんなさい、とマコトは下を向き俯いた。

別に君を責めてる訳じゃない、と小泉はマコトの座っているベンチに座った。

一体何がどうしてこうなったんだ?という質問を小泉は寸前で押し留める。

教師という立場からセンシティブ過ぎる話題をどう切り出すべきか。

二十歳の彼女には人を導けるほどの人生経験はまだ無かった。

正解のない問題に向き合った経験も。

この度はうちのクラスの佐藤が済まない事を、と悲痛な面持ちで小泉はマコトに詫びた。

「いくら詫びても許されることではないのだが」

小泉は言葉を詰まらせる。

この後すぐに最大出力で少年を締め上げる気で居る小泉は平静を装っては居たが静かに怒っていた。

自他共に認める不良のポジションでもあり、飲酒喫煙無免許運転が茶飯事の少年が考え無しに引き起こした事案であることは小泉にとって疑いようが無かった。

無理矢理だったのか、と小泉は遠慮がちにマコトに問いかけた。

マコトは静かに頷いた。

「はい。無理矢理です」

マコトは真っ直ぐな目で小泉を見た。

「僕が無理を言って佐藤くんにこんなことさせたんです」

だから彼は何も悪くないんです、とマコトは迷いなく言い切った。

「彼は断ってくれたんです。僕の将来や身体のことを案じて」

それが優しさだったんです。佐藤くんの、とマコトは細い肩を振るわせた。

なのに僕はそれがわからなかったんです。本当にわかってなかった。

「その優しさこそが愛情だったのに」

ベンチは木陰になっており、涼しい風が吹いていた。

「僕が全部悪いんです」

マコトの喉の奥と気道がひり付くように熱くなり、痛みを帯びて来る。

それに気付かなかった僕が馬鹿だったんです。

「彼のまっすぐな真心を踏み躙ったのは僕なんです」

マコトは一語一語を絞り出すように懺悔した。

全く話が見えてこないので小泉は戸惑った。

チラチラとマコトのパーカーの隙間から見える首筋の昨晩の痕跡が生々しかった。

小泉はマコトの首筋から目を逸らし、遠くを眺めながら暫く頭を抱えた。

少しの沈黙の後、小泉は立ち上がって数歩歩く。

すぐ横の自販機でスポーツドリンクを買ってマコトに手渡す。

マコトは少し飲むと落ち着いたのか暫く黙っていた。

小泉はマコトが何かを話し始めるのを黙って待っていた。

夏の午前の木陰は優しい気温だった。

あの、先生、と暫くしてマコトが口を開いた。

うん?と小泉はゆっくりとマコトを見た。

「先生はセックスしたことありますか?」

火の玉ストレートな質問であったが小泉は真っ直ぐにそれを受け止めた。

「私は家業の関係で土日は巫女の仕事を手伝っていてね」

だから結婚前にそういう事は出来ないんだよ、と正直に答えた。

マコトは泣きそうな表情の中に一種の優越感を織り交ぜたようにこう言い放った。

「先生。好きな人とするセックスって気が狂いそうになるほど気持ちいいんです」

僕はセックスがこんなものだなんて全然知らなかった。

知ってたら絶対やらなかった。

「昨晩僕は人類がどうして滅亡せずに今まで生きてこられたかって言うのをこの身体で身をもって知ったんです」

アダムとイブの時代から人類、男と女の身体の正しい使い方って変わってないんだってよく解りました。

そういう風に設計されててインストールされてるから本能には逆らえないんだって。

マコトは自虐めいた口調ながらどこか誇らしげに語った。

なんかこの子も大概変わっているな、と小泉は面食らった。

偏屈な佐藤となかなかお似合いな気もしてきたぞ、と一人考えて少し納得した。

「先生、僕らは人生で一度しか使えないカードをお互い切り合ったんです」

マコトは喜びとも悲しみともつかない複雑な表情を浮かべた。

「本当に二人でこのまま死ねたらどんなに幸せかってこれほど思った事はないんです」

おいおい、と小泉はマコトの言葉を遮った。

「お前ら付き合ってるんじゃないのか?まだまだ人生これからだろう?」

死んでどうする、と小泉はマコトの顔を覗き込んだ。

「中高生のカップルなんて寧ろ人生で一番エンジョイしてる時期じゃないのか?」

そりゃ行き過ぎた性交渉は認められないが、と前置きして小泉はこう続けた。

「図書館で一緒にテスト勉強するとか、手作りの弁当を持って公園に行くだとか学生らしい範囲の付き合いなら今後好きなだけ続けたらいいだろう?」

小泉は教員らしい模範的な提案をする。

「もし佐藤と何か喧嘩でもしたのなら私の方から話をしてみるから」

マコトは黙りこんだ。

違うんです先生、と首を振る。

「僕、姉妹校に転校するんです。全寮制で進路も親に決められててあと十年は帰っては来られないんです」

