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グラニースミス

 突然の死だった。


 母方の祖父が亡くなったと昨晩知らされ、まだ着慣れないスーツに袖を通して、実家への帰路にいた。享年 75歳。死因はアルツハイマー型認知症による誤嚥性肺炎。


 祖父とは母の離婚が原因で疎遠となり、唯一交流のあった幼少期の思い出はとうに忘れ、それ以降の記憶はぽっかりと空いていた。実の祖父であるにも関わらず、顔はおろか名前も思い出せないでいた。


 実家までの道のりは、山脈を切り崩して作った線路をただ真っ直ぐに進む。車窓から流れていく木々は、赤、黄、緑と見事なまでに色付いていた。


 そんな景色とは裏腹に、だらだらと続く残暑に止まる蝉のように車内は騒がしかった。それに加えて、左斜め前に座る団体が駅弁を食べ始め、新車みたいな匂いにそれが混じって、嫌でも旅行ムードに酔ってしまいそうだった。


 それでも僕は、長距離移動が好きだ。移動するという目的のもと合法的に、ぼうっとできるからだ。座ってるだけでどこか遠い場所へ、身体ごと連れ去ってくれる。


「隣、失礼するよ」


 突然話しかけられ、目覚ましで飛び起きたみたいにビクリと現実に引き戻され、声のする方へ身体を捻った。

 その落ち着いた芯のある声は、どんなに騒がしい場所でも真っ直ぐに僕の耳へと届いた。


 通路には、ハンチング帽を目深に被ったおじいさんが立っていた。きっちりと着込んだグレーのジャケットの下からは、赤いチェックシャツが覗いていて、肩から大ぶりなカバンをたすき掛けにしている。


 軽く会釈だけをして、何食わぬ顔で車窓の方へと向き直した。

 肩からバッグをおろし、おじいさんがゆっくりと座ったその一瞬、爽やかな匂いが鼻の奥を抜けた。


 匂いの正体を辿ろうと隣が気になってしょうがなかったが、自分の領域からはみ出さないように精いっぱいで、1人落ち着けないでいた。


 そんな僕を気遣ってなのか、おじいさんは優しく落ち着いた声で話しかけてきた。


「これからどこへ行くのかね?」


「実家へ。祖父が亡くなったので」


「それは失礼した」


 おじいさんは、帽子を被り直した手のやりどころに困っている様子だった。


「いえ、いいんです。ほとんど顔も知らない人なので」


 出来るだけおじいさんに気を遣わせないように淡々と返したが、ここで会話を終わる訳にもいかなかったのでキャッチボールを続けた。


「あなたはどちらまで?」


「わたしは家に帰るんだよ。これを戻しに」


 そう言うとおじいさんは大きな手提げ袋から1枚のレコードを取り出した。


「これがなにかわかるかね?」


 ジャケットを脱ぎながらおじいさんは尋ねた。


「グラニースミス」


 そのレコードの盤面にはグラニースミスが印刷されていた。普通なら“青りんご”とか“レコード”とか答えるだろうところを、流れるようにそう答えていた。


「よく知っているね。そう、これはグラニースミス。ビートルズが設立したアップルレコードのシンボルマークだ」


 車窓からの朝日がスポットライトみたいにおじいさんを照らしていた。


「故にこのレコードに収録されている楽曲はビートルズの曲だ。わたしの大好きなアーティストでね。1人でいるときも、みんなでいるときもいつもすぐ傍にあった音だ。君は、ビートルズを聴くかね?」


 あまり音楽を聴かない僕は、その問いに対して少しだけ喉の奥がイガイガしていた。


「有名な曲なら多少知っています。レットイットビーとか」


「ああ、いい曲だね。音楽は本当にいい。別にそのアーティストの曲をすべて知らなくてもいい。何か気に入った曲が1曲でもあればそれだけで」


 おじいさんは、まるで子どものときに遊んだおもちゃを眺めるみたいに、レコードをただ一心に見つめていた。


「ええ、その通りだと思います」


 おじいさんが考え方の偏った熱狂的ファンでなくてよかったと、心の底から安堵した。


「レコードを見るのは初めてかね?」


「たぶん初めてだと思います」


 僕はありもしない頭上の記憶のレコードを見ながら、曖昧に答えた。


 そのレコードをおじいさんは、リレーのバトンみたいに、落とさないよう慎重に、そして確実に手渡してくれた。綺麗な黄緑色をしたグラニースミスの真ん中には、虫が食べたみたいな“穴”があって、表面をよく見ると、"溝"は交わることなく行儀よく綺麗な渦を巻いていた。


