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絆創膏

作者: 式神

高名な音楽家が口にする壮大な言葉が嫌いだった。


「世界を変える」なんて馬鹿馬鹿しいと思っていた。

 夜10時過ぎ。

 コンビニ弁当を安酒で流し込みながら、動画配信サイトで配信されたばかりの海外ドラマの最新話を鑑賞する。顔だけが整った役者が、同じようなテイストの脚本に沿って演じる恋愛ドラマは、安酒の肴にはぴったりだった。これでヒロインが不治の病にでも侵されれば完璧な流れだ。

 

 毎日が、この繰り返しだった。

 朝早くに家を出て、頭の容積の小さい上司の小言を受けながら明らかに勤務時間では終わらない量の仕事を押し付けられる。心の深奥が燻んだ色になっていくのを感じながら無心でデスクに向かう。与えられた業務を全て終えて帰路に着く頃には、日はすっかり落ちていた。

 毎日同じコンビニで同じ弁当を買い、週末だけ安酒を買って晩酌をする。こちらの陰鬱な雰囲気を察してか、最初は気さくに話しかけてくれた店員も今は軽い会釈をするだけだ。売れない漫画家みたいな見た目をしている奴に同情されているのは、少しだけ癪だった。お前の人生も自分と同じだぞ、と愚痴をこぼしたくなる。



 趣味はない。これといった特技もない。

 友人と呼べる人は大学を卒業してから疎遠になっている。

 そもそも少ない休みは家事と惰眠に溶けていく。



 きっと自分の人生は、この6畳のワンルームから広がることなく終わるのだろう。この狭い一部屋が自分の世界の全てで、ここで生きてここで死んでいくのだ。学生時代には狭いと感じていたこの部屋も、今ではちょうど良い。上京した時に抱いていた、「いつかもっと大きな部屋に住もう」という野心は、心に走った亀裂から滴り落ちていった。






(あぁ……今日もか……)



 単調な展開のドラマを見終え、不味い酒を呷っていると、ふと、壁の向こうから小さな音が聞こえてきた。

 音楽に疎い自分でも、それがピアノを奏でる音ということくらいはわかる。ただ、それだけだ。

 

 何という曲なのか、この演奏は果たして上手い部類に入るのか、そもそも隣には誰が住んでいて誰がこの音色を鳴らしているのか。壁の向こうの世界は、ピアノの音が漏れてくるくらいの薄い壁に隔たれていた。


 もうこれで2ヶ月になる。毎日、毎晩、この音色が聞こえてくる。

 唯一違うのは、その音色が日に日に美しくなっているということだ。日を追うごとに音を外す回数が減り、連続して弾く時間も長くなっている。




(毎日毎日、飽きもせず、よくやるな……)



 紡がれる音が、素晴らしい価値を持っているとは思えない。

 華やかな世界を闊歩する煌びやかな人たちが残す軌跡と比べれば、聴こえてくる音はどこにも届かず、きっと夜陰に溶けて終わるのだろう。



(ただまぁ……いい音だな……)



 今や死んでいない(・・・・・・)だけだと思っていた自分が、それでも頑張ろうと思えるのは、きっとこの音色を聴いていたいからなのかもしれない。


 壁一枚隔てた向こうから流れる、誰が奏でているのかすら分からない小さな音色を聴きたくて、きっと自分はまた明日も生きるのだろう。

 度数9%の安酒を一気に流し込む。変わらぬ不味さが精気を欠いた体に沁みる。





 夜が、更けていく。




 ピアノの音色が、心奥に広がった空隙を埋めていくようだった。


6畳の世界は、案外簡単に変わってしまうんだ。

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