鈴のこえ
あれは小学校四年生の夏。ちょうど終業式の帰りの出来事だったと彼は記憶している。
その日、少年は放課後になったら家でたっぷり熱中できるはずの新作ゲームのことで頭がいっぱいだった。
親に課されたドリルの山を、夏休み直前にようやく崩してお許しが出た。
そうして手に入れた念願の新作ソフトは、先にプレイしていた友人の感想によると、かなりのボリュームで、やりこみ要素も申し分ないらしい。夏の前半かけて隅から隅までコンプリートしてやるつもりだった。
長話がおしまいになるのを今か今かと待ち構え、帰りのホームルームが終わるや否や、誰よりも早く教室を飛び出し、なるべく日陰を選んで家路を急ぐ。
宿題に、習い事に、友達との外出に、家族旅行に、小学生の夏は盛り沢山で忙しい。けれどひとまずは、勝ち得た報酬を堪能する権利がある。
少年の頭は一日中、ゲームのことでいっぱいのはずだった。
――そんなとき。
本当に、風がひとひら頬を撫でるように、あるいは誰かがいたずらに息を吹きかけるように、その音はふっと彼の耳を伝わって、胸に、腹に、体中に、ゆらり、ゆうらり、しんしんと、通って落ちていった。
それはちょうど、乾いた土に、水が染み通ってうるんでいくように。
「おやおや坊ちゃん、聞こえなすったか。いいお耳をお持ちで」
少年は目を見張る。音を探して振り返った先、いつもの通学路に未知のものが現れていた。
少年の家は閑静な住宅街、平地より少し高い丘のような場所に位置していた。それで家から移動する際には、どこに行くにも必ず長い石階段を通る必要があった。
その一番下、階段を上る前のフロアといえるだろうか、その場所の、少年から右手側の脇。ちょこんと、見たこともない怪しげな男が出現しているのだ。
正午を過ぎてますます強まる日差しの下、歩いているだけでも汗だくになりかけている彼と違って、陽炎の立ちそうなアスファルトの上、日向にいるくせに涼しげな雰囲気をかもしている。
と言っても、顔が見えないから表情はわからない。黒と灰色のストライプが入った甚平の上には、何重にも撒かれた手ぬぐいと縁日の仮面――たぶん猿のお面だ――にきっちりガードされた頭部があった。
下は下駄のくせになんだかバランスが悪いな、なんてぱっと見て思う。頭部がとにかくごてごてしい。
まるで何か見せたくないものを、くるんでつつんでぐるぐる巻きにして、人の目から隠してしまおうと言うかのように。ずばり言ってしまえば、不審者そのものだ。
そうやって頭だけちょっと着ぐるみみたいなシルエットになっているくせに、首に汗粒の一つもない。なんというかこう、余裕というか、ひょうひょうとした態度が涼を感じさせる。
もしかしたらあの頭の中に氷の束でも仕込んでいるのだろうか。
……想像すると大分シュールである。
少し面白くなると、異様な雰囲気への本能的な恐怖が薄れた。
そんな男の持ち物も、また大層奇妙だった。
なんと言えばいいだろう? 木の棒が一本肩に担がれていて、その前後に棚のような箱のようなものがくっついている。木製のハンガーラックの底部に箱がついている、と言う感じだろうか。
そして、掛ける場所には衣服ではなく、おびただしい数の鳴り物飾りが、おのおの勝手な音を奏でながら、ぶらんぶらんと揺れているのだ。
男がちょっと体を動かすと、一斉に彼らは歌い出す。
ちりんちりん。
りぃぃ……ん。
ころんころんころん。
カンカンカン……。
こん、こん。
しゃららん、らん、らん。
しゃんしゃん。
形も色もバラバラなら、音も散々個性派ぞろい。似通っているようで、まったく何もそろっていない。
思わず少年は眉をひそめる。
「なあに、それ」
「風鈴ですよぅ。音で涼を取るんでさ。今時の子はもう、知らねえのかねぇ」
うさんくさい男は、細長い指で一連ずらりと並ぶ短冊を撫でた。
悲しいねえ、とつぶやく男の声に応じるように、ひそひそと小生意気な鈴どもがこすれ合って囁き交わしている。
少年はむっとして顔をしかめた。
「そんなことは知ってるよ。なんでそんなに並べているのか、聞いているの」
「手前は風鈴売りでござりますゆえ」
「風鈴だけを売ってるの?」
「そうでござぁい」
「なんで?」
「天命でございやすからねぃ」
「……変なしゃべり方。なんかのキャラ?」
「手前の性分にございやすよぅ」
言葉を交わせばますます怪しい。
不審人物と目を合わせてもいけなければ口をきいてもいけませんとは、懸命な親が子に贈る昔ながらの身を守る知恵である。
だのに少年がこのいかにも常ならぬ男と会話を続けたのは、尾を引く音が鼓膜にしっとり絡んで離れないせいだろうか。
風鈴の存在ぐらいは、いくらスマホや携帯型ゲームに夢中な彼とて知っている。
けれど、マンション住まいであれば軒先にむやみやたら音が鳴るのものをむやみに放置するのは騒音の元、マナー違反とすら言われる時代である。
少年の家は戸建てであったが、庭はあっても縁側はない。虫刺されが嫌な現代人は、暑くなると外に出るより締め切ってクーラーに頼るのが普通であり、風の音を楽しむ文化は今までなかった。
「結構、鳴り方も見た目も違うんだね」
「そうですよぅ。こうやって比べると面白うございんしょ? 坊ちゃんはどの娘がお好みでしょうかねぇ」
夏の日差しを受けてキラキラと輝きながら自己主張を重ねる風鈴達の前で、少年はふっと目を閉じた。
しばらく、闇の中で手繰る。
自分の足を止め、今この場にとどまり続けさせる。それは一体誰の声なのか?