 レコードの知識はあまりないが、蓄音機で流すために、"穴"や、"溝"が必要だってことくらい何となく想像がついていた。

 "穴"を覗きこみながら、ふと祖父のことを思い出していた。


「そうだ、僕の祖父も音楽が好きで、レコードを集めていたんです。それもビートルズ」


「おお、それはいい。きっと話があったろうに」


「そうですね。このレコードを流しながら、お酒でも飲んできっと楽しくお話できたでしょう」


「ああ、君もビートルズを知る一人だ。きっと楽しい時間が過ごせるよ」


 少しだけその場面を想像してみた。聴き慣れない異国の音と共に、3人の笑い声が聞こえる。


「そうだ。そうしたらその時はアップルパイを振る舞おう。こう見えて昔、パティシエをやっていてね」


 自慢気に肩を回しながら、そのままの勢いでおじいさんは続けた。


「そのレコードの盤面に印刷されているグラニースミスは、日本では希少な青りんごの品種でね。生のグラニースミスの糖度は大体 6.2、火を通すと糖度は 11.6 ほどまであがる。だから、グラニースミスはアップルパイを作るのに適しているんだよ」


 自分の知識をひけらかす訳でもなく、ただ、孫のために丁寧に、丁寧に教えてあげるような、そんな口ぶりだった。


「よかった。アップルパイなら食べられそうです。リンゴアレルギーなんです。生のリンゴが食べられなくて」


「残念ながらレコードの盤面のグラニースミスは、生のりんごだ」


 子どもみたいにいたずらに笑うおじいさんを見ていると、なぜか懐かしい気持ちになった。


「さてと、私はそろそろいくとするよ。老いぼれの話に付き合ってくれて、どうもありがとう」


 おじいさんはそう言い残すと、僕に渡したレコードなんか見もせずに、そそくさと先頭車両の方へと消えていってしまった。


 おじいさんが立ち去る瞬間、ふっと、また爽やかな匂いがした。不意に眠気が襲ってきて、そのまま目を瞑ってしまっていた。


ああ、この匂いは、そうか。


瞼の裏の景色をぼんやりと眺めていた。切り立った丘の上。そこに建つ一軒家で楽しそうに男の子が走り回っている。家から1人のおじいさんがアップルパイを手に、ゆっくりと出てきた。目を輝かせながら、待ちくたびれた様子もなくおじいさんに向かって駆けていくその男の子は、まるで尻尾を振りながら今にも飛びつこうとする犬みたいだった。




---




 車窓からの眩しさに瞼をギュッとし、目を覚ました。隣を見ると先ほどのおじいさんが座っていて、目を覚ますのを待っていたかのように、優しい目でこちらを見守っていた。


「これからどこへ行くのかね?」


 寝ぼけた頭で自分の行き先を伝えた。


「実家ですよ。祖父が亡くなったので」


「ああ、そうか」


 おじいさんは、帽子を被り直した。


「あなたはどちらまで?」


「わたしは家に帰るんだよ」


 おじいさんの次の言葉を慌てて手で覆うように、質問を続けた。


「ところでビートルズは聴きますか?」


「ビートルズかい?ああ、大好きさ。ちょうど君が持っているレコードと同じものを持っていたよ」


 手元の綺麗な黄緑色したグラニースミスのレコードに、視線を落とした。


 虫の食べた穴をしばらく眺めていると、ふっと、爽やかな匂いが僕の中いっぱいに広がった。まだ少しだけ喉の奥がイガイガする。


 僕はただ、グラニースミスの輪郭をそっと撫でているばかりだった。

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