ここから五時間以上もの距離なんです。

だから佐藤くんとはもう二度とは会えないんです。

マコトは諦念を宿らせたような瞳で空を見上げた。

おいおい、と再度小泉はそれを否定した。

「遠距離恋愛という手段もあるし電話もネットもあるだろう?」

そんなこの世の終わりみたいに悲観的にならなくても、と慌てたようにフォローする。

「先生、僕の父は開業医をやってるんです。後継ぎが必要だから僕が医者になるか医者と結婚するしか無いんです」

医学部だから最短でも六年、やっぱりどう考えてもあと十年は無理なんです、とマコトは視線を地面に落とす。

「佐藤くんには両親が居ないのを先生もご存知でしょう?」

彼の夢は早いうちに結婚して野球チームができるくらいの賑やかな家庭を持つ事なんです。

その彼に僕のために十年待ってくれなんて言えないんです。

ねえ先生、僕は彼の孤独を考えるだけでも胸が焦げ付くみたいに苦しいんです。

「先生。僕は結局、黙って彼の前から去る事しか出来ることが無いんです」

嵐のように急激に恋に落ち身体を重ねて人生の方向性を決定し、別れを決意したマコトの思考ロジックは他者には納得しかねるものであったかもしれない。

淡々と話すマコトに対して小泉はなんと声を掛けて良いものか躊躇した。

少しの間、二人の間に沈黙が流れる。

「ところでお前らはいつから付き合ってたんだ?一学期からか?」

小泉は思い出したように話題を少し逸らす。

「いいえ。僕達は付き合って無いんです」

マコトは静かに首を振った。

え?と思わず小泉は聞き返す。

「死にたいとか気が狂いそうとか過激なワード連打しといて付き合ってないって」

最近の中高生の考えてる事は分からん、と小泉は再び頭を抱えた。

僕にもわからないんです。どうしてこうなったのか。

「多分佐藤くんはもっとわからないと思います」

ううむ、と小泉は唸ったきり黙ってしまった。

何か飲まねば、と横の自販機で2本ペットボトルを買い、そのうち一本に口を付けた。

一息付いた小泉は再び口を開いた。

「なあ雪城。ロミオとジュリエットって知ってるか?」

はい。とマコトは頷く。

「バッドエンドで二人とも死ぬ話でしょう?」

まあそうなんだが、と小泉は続けた。

「ジュリエットって何歳だと思う?」

ええと、二十歳くらいですか?

マコトはぼんやりと答える。

「一応設定では13歳もしくは14歳ということになっている」

今のお前らと同じだな、と小泉は少し笑った。

「有名な話だからさぞかし一大スペクタクルストーリーかと思うだろう?」

あれな、出会ってから死ぬまで五日間の話だぞ。

「さっきのお前らの話を聞いて最近の中高生の考えてる事は分からんと思ったが何のことはない。昔からだ。昔から14歳ってのはこうだったんだな」

エキセントリックでとにかく死に突っ走る。未来なんか要らないとかすぐ口にする。

「お前らも同じなんだよ。四百年前の14歳と変わらないよ」

そう言うと小泉はまた少し笑った。

「聖母マリアが出産したのも14歳だからな。14歳ってのは何かのターニングポイントなのかもな」

聖母マリア。

14歳。

二人は少しの間黙った。

蝉の鳴き声が一斉に遠くで聞こえた。

夏はもう終わりかけているのに蝉は勢いを増していた。

マコトは何かを少し考える様子を見せながら呟いた。

ねえ先生。

シュレーディンガーの猫ってあるじゃないですか?

ああ、と小泉は頷いた。

箱の中の猫。

生きている猫。

死んでいる猫。

混在している猫。

猫は眠っているのかもしれない。

箱から逃げ出しているのかもしれない。

マコトはぼんやりとマサムネの暖かい感触を思い出していた。

風が吹き、頭上の木の葉が揺れた。

「今の僕の子宮ってまさにそうですよね」

妊娠しているかもしれない状態と妊娠していないかもしれない状態。

マコトは愛おしそうに下腹部に掌を置く。

「確かに佐藤くんはキチンと避妊してくれたと思います」

でも、とマコトは続けた。

「数パーセント?正確な数値はわからない。でもごく僅かな可能性ではあるけど僕は妊娠している可能性もあるんですよね?」

なんとなく嫌な予感がした。

小泉は警戒する。

「万が一の可能性でもいい。僕は彼の子どもが産みたいんです」

やはりそう来たか。

小泉は静かに首を振った。

「雪城、気持ちは解らないでもないが……」

けど、それだけは駄目だ、とハッキリと言った。

「それは佐藤が一番恐れていた事じゃないのか?」

お前らはまだ若い。将来も未来もあるしいろんなチャンスだってあるだろう?