じっとじっと、耳を澄ませる。
呼吸も心臓の音も、邪魔に思える瞬間。
「……この娘がいい」
つい、男につられてだろうか。そんな風に口走った。
ゆっくりまぶたを開けて指さした先には、赤と青の金魚の模様が描かれた、透明で丸形の風鈴がちょんと行儀良くすましていた。ガラス製だろうか? 揺れているとちょうど、金魚鉢の中で二匹が泳いでいるように見える。
碗の口の所に当たって音を鳴らすための重りの部分は、細長い筒のような形をしていた。たぶんこれもガラス製だ。
その下にぶら下がる短冊の模様は流水紋。藍色の中に、するすると白が流れている。
「舌と呼ぶんでさぁ」
少年の視線を追ってだろうか、風鈴売りが重りの筒の部分を指さして言った。それは当たるとりん、きん、と少し鋭い音を立てる。余韻はそこまで長くないが、皆無ではなく一瞬だけすっと線を引く。
強い風に煽られると、きん、ころろろきん、りりん、とこれまた少し色の違う音を奏でている。
両隣には姉妹だろうか、模様の違う同じ形の風鈴が並んでいたが、三人が三人とも、別の音を出すのが、面白くも不思議である。
そのままじいっと魅入っていると、ひゅうっと男が口笛を吹いた。
「ほほう、坊ちゃんは江戸娘がお好きですか? まっすぐな良い子なんですが、気が強くてちとわがままねえ。ですが、坊ちゃんのような心の清い方に見初められるなら、この娘も悪い気はしないでしょう。どうだね、お前。こちらの旦那さんは」
りん、きん、ころりん。
風鈴は気持ちのいい音を立てた。
「そうでございやしょうとも。これほどいいお耳の持ち主は少ない」
男は大きくうなずくと、そっと自分の肩から一度風鈴達を吊す棒と棚を下ろした。それから改めてうやうやしく金魚に両の手を伸ばすと、大きなすす汚れた手ではずそうとする。
その段になって、少年はようやくはっとして慌てた。
「ぼく、買えないよ。お金がないし、お父さんお母さんに怒られちゃう」
つい、美しく芯の通った音に惹かれるように男と話を進めてしまっていたが、相手は風鈴売り。ということは少年は客として認識されているのだろうが、単純に好きな音を選んだだけで、買うつもりもなければ持ち合わせもない。
さらに、こんな得体の知れない相手から渡されたもの、持って帰ったら絶対に両親はいい顔をしない。
ぎょっと目を丸くし後ずさろうとした彼に、風鈴売りの男はちっちっちと指を振って見せた。
「聞こえませんよぉ、坊ちゃんと違って耳の悪い人たちには。それにお代なんていりやせん、ご縁でございやすから。跳ねっ返りのふつつか者ですが、可愛がっておくんなせえ。きっときっと、一生懸命ご奉公いたしますから」
りん、きん、りんころりん。
金魚の風鈴が鳴ると、少年の手はほとんど勝手に伸びて、男から彼女を受け取っていた。まるで最初からそこにあったというように、少年の手につるされた風鈴はよくなじんだ。
りんころきんきん。
お転婆娘が高らかに喜びの声を上げる。
呆然と立ち尽くす彼の前で、風鈴売りは再び商売道具達を背負い直す。
「坊ちゃま。どうかよいお耳を大切に。いい音をたくさん聞いて、その分、それ以上に響かせてくだしゃんせ」
ひょこり、と彼が頭を下げると、次の瞬間突風が吹いた。
風鈴達が一斉に喚いている。彼の手の中の金魚も鳴いている。
笑って、さざめいて、踊って、高らかに――。
吹く、吹く。風が舞い上がる。渦を巻いて、空に、天に、消えていく。上って、回って、嵐のように。
気がつくと彼は、いつも通りの通学路の石段に立ち尽くしていた。
怪しげな風鈴売りもなければ、所在なく出されている右手に下がるものもない。ぽちゃん、と水面に小さなものが飛び込む音がして、どこかで波紋がふわりと揺れて、それっきりだ。
