ep6『さよなら小泉先生』 奈落の底で見る夢
何かの間違いであって欲しい。
鬼怒川豪翔。
絶対に忘れる筈のないその名前をここで目にするなんて思わないだろ?
なあ、嘘だろ?小泉?
嘘だって言ってくれよ。
お前があの男に孕まされて───────子どもを産んだとかジョークにしたって悪趣味過ぎる。
よくそんな設定思いついたな?
なあ?これって何かの冗談だろ?
俺の負けでいいよ。完敗だ。一杯食わされたよ。これで満足か?
なあ?どっかで俺を見てんだろ?そろそろ出て来てくれよ。
なんでも奢るしなんでも言うこと聞くから。
─────────頼むから誰か嘘だって早く言ってくれよ。お願いだから。
それともいつもの奇妙な夢なのか?
夢なら早く醒めてくれよ。
どうしたんだよ。
夢にしちゃ長過ぎるじゃないか。
メモを持つ手が震える。
ここに居る小泉に会いに行くっていうことは──────これが現実だって認める事になるのか?
だけど。
今から俺が会おうとしている小泉は『どっちの』小泉なんだろう。
大人の小泉の方か?それとも中学生だった小泉の方?
もし──────そのどちらでも無かったとしたら?
変わり果てた小泉に会う勇気が俺にあるだろうか。
それ以前に。
今の小泉の意識が中学生時代の記憶から連なるものだった場合は───────
『現在』の俺の姿が14歳のままだったとしたら不自然に思われるかもしれない。
本来なら────今の俺は小泉と同じ二十歳前後でないとおかしいもんな。
少し思案した俺は、一旦家に帰って死んだ爺さんの箪笥の引き出しを開けた。
いくらなんでも学生服で現在の小泉に会いに行くのはリスクが大き過ぎる気がした。
コスプレって訳じゃないが──────少し身支度が必要なように思えたんだ。
いや、もしかしたら────────俺は怖かったのかもしれない。
今のままの姿で小泉に会ったときに……俺のことがもうわからなくなってたら?
きっと俺は臆病者なんだな。
爺さんの箪笥から古びた背広と老眼鏡を取り出した。
ワックスを落とし、髪を下ろした後に七三分けにする。
老眼鏡を掛け、鏡の前に立った俺は思わず吹き出した。
ハロウィンか飲み会のふざけたコスプレみたいな服装だった。
いや、どちらかと言えば──────学芸会の小学生が舞台衣装を着てるみたいな奇妙なアンバランスさに近いだろうか?
きっと、振り込め詐欺の受け子ってのはこんな不自然なオーラが漂ってるんだろうな。
そう思いながら俺は気配を殺して家を出た。
こんな姿、概史や佑ニーサン、上野あたりにでも見られたら延々とネタにされそうじゃないか。
人に見られないように留意しながら俺がそのアパートに着いた頃にはすっかり日が暮れていた。
橋本アパートは想像以上に古びた建物だった。
ゴミ置き場の付近には不燃ゴミや資源ゴミが回収日でもないのに散乱している。
治安の悪そうな印象を受けながらも俺は103号室の前に立った。
ハートのコルクで出来た色褪せた表札には[きぬがわ]という文字が辛うじてこびり付いていた。
100円ショップで作ったとおぼしきハンドメイドのプレートがこの数年間の小泉の生活を俺に伝えているかのようにも思えた。
少し躊躇した後、俺は震える指でインターホンを押した。
返事はない。
もう一度インターホンを押すが、やはり応答は無かった。
留守だろうか。
鬼怒川さん、と何度か呼びかけたがやはり返事もなく、人の気配はない。
ドアの前の狭い通路には何処かからのお下がりと思われる錆びた三輪車と車体が泥だらけのアンパンマンの手押し車が置いてある。その付近には砂遊び道具らしいバケツやシャベルが無造作に転がっていた。
ここに住んで居るのは間違いないようだが─────────
留守かもしれない。
少しホッとしている俺自身に驚きながらも、また出直そうと廊下を歩き始めた瞬間だった。
目の前に───────ボロボロに朽ちた乳母車を押した女が立っていた。
艶のない白髪の長い髪に痩せこけた木乃伊のような身体。
生気を感じさせないその姿はこの世のものとは思えなかった。
関わってはいけない人種だ。
てか、このアパート治安悪すぎじゃね?妖怪ハウスかよ。
直感的にそう感じた俺は会釈しながら……まるでスラムのようなこの場所から足早に立ち去ろうとした。
だが、こちらの思惑とは裏腹に───────白髪の女は掠れた声を発し、俺を引き止めた。
「……うちに何か……ご用でしたか?」
その容姿からは想像もつかないほど若い声。
その声には確かに────聞き覚えがあった。
脊髄に氷柱をブッ込まれたような衝撃を受けた俺はゆっくりと振り返った。
それはかつて……『小泉鏡花』と呼ばれていた人間の──────成れの果ての姿だった。
地獄の底には更に底がある。