ep0. 「真夏の夜の爪」 63.出血、達する感覚と失神
本当に、本当にお前のことが大事でたまらないんだ。
少年はガラス越しにその夜空を見た。
流れた血と同じ色の月が昇っていた。
体育座りをしたまま少年はしばらくその膝に顔を埋めていた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。
少年はふとソファを見た。
概史が敷いてくれたタオル地の未使用のソファカバー。
マコトが座っていた位置に色が違う場所があった。
それが小さく濡れて滲みになった新しいものである事を理解するのに時間は掛からなかった。
しかし同時に少年は脊髄に氷柱をブッ刺されたような感覚に陥った。
少年は目を見開いてその滲みを凝視した。
瞬間、少年は唐突に全てを理解した。
後頭部を鉄パイプで殴られたようなショックを受けた気がした。
急いで立ち上がってドアを開け外に出るとマコトの後ろ姿を探した。
しかしそこではもう誰の姿も見つけられなかった。
遠くの河川敷にも土手にも人の気配は皆無だった。
夏の終わりの風は思った以上に冷え切っていた。
赤みのかかった月だけが夜空の高い位置で全てを照らしていた。
「あああああああああああああああああ!!!!!」
秘密基地に戻った少年は咆哮し、壁を拳で力任せに何度も殴った。
間違えた。
信念を持っているつもりでカッコ付けた挙句。
間違いの選択でマコトをどうしようもなく傷付けた。
俺が間違ってたんだ。
けどあいつは間違いのない確実な“覚悟”を持っていた。
この場所で俺と世界の終わりをずっと待っていたんだ。
それなのに。
俺は尤もな理屈を並べてただ悪戯にマコトを深く傷付けただけだ。
もう届かないのに。
「ああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
マコト。
後悔だけで致命傷に達しそうだった。
ただ守りたかっただけなのに。
何を思い違いしていたんだ。
秘密基地内に転がっていた金属バットをフルスイングで窓に向かって振り下ろした。
ガラスが粉々に割れる音がする。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
声にならない声を上げながら少年は壁やテーブルを何度も滅多打ちにした。
マコト。
世界と自分が壊れる音がした。
「あああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
その拳で壁を全力で何度も何度も殴った。
自分自身が許せなかった。
多分一生許せないだろう。
自分自身を罰するように少年は力任せに拳を振るった。
ガラスの破片で拳も腕も血塗れになっていた。
返り血が頬に付く。
視界が赤く染まる。
口の中で錆びた鉄と塩の味がする。
自分でも訳がわからないまま狂ったように少年は秘密基地を自分自身の手で破壊し続けた。
ガラスを割る音と咆哮と泣き声が河川敷に響き続けた。
自分の居場所も思い出もこの夏も何もかもが全て壊れていく。
壊れていく。
どれくらい時間が経ったのか少年には見当も付かなかった。
朦朧とした少年がフーミンの経営するバーにたどり着いたのは夜も明けそうな時間帯だった。
「ちょっとどうしたの!?」
血塗れの少年を佑ニーサンが慌てて抱きとめた。
佑ニーサン、俺……と少年は力なく呟いた。
「俺、卒業出来なくて留年しちまった」
少し笑いながら少年は身体の力が抜けて行くのを感じた。
少年は何故かタンバリンを右手に持ってドアから雪崩れ込んできた。
うんうん、と佑ニーサンは力一杯に血塗れの少年を抱きしめた。
「ミッシェルのデッドマンズ・ギャラクシー・デイズのPVみたいでカッコいいよガックン」
フーミンが呆れたようにおしぼりと水を持って来る。
「お前なんでタンバリンなんか持ってんだよ。意味わかんねぇ奴だな」
血に塗れた黒いタンバリン。
証拠隠滅のつもりで金属バットを手にここまで歩いて来たと思っていたのがいつの間にかタンバリンにすり替わっていたのだ。
概史と遊んでいたおもちゃのタンバリンだった。
少年は馬鹿馬鹿しくて笑いが止まらなくなった。
「なあ、この前のオ○ホの残り無ぇの?」
今なんかめっちゃ抜きたいんだけど、と少年はおしぼりで顔を拭かれながら呟いた。
「血塗れで何言ってんの?まずシャワー浴びて傷の手当てしないと」
「じゃあ何でもいいから酒くれない?」
少年は滅茶苦茶な事を言い出した。
とにかく狂わないと正気が保てなかった。
それからはどうしたのか少年は何も覚えてはいなかった。
少年が目が覚めると景色は夕方になっていた。自宅の布団の中だった。
何もかもが夢だったような気がした。
母親に捨てられた少年はひと夏のうちに友達も保護者も小さな相棒も全て失う事になった。
夏休み残り五日になったある日の昼下がり。
少年はゆっくりと太陽が照りつけるアスファルトを歩いていた。
遠くから女子学生が歩いて来るのが見えた。
黒髪、白いセーラー服に緑のリボン。中高一貫の私立の制服だった。
少年とショートカットの女子学生がすれ違う。
瞬間、何処か懐かしい匂いがした。
人工的な葡萄の香り。
ハッとした少年が振り返る。
女子学生は振り返らずにまっすぐ前に歩いて行くのが見えた。
凛とした後ろ姿だった。
少年は、ひどく赤面した。
暴力的なラブレターを括り付けた矢文、君に向けて射る前に自分の身体に刺さっていたよ。
誰かの心臓に爪痕を残せたならいいのだけれど。