しばしの間、たらりと暑さに汗を浮かべながらきょとんとしていた少年だったが、すぐに新作ゲームの存在を思い出し、慌てて石段を駆け上がっていった。
そして再び日常が始まれば、ふとした瞬間の非日常など、あっという間に忘れ去られていった。
***
「これ、新作案?」
散らしていた紙の一つを取り上げて、若い女は尋ねた。
紺色の甚平姿の男は、背後の彼女の様子をちらりと一瞥してから、手元のパソコンに素早く目を戻す。
「さあねえ」
「たくさん擬音語が書いてあるけど」
「どれもしっくりこないんだよ」
「ふーん?」
彼の反応は淡泊で鈍かった。集中のスイッチが入ったということなのだろう。
彼女はそれ以上男に話しかけようとせず、鞄から文庫を取り出して読んでいる。
三十分程度、室内には時計の鳴る音、タイピングの音、ぱらぱらと紙をめくる音だけが静かに静かに奏で合う。
ふと、音が止まった。女は栞を挿すと、本を閉じて顔を上げる。
「終わった?」
伸びをして、ついでにあくびもした後、男は振り返ってほほえんだ。
「まだ。でも、きりのいいところまではいけたかな」
「じゃ、お昼食べに行こうよ。もうぺこぺこ」
今度は苦笑した。
彼女が部屋に押しかけてくるようになってから、格段に食生活が改善されつつある。
何せ見張られている限り、文に熱中して食べ忘れる、ということをしなくなるため。
お節介には時折鬱陶しく感じてしまうこともあるが、前より健康的な生活を送っているおかげで、結果的にリズムも整って一日に書ける量も総合すると増えた。感謝するところなのだろう。
「先出てて、窓確認して電気消してくから」
「はーい。じゃ、車で待ってるね」
家主が声を掛けると、彼女の気配は玄関の方に遠ざかっていく。
パソコンを閉じ、クーラーをリモコンで操作し、手早く荷物をまとめてマンションを出るとうだるような夏の暑さが全身を包み込む。
ふと、まぶしくさに手をかざしたまま、立ち尽くした。
彼は何度か、自分の右手を振ったり握りしめたりして確認してみる。
どんなに目をこらしても、もうそこに風鈴の影を見ることはない。
けれど、時折、耳の奥に声が響く。
虫の知らせと言う言葉があるが、彼には鈴の知らせが届く。風もないのに揺れて、指先から心の深い深いところまでしみ通る。
時には慶事を。時には凶事を。信じて良い音の示す方に行けば、選択を違えた事はなかった。今の恋人と巡り会ったのも、彼にだけ聞こえる風が導く鈴の音がきっかけだった。
その声を、追いかけて、指先でなぞるように、輪郭を思い出そうと、絞り出して、紡いで――気がつけばいつの間にか、音は言葉になり、文字になり、そして縁と縁につながる。
かつて勉学などよりもゲームに夢中だった少年は、いつしかパソコンやノートにかじりついて文をこねくり回す男に育ち、今では緻密で繊細な描写に定評のある売れっ子作家になっていた。
それでもまだ、実力派だとか筆力があるとか世間からは言われていても、あの夏には到底たどり着けていないと歯がゆく思う。
――きっときっと、一生懸命ご奉公いたしますから。
――いい音をたくさん聞いて、その分、それ以上に響かせてくだしゃんせ。
幼い夏に、指先にとけてとろけて逃げていった彼女のことをふと思う。本当によく頑張ってくれている。けれど自分は? はたして応えられているのだろうか。
扉を閉めて、鍵をかけてから、彼は自分の掌に影とつぶやきを落とした。
「なあ。ぼくはちゃんと、お前のいい旦那様かい」
りん、きん、りんころりん。
ぬるい風の合間、近くて遠い場所に転がるように響く娘の楽しく密かな囁き声に、作家は安堵の笑みを零した。