小泉は諭すようにゆっくりと優しく話しかける。

マコトは泣きそうな表情を浮かべてこう言った。

「先生。僕は彼を愛しているんです」

好きでいちゃ駄目ですか?

愛している。

いとも容易く繰り出される世界最強の禁止ワード。

二次元に可処分所得の全額をブッ込む程度には異性に縁がない小泉はこの若さが心底羨ましく眩しくも思えた。

「だったら尚更駄目だろう?」

小泉は慎重に諭すようにマコトに言い含めようとしている。

失敗したとか首尾良く終えたとかは解らないがそれでも不安があるのだろう?

小泉は手にした紙袋ともう一本、未開封のミネラルウォーターをマコトに差し出した。

「持ち帰らせたらお前は飲まないだろう」

今すぐこの場で飲んではくれないか、と小泉は続けた。

「確かに副作用もあるだろうし身体に負担もあると思う」

自分宛に処方された薬剤を他人、しかも未成年に飲ませると言うのはタブー中のタブーである事は小泉も承知していた。

しかも受け持ちのクラスの生徒でもない他校の生徒にである。

無論表沙汰になればタダでは済まないだろう。

小泉にとっても危険な橋を渡る行為であった。

しかも田舎の産婦人科である。

神社の巫女でもある小泉が門を叩くにはハードルが高い場所でもあった。

おまけに保険が効かず二万円程の出費となってしまった。

医院によって価格のバラつきはあるのだろうが選んでいられる時間もなかった。

しかしこの場での最適解とは、正解とは何なのだろう。

正しさが何かなんて分かる程自分は偉くもないし大人でもない。

けれど、これだけははっきりしていた。

「君たちが傷付くような結果になるのは嫌なんだ」

状況はあまりにも特殊過ぎた。

マコトは首を振った、

「自分から先生に無茶言って迷惑かけておいてこんなこと言うのおかしいんですけど」

マコトは掌で顔を覆った。

「仮に2%程度、それ以下の確率であったとしても僕は彼との子どもを殺すなんて出来ないんです」

なんて厄介な事になってしまったのだろう。

小泉はマコトに関わってしまったことを少し後悔し始めていた。

どう着地させればいいのか。

小泉は頭を抱え、自分のペットボトルの飲み物を少し飲んだ。

遠くの蝉の鳴き声が止む。

いや、そうではないよ、と小泉は産婦人科で渡されたリーフレットをマコトに見せる。

「この薬には排卵を遅らせる効果があるんだ」

つまり、最初から箱の中に猫を入れない効果でもある。

箱の外に猫を出すだけだ。猫は死ぬわけじゃない。

小泉はなるべく明るい口調でいるように努めながらマコトを諭す。

緊急避妊薬には排卵を遅らせる効果以外にも子宮内膜への着床を防ぐ効果などもあるのだが小泉はこの方向からの説得を試みた。

「猫を箱の外に逃す、もしくは猫を入れないって考えるのはどうだろうか」

マコトはぼんやりと少年の顔を思い浮かべた。

猫を箱の外に逃す。

猫を箱の中に入れない。

そうか、ガックンは猫だったんだ。

自由気ままな野良猫。

傷を負ったマサムネってガックンそのものだったのか。

箱の中に閉じ込めるのは窮屈すぎるよね。

ガックンもマサムネも自由に生きたいよね。

僕が縛って閉じ込めとくなんて出来ないんだ。

マコトは視線を落とした。

それからもう一度下腹部を大切そうに撫でた。

暫くの間沈黙した後にマコトは口を開く。

「先生。ごめんなさい。僕、飲みます」

そうか、とホッと安心した様子で小泉は紙袋とペットボトルを差し出す。

マコトは紙袋からオレンジ色のパッケージの錠剤を震える手で取り出した。

白い小さな粒。

マコトは意を決したようにミネラルウォーターでそれを喉に流し込む。

マコトは胸を手で抑えた。

ひり付くような愛しさと後悔、悲しさが胸に溢れてくる。

ねぇ先生。

僕はどうして間違ったんでしょうね。

そう言うとマコトは少し泣いてその後少し笑った。

「先生、佐藤くんは毎日家で自炊してるんです。いつも節約メニューばっかりでロクな物を食べて無いんです。育ち盛りなのに」

