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ep6『さよなら小泉先生』 消滅する予定の世界線

何度来てもスラム街みたいだ。

俺はゆっくりとアパートのチャイムを押した。


ドアの周囲には干からびた鉢植えが幾つか置かれている。


元はどんな植物が植えられていたのかなんて想像すら出来ない。


錆びた三輪車が横転し、共有スペースであるはずの廊下を塞いでいる。


何度かチャイムを押し、待っている間に三輪車を起こして端に置いた。


留守だろうか。


いや。


部屋の中で人の気配がする。


どなた、という小さな声の返答がやっと聞こえた。


「役場から来ました。昨日の担当の者ですが」


調査に不備があったので再度お伺いしました、と俺はまたしても適当な────それらしい事を並べ立てた。


「まあ、そうだったんですか」


小泉──────いや、“鬼怒川鏡花”がドアを開けて顔を覗かせた。


鬼怒川鏡花は虚な目で俺を見る。


「すみません。私ったらそそっかしくて───────」


心底、済まなさそうに詫びる鬼怒川鏡花を見た俺の心はチクリと痛んだ。


何も不備など無いし、そもそも──────“俺が聞き取り調査をした”設定なんだ。


手落ちがあったとすれば俺の方なのに、どうしてそんな表情を浮かべてるんだ。


こんな状態になるまで───────周囲に詫び続けて来たんだろうか。


いや。


“彼女”が詫びている相手は恐らく─────


そこで俺は考えるのをやめた。


鬼怒川鏡花が見た地獄。


それは俺が想像出来る範疇を遥かに越えたものだろう。


何もかもが俺のせいなんだ。


泣きそうになるのを堪え、俺はピザ屋のチラシを鞄から出した。


「今ですね、感染症予防対策の一環と致しまして……こうして訪問先で簡易検査をさせて頂いてまして」


またしても俺は適当な言葉を並べ立てた。


あら、と鬼怒川鏡花がそれに反応する。


「ご家族を代表して奥様に検査を受けて頂ければと……お手間は取らせませんので」


鬼怒川鏡花は虚な視線で頷いた。


「ええ。分りました」


では早速、と勿体ぶった素振りを見せながら俺は例の封筒を鞄から出した。


「こちらの抗原検査キットのシートの方に息を吹き掛けて頂けますか。警察の交通課で採用されている検査と同じものですので─────」


「……ああ、見かけたことがあります。あれとおんなじなんですね」


随分と滅茶苦茶な説明なんだが、鬼怒川鏡花は疑う素振りも見せずに人形(ヒトガタ)に息を吹き掛けた。


その横顔と仕草を俺は胸の潰れる思いで眺めていた。


俺の知ってる小泉と同じ顔、同じ声。


それなのに。


どうしてこんなにも儚げで消え入りそうなんだろう。


俺が会った“未来の小泉”よりも10歳は若い筈なのに。


目の前の鬼怒川鏡花からは生命力のようなものが一切、感じられなかった。


「……あ、すいません。もう一枚いいですか?」


俺は二枚目の人形(ヒトガタ)を取り出す。


同じように息を吹き掛けて貰った後、急いでそれを封筒に仕舞った。


「……はい。えーとですね。奥様の検査の結果は─────陰性でしたのでご安心を」


陽性だと検査シートが赤くなるんですよ、と俺はまた出まかせの出鱈目を言った。


「そうなんですか」


それは良かった、と鬼怒川鏡花は頷いた。


ここからは早く撤収した方がいいだろう。


「……それでは私はこれで」


ご協力有難う御座いました、と俺は忙しいフリをしてその場から立ち去ろうとした。


用が済んだ以上、長居は無用だからな。


「……あの」


不意に話しかけられた俺はビクリとしながら振り返った。


「もっと前に……何処かでお会いしませんでしたか?」


「えっ」


返答に詰まった俺は息を呑んだ。


どうしよう。


なんて答えればいい?


最悪なタイミングで記憶が中途半端に戻ってしまったら。


鬼怒川鏡花にとって今の暮らし、この世界は幸せの絶頂そのものなんだ。


現実に帰ることは───────それは地獄へ堕とされるのと同義だ。


それはどうしても避けたかった。


ほんの一瞬でも、鬼怒川鏡花を地獄になんて堕としたくない。


例えこの世界が数秒後にリセットされるとしても───────────













“鬼怒川鏡花”自身が消えてしまう運命であったとしても、だ。


とにかく誤魔化せ。

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