だから、たまには家庭訪問して何か栄養の付くものを食べさせてあげて欲しいんです。

マコトは悲しげに、しかし愛おしそうに少年の全てを小泉に託した。

「心に留めておこう」

小泉はそう返すのが精一杯だった。

こいつら重すぎる。

「ねえ先生」

マコトは少し寂しそうに呟く。

「先生は料理は得意ですか?」

いや、と小泉は首を振った。

「冷凍食品の解凍に失敗して爆発四散させる程度には家事はからきしダメだな」

小泉は料理どころか家事全般が出来ないズボラで自堕落な人間であった。

マコトは少しホッとしたような表情を浮かべてこう言った。

「佐藤くんには料理上手な歳上の彼女が必要なんです。誰か居ないでしょうか」

小泉は暫く思案した。

「家庭科部の三年女子か」

しかし、思い浮かぶ家庭科部の三年生女子はどの子も大人しく控えめな子ばかりだった。乱暴で気性の荒い少年と付き合ってくれるような子は該当者が居なさそうにも思えた。

「それもこちらで該当者を探してはみる。しかしあまり期待はしないでくれ」

マコトは要望を伝え終わるともう何も言い残す事はないといった風に黙り込んだ。

他の女子を佐藤に宛てがって本当にいいものだろうか?

というか、まず女子の方からお断りされる案件だろう。

小泉はマコトにどう声を掛けるべきか思案していた。

きっとこの14歳の幼い恋人たちはアドレナリンジャンキーなんだろう。

今は陶酔しきっているかもしれないがいずれこの感情も落ち着くだろう。

きっとこれで良かったんだ。

ベストではないがベターであったかもしれない。

帰ったら佐藤をどつき回して締め上げよう。

二万の出費はなかなか痛いじゃないか。

一番くじのロット買いの予約をキャンセルしなきゃな。今月金欠なんだから。

佐藤の出世払いだ。きっちり回収しないと。

ぼんやりと小泉は少年にどう落とし前を付けさせるか考えた。

マコトは白い錠剤と何もかもを飲み込んだような顔をしていた。

雪城、と小泉はマコトに声を掛けた。

教師である私が言うのも何なんだが、と前置きするとこう続けた。

「二十歳になれば親の許可なく結婚も駆け落ちも出来るだろう?先に不意打ちで入籍だけ済ませて医師免許は必ず取るからと約束の上で結婚を事後承諾して貰うとかそういった手段もあるんじゃないか?」

そう悲嘆に暮れなくても、二人でどうにか乗り越える手段もあるんじゃないだろうか、と小泉は提案した。

まだ若い小泉自身もこれが無茶で夢見がちなロマンティックすぎるシナリオである事を十分理解していた。

しかし。

人間が生きていくためには『物語』が必要なのだ。

それがどんなに現実と乖離していたとしても。

人は『物語』があればそれを信じて生きていくことが出来るのだ。

二次元にその身を投じて現実から逃避している小泉はそれをよく知っていた。

だからこそ無謀とも思える『物語』を二人の前に提示して見せたのだった。

先生、と呟いたマコトは微笑んだ。

「先生は優しいですね。僕、もっと早く先生に話を聞いて貰ってたらよかった」

一呼吸置いてマコトは続けた。

「ねえ先生。先生は“マディソン郡の橋”って映画をご存知ですか」

僕、映画は詳しくないけどお正月の深夜帯にローカル局で流れてたの観たことあるんです、とマコトは目を閉じた。

ああ、と小泉は頷いた。

「映画は知らないが実家に原作があった。母がこういうのが好きでな。昔読んだことある」

田舎にある橋を撮影に来た写真家と人妻が恋に落ちると言う筋立ての実話に基づいたストーリーだった。

「最初観た時、不倫とか大人は汚いなって思いました。全然意味が解らないし共感も出来なかった」

でも先生、とマコトは静かに言った。

「今はその気持ちがわかるんです。僕も同じだから」

気持ちって?と小泉はマコトに聞き返した。

「二人は愛し合うけど人妻には家族が居るんです。もし人妻が駆け落ちでもしよう物なら田舎の事だから残された旦那と子どもが針のムシロだ。だから二人は決めたんです。“人生の残りは過ごした四日間の思い出を反芻するためだけに生きていく”って」

この人に会う為だけにこの人生はあった。残りの人生は思い出を反芻するだけの時間。その数日間のためだけに存在した生命。例え二人が離れ離れになったとしても。

「僕も決めたんです。この映画の二人のように僕の残りの人生は昨晩の思い出を守るためだけに使うって」

マコトは視線を自分の両手に落とした。

「僕だけが勝手に思ってるんですけどね」

爪と指の間に血が滲んでいた。

昨晩少年の背中に立てた爪。

彼の血が爪にその痕跡だけを静かに残していたのだ。

マコトはそれを見つけると愛おしそうにそっとそれを胸の前で抱きしめた。

それからゆっくりとその指と爪を噛んだ。

それは錆と涙の味がした。

マコトの身体の中心部には昨晩の少年の痕跡がまだ強く残っていた。

擦過傷のようなその感覚はまだ少年がそこに居るかのような存在感を放っていた。

身体に刻まれた痕跡は数日中に消えていくだろう。

マコトは長すぎる残りの人生に絶望するように震えていた。

思い出を繰り返し消費し続ける、反芻させるだけには長すぎる人生。

小泉は何も言い返せなかった。

小泉の提案する未来の楽観的な筋書きとマコトの想定する未来の悲観的な筋書きは全く異なる物だった。

いや一生会えないわけでも無いだろうし遠距離でも何でも付き合えばいいじゃないか、と思ったがその言葉は飲み込んだ。

マコトの決心は堅いように見受けられた。

この子も難儀な性格だな、と小泉は思った。

いや、だからこそ佐藤とこんなにお似合いなのか。お前ら結婚しろよ。二万は一旦貸しでご祝儀と相殺にしてやるよ。

小泉はキャンセルする予定のロット買い一番くじに思いを馳せた。

こういうのを“三方一両損”とでもいうのだろうか。

いや、二万を失ったのは私だけだぞ。

しかし。

まだ幼い二人はそれ以上の計り知れない傷を負っていた。

金で埋め合わせる事が出来るダメージはまだマシな部類なのだ。

心の穴は心でしか埋められないのだから。

小泉は時計を見た。

マコトも引っ越しの準備があり、グズグズもして居られなかった。

雪城、とマコトに声を掛けるとベンチを立った。

「何か困った事があったらまたいつでも電話しなさい。駆けつけることは出来ないが話くらいは聞くから」

産婦人科で貰ったリーフレットをマコトに渡し、副作用がある場合の事を念押しした。

先生、とマコトもベンチを立って小泉に向き合った。

「先生、僕……」

ん?どうした?と小泉はマコトの言葉を待った。

僕怖いんです、とマコトは俯いた。

佐藤くんや両親、友達とも離れてたった一人で知らない場所で暮らすのが怖いんです。

マコトの目から涙が溢れてくる。

「全部が怖くてたまらないんです」

自分の慢心で幸せだった生活を全部失った、その後悔を抱えて見知らぬ土地に行く事にマコトは心底恐怖を感じていた。

小泉は小さく頷いた。

いいよ、気がすむまで泣きなさい。

小泉は泣きじゃくるマコトを抱きしめた。

暫くの間、マコトは小泉の胸の中で泣きじゃくっていた。

夏休み終盤の空は青く澄み渡っていた。

吹いてくる風には秋の気配が混ざっていた。















マコトは冷たい感触で目を覚ました。

「……大丈夫か?」

やや心配そうに黒髪の少年がマコトの顔を覗き込んでいた。

マコトは道端の木陰に制服のまま寝転んでいた。

熱中症だった。

いつか出会った憧れの人。

白い肌に長い睫毛。

綺麗な顔立ちの他校の少年だった。

憧れの人は冷たいスポーツドリンクを側に置き、水に濡らしたタオルをマコトの額に載せるとスッと立ち上がった。

「……何度も倒れる奴だな」

気をつけろよ、とだけ言い残し彼は立ち去った。

マコトはぼんやりと広がる空を見上げた。

そっか、熱中症か。

また行き倒れてたのか僕は。

それでまた助けてもらったのか。

「……何かものすごく長い夢を見ていた気がする」



蝉が一斉に鳴き、夏休みの開始を告げていた。




登場人物の全員が頭のネジ2〜3本飛んでるような話を書こうと思った。

書き終わったら自分の頭のネジが5〜6本飛んでいた。

ここまで読んだお前も大概狂ってる。

ありがとう。愛してる。


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